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葵三つ葉  作者: 丸亀導師
胎動
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胎動 4

清孝が市之進の「落書き」を見た翌日の事。

清孝は改めて市之進を前に座らせ、あの軍学書の書き込みについて真意を問いただした。

市之進は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに落ち着き払った様子で、ただ一言、こう答えた。


「想った事を、書き綴っただけです」


清孝は深く唸った。


やはり、この子は天に選ばれた神童である、と。


もちろん市之進の中身は家康であるため、内心では『昨今の腑抜けた軍学書が児戯に思えて仕方がなかっただけだ』と毒づいていたが、決してそれを口に出すような愚は犯さなかった。


清孝は決意を固めた顔で、「そこでお前に見せたいものがある」と、見慣れぬ一冊の書物を取り出した。

表紙には『蘭式歩兵操典』と記されている。


家康は眉を顰めた。蘭式、つまり和蘭オランダ国をはじめとする「異国」の最新の軍制や戦術を翻訳し、纏めたものだ。


「お前はこの内容をどう思う?」


数えで四つの童に問うには、あまりにも狂気じみた問いかけである。しかし、清孝の眼差しは真剣そのものであった。


「少しの間、読ませてください」


市之進はそう答えると、その日から数日をかけて、己の小さな手で重い書物をめくり、その内容を貪るように読み漁った。


そして、答えは自ずと出た。


数日後。


再び向かい合った父に対し、市之進は静かに口を開いた。


「ちちうえ。この本に書かれている戦い方は……とても理にかなっています。ですが、恐ろしい本です」


「ほう……どう理にかなっているのだ?」


「この本には、一人の強い武士がどう戦うかではなく、大勢の兵隊を『一つの生き物』のように動かすことばかりが書かれています。

号令一つで皆が同じ動きをし、一斉に鉄砲を撃ち、一斉に槍を構える」


家康の脳裏には、巨大な盤面が広がっていた。

異国の軍隊が構築する戦列歩兵の陣形は、彼から見ても究極の「受けの陣形」であった。


自ら陣を崩して突撃するような愚は犯さない。横一列に展開し、敵が血気盛んに突っ込んでくるのをじっと待ち構える。


そして、相手が射程に入った瞬間に、途切れることのない一斉射撃によって敵をすり潰す。


それは将棋において、金銀を固めて堅牢な囲いを築き、相手の猛攻を冷静に受け流し、敵が息切れした瞬間に強烈なカウンターを叩き込む戦い方と全く同じ理屈であった。


かつての長篠の戦いで、武田の騎馬隊を粉砕した陣形を、極限まで洗練させた完成形がここにあった。


「これでは、いくら剣術の稽古を積んだ武士が斬り込もうとしても、近づく前に鉛の玉を浴びて死にます。個人の武勇など、この陣形の前では何の役にも立ちません」


「……武士の剣が、役に立たぬと申すか」


清孝の顔に、武人としての絶望と驚愕が入り混じる。しかし、市之進の分析はこれで終わりではなかった。


「ですが、ちちうえ。この無敵に見える戦い方には、二つの大きな『弱点』……いえ、条件があります」


市之進は、小さな指を二本立てた。


「一つは、玉と火薬、そして同じ形の鉄砲が、山のように必要だということです」


前世で百万の大軍を動かした経験のある家康は、この異国の軍制がどれほど異常な「兵站」を要求するかを即座に見抜いていた。


撃ち続けるための大量の弾薬。兵士全員に支給する統一された武具。それらを途切れることなく戦場へ運び続ける仕組み。それが一つでも欠ければ、この戦法はただの案山子の集まりに成り下がる。


「そしてもう一つ。これが一番恐ろしい事です」


市之進は仏頂面のまま、真っ直ぐに父親の目を見据えた。


「この本に書かれている戦い方には、誇り高き『武士』である必要がありません。右と左の区別がつき、玉の込め方さえ覚えれば、昨日まで鍬を持っていたお百姓でも、立派な兵隊になれるということです」


「なっ……!?」


清孝は雷に打たれたように息を呑んだ。


「ちちうえ。異国は、お百姓を武士と同じ、いや、それ以上の兵隊にする術を持っています。彼らは、お金と玉さえあれば、いくらでも強い軍隊を作れるのです」


それは、家康自身が定めた「兵農分離」と、「武士」という特権階級の存在意義を根底から破壊する宣告であった。


武具を統一し、訓練を均一化することで、兵士を「部品」として扱う近代の軍隊。


幕府の武士たちが、未だに刀の斬れ味や家格、美しい陣形などにこだわっている間に、世界は「金と物量で殴り合う」時代へと完全に移行していたのだ。


「……異国の船が火を吹けば、今のままではこの国は負けます。刀では、到底勝てません」


四歳の童の口から語られた、あまりにも冷徹で俯瞰的な事実。


清孝は声も出せず、ただ己の息子から放たれる、底知れぬ凄みと知略の深淵を覗き込み、わななくことしかできなかった。


「しかし、ちちうえ。この本には、決定的に『欠けている』ものがあります」


絶望に打ちひしがれる清孝に対し、市之進——家康は、事も無げに言葉を続けた。


その声には、先ほどまでの「異国の脅威」を語る冷徹さとは裏腹な、どこか相手を見下すような、戦国武将としての矜持が微かに滲んでいた。


「欠けている……? この恐るべき軍学に、まだ何か足りぬと申すか」


「はい。この戦い方は、だだっ広い平原で、お互いが真っ向から撃ち合うための『お行儀の良い陣形』に過ぎません。皆が肩を並べて歩き、号令で一斉に撃つ。それは確かに恐ろしいですが、逆に言えば、『一つの塊としてしか動けない』という事です」


