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葵三つ葉  作者: 丸亀導師
縁有る事
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縁有る事 4

陸軍内部において、第三師団長である国司順正(くにし じゅんせい)という男の立ち位置は、極めて冷静な『パワーバランサー』であった。


彼は、陸軍を二分しつつある「普魯西(プロイセン)式教条主義」と、滝脇慶家らが推進する「日本式陸軍(分散・独自裁量型)」の、どちらにも与しない中立派であった。


国司の目には、双方のメリットとデメリットが正確に見えていた。


* 普魯西式の利点と欠点: 兵を機械の歯車として扱うため、個々の訓練時間が短く済み、圧倒的に「低コスト」で大軍を編成できる。しかし、命令がなければ動けぬ硬直した陣形は、実戦において『甚大な損害(兵士の死)』を前提とする。


* 日本式の利点と欠点: 下士官や兵卒の一人一人に戦況判断と柔軟性を求めるため、教育と訓練に途方もない「高コスト」がかかる。しかし、現場の判断で臨機応変に動く部隊は、結果として『損害を極限まで抑え込む』ことができる。


今回の朝鮮出兵は、奇しくもこの二つの軍制思想の「どちらが実戦における最適解か」を証明する、巨大な実験場となっていた。


明治15年、夏。

日本の第三師団が釜山(プサン)に上陸すると、彼らはかつての秀吉の軍勢とは比較にならない、近代軍隊としての恐るべき速度で北上を開始した。


これを可能にしたのが、慶家が事前に構築していた「海軍との完全なる連携」である。


日本海軍は、圧倒的な装甲と火力で朝鮮半島沿岸の海上優勢を即座に確保。第三師団の北上に合わせ、海上から別働隊を次々と要所に揚陸させて側面を制圧し、同時に輸送船団によって弾薬と特製糧食(麦飯・肉缶詰)を途切れることなく前線へと送り込み続けた。


これを見た朝鮮南部の両班(ヤンバン)たちは、日本に保護された高宗を「御旗」として担ぎ上げ、ちゃっかりと官軍の顔をして軍を動員し始めた。だが、所詮は日和見の烏合の衆であり、彼らの士気は地の底を這うほどに低かった。


国司や慶家は、彼らを戦力とは見なさず、ただの「政治的な弾除け(大義名分)」として後方に配置した。


釜山上陸から約一ヶ月半。

怒涛の進撃を続けた第三師団は、ついに漢城(ソウル)の喉元である漢江(ハンガン)近郊において、クーデターの首謀者たち――高宗の父である大院君(テウォングン)を神輿に担いだ『旧式軍・反乱部隊』と対峙した。


反乱軍は数万。中には、かつて日本や清国の顧問団から訓練を受けた「新式部隊」も取り込まれていた。


彼らは最新の小銃を持っていたが、その戦術思想は「フランス式と普魯西式の中途半端な混合」であり、司令官の指示がなければ一歩も動けない硬直した軍隊であった。


最前列に陣取った反乱軍の兵士たちは、後方の大院君と司令官からの「突撃命令」をじっと待っていた。

だが、待てども待てども、軍鼓は鳴らず、伝令は来ない。


数万の軍勢が、奇妙な静寂の中で完全に硬直していた。


「……滝脇参謀。敵の指揮系統は、どうなっている」


双眼鏡を下ろした国司師団長が、背後に控える若き少佐に問う。


「すでに『刈り取って』あります、閣下」


慶家は、懐中時計の時間を確かめながら淡々と答えた。


「昨夜のうちに、我が方の隠密が敵の伝令将校をすべて暗殺し、司令部と前線を結ぶ通信線を物理的に切断しました。……今の敵は、脳からの命令が手足に届かない、ただの巨大な案山子に過ぎません」


慶家の戦術は、盤面における将棋に酷似している。


相手が攻めの形を作る前に、その連携の要となる駒(連絡線)を事前に潰し、完全に機能不全に陥らせてから、一方的に盤面を制圧する。将棋を嗜む彼らしい、徹底して相手の攻めを吸収・無力化する息の詰まるような盤面操作であった。


