縁有る事 5
漢城の暴動鎮圧、ならびに首謀者である大院君の死。
その報せが海底電信ケーブルを通じて帝都・東京にもたらされると、日本国内は戦勝の歓喜に沸いた。
「我が大日本帝国陸軍、居留民を救出し、暴徒を完全鎮圧!」
号外が宙を舞い、木戸内閣と軍部に対する民衆の支持率は鰻登りに跳ね上がった。
しかし、その熱狂の中で奇妙な現象が起きていた。反乱の首謀者であり、数万の軍勢を動かしたはずの「大院君の凄惨な最期」について、国内の新聞は驚くほど小さな扱いでしか報じなかったのである。
『首謀者の一人であった旧体制の王族は、逃亡中に現地の不満分子によって討たれた模様』
民衆にとって、海の向こうの権力者の名前などどうでもよいことであった。彼らはただ「自国の軍隊が勝ち、治安を回復した」という事実だけで満足し、日常へと戻っていった。
これは決して偶然ではない。
滝脇慶家、そして彼と連携する木戸孝允や徳川慶喜ら国家首脳陣による、意図的な『世論のコントロールの実験』であった。
「……民衆の『熱狂』は、国家を滅ぼす劇薬だ」
慶家は、陸軍省の自室で新聞記事を眺めながら、冷徹に呟いていた。
いくさに勝利して熱狂した民衆は、必ず「もっと敵を殺せ」「もっと領土を奪え」と政府を突き上げ始める。史実において、日本が日露戦争後に日比谷焼打事件を起こし、やがて軍部の暴走を大衆が熱狂的に支持して破滅へと向かったことを、彼は知っている。
だからこそ慶家は、大院君という「巨大な敵を打ち破った」というカタルシスを民衆に与えなかった。敵を単なる「つまらない首謀者の一人」に矮小化し、愛国心の暴走を未然に鎮火させたのである。指導者が国民の熱狂を徹底的に嫌悪し、冷めた理性で手綱を握る。
この高度な情報統制の成功は、日本の平時体制が極めて強固であることを証明していた。
駐日外交官たちの戦慄と、列強の「傲慢」
一方で、この事態を最も重く、そして恐怖をもって受け止めていたのは、横浜や築地に駐在する欧米列強の公使館員たちであった。
「……あり得ない。いくら何でも、すべてが日本にとって『都合が良すぎる』」
イギリス公使は、前線から送られてきた武官のレポートを読み、青ざめていた。
他国の暴徒を、味方の損害をほぼゼロに抑えて鎮圧しただけでも脅威である。その上、日本の国益にとって最大の障害となるはずだった首謀者(大院君)が、日本軍の手を一切汚すことなく、現地の民衆の手によって最も残酷な形で処理されているのだ。
「偶然ではない。日本の諜報機関が、大院君の逃走ルートに情報を流して民衆を扇動し、暗殺させたのだ。……この国の軍隊は、兵士の銃弾ではなく『情報と謀略』で戦況を完全にコントロールしている!」
公使たちは、極東の島国がすでにヨーロッパの列強すら凌駕するほどの「近代的な謀略戦の能力」を持っていると確信し、本国(ロンドン、パリ、ベルリン)へ向けて『日本に対する最大級の警戒』を促す緊急電報を打った。
だが――。
それを受け取った欧米の本国政府の反応は、外交官たちの絶望を誘うほどに冷淡なものであった。
『極東の黄色人種同士の些事である。近代化の真似事をしているとはいえ、所詮はアジアの小国。過剰な警戒は不要』
19世紀の欧米を支配していた、圧倒的な「白人至上主義」。
彼らの傲慢な色眼鏡には、日本軍の高度な情報戦も兵站管理も「アジアの野蛮な争い」としてしか映らなかった。本国が真剣に取り合わなかったことで、日本は列強からの干渉を受けることなく、さらなる軍備拡張と大陸への足場固めを行う『貴重な時間(猶予)』を完璧に手に入れたのである。
そして、この壬午事変の圧倒的な戦果をもって、日本陸軍内部における「軍制論争」は、完全に、そして不可逆的に決着した。
「……もはや、普魯西式の教条主義を唱える者は、参謀本部に一人もいなくなったな」
第三師団長・国司順正は、帰還後の報告会において、慶家に向かって深く頷いた。
かつては「兵士に裁量を委ねるなどコストの無駄だ」「匍匐前進など卑怯だ」と喚いていたプロイセン派の将校たちも、この結果の前には完全に沈黙するしかなかった。
命令が届かなくなった途端にただの的と化した朝鮮の新式部隊と、現場の判断で流動的に動き、最小の損害で敵の急所を抉り続けた第三師団。その差は、あまりにも残酷なほどに明白であった。
陸軍の首脳陣たちは、一つの冷酷な真理に行き着いた。
「いくさが汚かろうが卑怯だろうが、一切関係ない。正面から戦わずして敵を粉砕し、味方の兵の命(被害)を最小限に抑えつつ、政治的な最大成果を得られるのならば……それこそが近代軍隊の至高の芸術である」
滝脇慶家が提唱し、己の執念と前世の記憶をもって組み上げた、情報、兵站、そして独自裁量による分散機動。