家康は小さな手を広げ、畳の上に置かれた碁石をいくつか寄せ集めて、四角い「塊」を作った。


「ちちうえ。この日ノ本は、平らな土地ばかりですか? 違いますよね。山があり、谷があり、深い森や泥濘む田んぼばかりです。こんな大きな塊のまま、山の中を行軍できますか? できません」


「それは……確かに、そうだ」


「もし、ちちうえがこの『異国の塊』と戦うならどうしますか? わたしなら、真っ向からはぶつかりません」


家康は、残った碁石をパラパラと、四角い塊の周囲に散らばらせた。


「皆をバラバラに散らばらせます。木陰や岩陰に隠れさせ、決して姿を晒さず、自由な動きで『異国の塊』の側面や背後から玉を撃ち込ませます。

敵が撃ち返そうと振り返れば、すぐに散って逃げる。そしてまた別の場所から撃つ。これを繰り返せば、硬直した塊は勝手に混乱し、いずれ瓦解します」


それは、近代軍事学において「散兵さんぺい戦術」と呼ばれるものであった。


密集陣形(戦列歩兵)に対し、兵士を散開させ、地形を利用して柔軟に狙撃や牽制を行う。西洋においてもようやくその重要性が再認識されつつある過渡期であったが、家康の頭の中には、すでにその完成形がはっきりと描かれていた。


なぜなら、それこそが、家康たちが血で血を洗う戦国時代において、死に物狂いで組み上げ、実践してきた「日ノ本の戦」の基本だったからだ。


(異国の軍学は確かに合理的だ。だが、盤面の駒を規則通りに動かすことばかりに囚われている。

わしらが泥水すする思いで培ってきた、地形を読み、陣形を解き、変幻自在に動き回る『流動的な軍の動き』がすっぽりと抜け落ちておるわ)


鉄砲伝来以降、戦国武将たちは密集陣形の有用性を理解しつつも、日本の複雑な地形で生き残るため、兵を散らして伏兵とし、遊撃隊として縦横無尽に動かす術を極めていた。


異国の軍隊が「巨大な一つの機械」だとすれば、戦国期の日本の軍隊は、状況に応じて形を変える「群れ」であったのだ。


「ちちうえ。この異国の本は凄いです。お金と鉄砲の力は、絶対です」


市之進は、小さな手で『蘭式歩兵操典』の表紙をポンポンと叩いた。


「ですが、この戦い方は完璧ではありません。異国の『鉄と火薬の力』に、日ノ本の『バラバラに動いて敵を惑わす戦い方』を組み合わせれば……きっと、異国の軍隊にも負けない、すごく強い兵隊ができると思います」


清孝は、息をすることすら忘れていた。


四つの童が、異国の最先端の軍学を読み解き、その強さを認めた上で、さらにその「致命的な欠陥」を指摘したのだ。そればかりか、かつて日本の武士たちが得意としていた(そして泰平の世の中でとうに忘れ去られた)流動的な散兵戦術こそが、その対抗策になり得ると言い切った。


「市之進……お前は、一体……」


清孝の目には、もはや目の前にいるのが自分の息子であるとは思えなかった。


小さな身体の奥底に、天下の情勢を俯瞰し、数万の軍勢を自在に操る、巨大で老獪な「軍神」が座している。そんな幻影すら見えた。


(……この知識、この戦の理合。間違いない。この子は、没落した我が滝脇の家を、いや……この弱り切った日ノ本という国そのものを救うために、神仏が遣わされた『御使い』なのだ!)


清孝は、ガタッと音を立てて立ち上がると、己の息子——市之進に対し、武士として、いや一人の人間として、深く、深く平伏した。


「ちちうえ?」


「市之進……いや、市之進殿。私は、父としてお前を導くことなどできぬかもしれん。

だが、お前がいつかその恐るべき才を世に羽ばたかせるその日まで、この命に代えても、お前を守り抜くことだけは誓おう」


額を畳に擦り付ける父親を見下ろしながら、家康は仏頂面のまま、内心で小さく頷いた。


(よし。これで当面の『盾』と『手駒』は確保した。狂信的な尊王思想に傾倒され、変な浪士たちに巻き込まれて犬死にされては叶わんからな)


家康にとって、清孝のこの絶対的な忠誠心は好都合であった。


自分が成長し、実際に兵を動かせる立場になるまでには、まだ十数年の時間が必要だ。その間、この狂った幕末の嵐を生き延び、自らの手で「新たな軍隊」を創り上げる基盤を整えなければならない。


(異国の武力と、わしが培った実戦の兵法。その二つを融合させた軍を創り上げ、このわし自らが率いたならば……黒船だろうがなんだろうが、恐れるに足らず)


安政の世に降り立った大御所は、来るべき反撃の刻に向けて、静かに、そして確実にその歩みを進め始めていた。


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