「……見事な手際だ。ならば、我々も動くとしよう」 


国司順正は、敵の完全な麻痺を確信し、全軍に向けて攻撃開始の号令を下した。


「全軍、前進! 各中隊は事前の指示通り、現場の判断をもって敵を粉砕せよ!」


その大まかな指示(ミッション)が下された瞬間、第三師団の動きは、従来の欧州の軍隊の常識を完全に覆すものであった。


密集陣形を組んで喇叭(らっぱ)と共に直立歩行で突撃するのではなく、兵士たちは中隊、小隊、分隊ごとにバラバラに散開し、地形の起伏を利用して姿を隠したのである。


「撃てッ!」


現場の小隊長の判断により、側面へと回り込んでいた部隊から、猛烈な十字砲火が浴びせられる。


さらに、兵士たちが自ら担いで持ち込んだ『迫撃砲』が次々と放たれ、山なりの弾道を描いた砲弾が、立ち尽くす反乱軍の頭上に正確に降り注ぎ、凄まじい爆発を起こした。


「な、何だ!? 敵はどこにいる!?」


「命令はまだか! 引くのか、撃って出るのか!」


命令系統を絶たれた反乱軍の新式部隊は、どこから撃たれているかも分からず、ただパニックに陥って右往左往するしかなかった。


一方の日本軍は、分隊長クラスの下士官が自ら戦況を読み、「あそこの陣地が崩れた! 接近し、塹壕を掘って前線を押し上げろ!」と、司令部の指示を待つことなく自律的に敵の急所を抉り続けていく。


普魯西式の硬直した指揮系統では絶対に不可能な、

『生きた細胞のように柔軟で、かつ致命的な流動戦』。


国司順正は、眼下で繰り広げられる一方的な蹂躙劇を見下ろしながら、確信と共に震えを覚えていた。


(……間違いない。訓練にどれほど金と時間がかかろうとも、この「日本式」こそが近代戦の究極の最適解だ)


明治15年、漢江の戦い。 


大院君が率いる数万の反乱軍は、日本軍とまともに刃を交えることすら許されず、滝脇慶家が描き出した圧倒的な情報戦と、柔軟極まりない「日本式陸軍」の火力の前に、為す術もなくすり潰されていくのであった。


―――


漢江での自軍の戦線が、為す術もなく完全に崩壊していく様を後方から見ていた大院君(テウォングン)は、早々に戦場を見捨て、わずかな側近のみを連れて北へ向けて逃走を開始した。


彼の脳内には、したたかで他力本願な「逆転の筋書き」が描かれていた。


(……日本軍がこれほど厄介な軍隊に育っているとは誤算であった。だが、清国に傅(かしず)き、助けを求めればどうだ。宗主国たる清が黙って日本に朝鮮を差し出すはずがない。必ず大軍を動かし、日本と戦ってくれるはずだ)


自らは手を汚さず、大国同士をぶつけ合わせて漁夫の利を得る。日本と閔氏政権が共倒れになれば、自分は悠々と玉座に返り咲き、この国をかつての「正しい道(鎖国と旧体制)」へと戻すことができる。


それが、老練な政治家を自負する彼の描いた、完璧な逃走劇のはずであった。


しかし、彼は知らなかった。 


自分を追い詰めた日本軍の頭脳が、単なる優秀な作戦参謀などではなく……かつて日ノ本において、敵の根回しや逃げ道を悉く先回りして潰し、真綿で首を絞めるように豊臣家を滅ぼした『徳川家康』という、類を見ないほど執念深い怪物であることを。


―――


逃亡の末、大院君はついに北の要衝・平壌(ピョンヤン)へと辿り着いた。


日本軍は漢城(ソウル)を制圧して以降、一切の無理な北上を行わず、周辺地域の治安維持と親日政権の再構築に努めていた。そのため、背後に追撃の影はなく、大院君は「まんまと逃げおおせた」と安堵の息を吐きながら、平壌の城門をくぐったのである。