のちの世において、列強の軍隊を次々と泥沼に引きずり込み、すり潰すことになる恐るべき戦闘教義――『日本式陸軍』の体制は、ここに確固たる国家の暴力装置として、完全に完成を見たのである。
―――
暴動が鎮圧され、高宗と閔妃が漢城の王宮へと帰還を果たした後。
日本政府は、事後処理として朝鮮との間に「済物浦条約」を締結した。
自国の公使館を焼かれ、要人を殺されかけたのだ。当時の帝国主義の常識からすれば、莫大な賠償金をふっかけるか、領土の一部を割譲させるのが当然の報復である。
しかし、日本の外交団は不気味なほどに冷静であり、その条約の内容は、表面上は極めて『寛大』に見えるものであった。
日本が朝鮮に対して突きつけた条件は、怒りに任せた略奪ではなく、極めて冷徹な「国家の完全掌握」であった。
* 第一・軍の事実上の接収: 朝鮮軍を解体しない代わりに、「朝鮮政府には軍を統制する能力がない」という名目のもと、日本軍の指揮下に組み込む。兵士たちは日本の指導の下、日本語で号令をかけられ、日本式の軍事教練を施されることとなった。(これは実質的に、日本が朝鮮の兵士を「自国の補助戦力」として無料で手に入れたことを意味する)。
* 第二・日本軍の駐留権: 公使館や居留民、および各国要人を保護するという大義名分のもと、朝鮮国内への日本軍の合法的な駐留を認めさせた。
* 第三・公式な謝罪: 今回の暴動に関する、日本および関係国(メレンドルフが殺害されたドイツなど)への謝罪。
* 第四・内地活動(遊歩規定)の拡張: 日本の商人が開港地(釜山、元山、仁川)から自由に移動・商売できる範囲を「50里(のちに100里)」へと大幅に拡大。これにより、日本の資本が朝鮮の内陸部へ深く浸透する血管が完成した。
* 第五・外交官の国内旅行権: 日本の公使や領事が、朝鮮の地方を自由に旅行(視察)できる権利。滝脇慶家の放つ諜報員(草の者)たちが、堂々と外交官の身分で内陸の軍事情報を集められるようになったのである。
そして、この条約の最後に、日本政府は極めつけの「確認事項」をねじ込んでいた。
『朝鮮は、日中何れにも属せず(完全なる独立国であることを承認する)』
表向きは、朝鮮の主権を尊重する美しい文言である。
しかし、軍事指揮権を握られ、内陸部まで経済を浸透させられ、首都に他国の軍隊が駐留している時点で、朝鮮が事実上の「日本の属領(保護国)」に成り果てたことは、欧米の外交官たちの目には火を見るよりも明らかであった。
「……大砲を撃ち込んで政府を吹き飛ばすのではなく、見せかけの寛大さで『国の骨組み』だけを綺麗に抜き取ったのだ」
列強の公使たちは、血を流さずに他国を丸呑みした日本の外交手腕に、背筋を凍らせた。
この条約に対し、最も激しく、そしてヒステリックな抗議の声を上げたのが、長年朝鮮半島を自らの「朝貢国(属国)」として扱ってきた清国であった。
「日本風情が、勝手に我が属国と『独立』の条約を結ぶなど言語道断である!!」
清国がこれほどまでに激怒したのには、領土的な野心とは別の、極めて深刻な『メンツ(中華思想)』の問題があった。
朝鮮が清から独立し、日本と対等な立場で条約を結んだ。
そして、その朝鮮を実質的に軍事・経済の両面で支配しているのは日本である。
この三段論法が導き出す答えは、清国にとって到底受け入れがたい屈辱であった。
すなわち、『極東の小島に過ぎない日本が、大国である清よりも上の立場(上位国)に立った』と、世界に向けて間接的に宣言されたに等しいのである。
この日を境に、清国が日本へ向ける眼差しは「見下していた小国」から「不遜で生意気な敵国」へと完全に反転した。
清国の実力者・李鴻章は、直ちに北洋艦隊の増強と、陸軍の近代化を急ピッチで進めるよう号令を下す。日本との外交関係は一気に氷点下へと冷却され、両国の間には、もはや言葉では埋められない『殺意』が明確に横たわることとなった。
―――
帝都・東京。陸軍参謀本部。
滝脇慶家少佐は、大日本帝国と清国の国境線が赤く引かれた東アジアの巨大な地図を見上げ、冷たく笑った。
「……随分と分かりやすく、清国の顔色が変わったな」
「滝脇少佐。清国が本格的に軍備の増強を始めました。いずれ必ず、朝鮮半島の利権を巡って衝突することになりますぞ」
同僚の参謀の焦った声に対し、慶家は事もなげに首を振った。
「衝突するのではない。私が衝突『させる』のだ。……朝鮮(防波堤)を手に入れた以上、次はこの盤面から、清国という巨大な古い駒を完全に盤外へ叩き出さねばならない」
壬午事変という小さな火種は、極東アジアのパワーバランスを根底から覆し、やがて来るべき『日清戦争』という巨大な国家総力戦へと続く、修羅の道の扉を完全に開け放ったのである。