……彼がこの街で、正視に耐えないほど酷い死に方をするまでは。


平壌の街に足を踏み入れた大院君を待っていたのは、彼を匿い、清国への使者を手配してくれるはずの忠実な地方官僚たちではなかった。


血走った眼で彼を取り囲む、数千、数万の『暴徒と化した民衆と、見捨てられた地方兵たち』であった。


「……な、何事だ。お前たち、私が誰か分かっておるのか!」


大院君が怒鳴りつけた瞬間、民衆の中から飛んできた石が彼の額を激しく打ち据えた。


「大院君だ! 国を売り、我々の血肉を貪った逆賊だ!!」


「この男のせいでいくさが起きた! この男が国庫を盗んで逃げたから、我々は飢えているのだ!」


大院君は、血を流しながらその異常な光景に愕然とした。

なぜ、旧体制の守護者であるはずの自分が、民衆から「すべての元凶」としてこれほどの憎悪を向けられているのか。


すべては、滝脇慶家が放った『情報戦(謀略)』の成果であった。


慶家は、大院君が漢城を捨てて北へ逃れることを事前に完全に想定していた。


そして、彼が到着するよりもずっと早く、平壌を含む北部の主要都市に「草の者(工作員)」を放ち、朝鮮国内に渦巻いていた改革への不満、飢え、未払いの給与、そして日本軍侵攻への恐怖といった『あらゆる不平不満の矛先』を、すべて大院君一人へと向かうように情報を操作し、扇動していたのである。


『日本軍が恐ろしいのは、大院君が民の富を奪い、いくさを仕掛けたからだ』


『大院君は今、清国に国を売り渡すために、我々を捨てて北へ逃げている』


真実と嘘を絶妙に交えた噂は、恐怖と飢えに喘ぐ民衆にとって、最も分かりやすい「敵(スケープゴート)」の提示であった。


「ま、待て! 誤解だ! 私はお前たちのために……!」


「殺せぇぇっ!!」


弁明の言葉は、怒号の波に完全に掻き消された。

護衛の側近たちは瞬く間に引き裂かれ、大院君は馬から引きずり下ろされた。数え切れないほどの足で踏みつけられ、農具で殴打され、肉を抉られる。


かつて朝鮮の絶対的権力者として君臨した男の最期は、日本軍の銃弾による名誉ある戦死ではなく、自らが守ろうとしたはずの民衆たちの「扇動された憎悪」によって、文字通り原型を留めない肉塊へと変えられるという、あまりにも凄惨で惨めなものであった。


―――


数日後。漢城の第三師団司令部。


「――平壌にて、大院君の死亡を確認。民衆の暴動に巻き込まれ、惨殺されたとのことです」


特務からの報告を読み上げる下士官の声に、国司師団長は思わず背筋に冷たいものを感じた。


「……味方の血を一滴も流さず、弾薬一発すら消費せず。敵の頭目を、その身内の手で最も残酷に始末させたというのか」


国司が横に視線を向けると、滝脇慶家少佐は陣形図から目を離すこともなく、ただ退屈そうにペンを走らせていた。


「いくさにおいて、敵を追い詰めるのは兵士だけではありません。恐怖、飢え、そして『分かりやすい悪役』を盤面に提示してやれば、人は自ら狂い、勝手に敵を食い殺してくれるものです」


慶家は、まるで盤上の歩兵(ふひょう)を指先で弾き飛ばすように、淡々と言い放った。


「清国を巻き込まれると厄介でしたからね。

……これで、朝鮮(この盤面)から不要な雑音は完全に消え失せました。

あとは、高宗と閔氏を王宮に戻し、我が国の『強固な防波堤』として再構築するだけです」


執念深く、冷酷。


自らの手を直接下すことなく、敵の逃走経路すらも『死の罠』へと変えてしまう滝脇慶家の謀略の前に、朝鮮半島のクーデターは、日本にとってこれ以上ないほどの「完全勝利」という形で幕を下ろそうとしていた。



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