胎動 3
父・清孝が非番の折に手ほどきをしてくれる手習い。その基礎をあっという間に「習得(思い出し)」した家康は、父が登城して留守になる日中、いよいよその本領を発揮し始めていた。
彼が書物の山から手始めに引っ張り出したのは、『甲陽軍鑑』である。
かつて戦国最強と謳われた武田信玄と、その家臣たちの軍略や事蹟を記したとされる有名な軍学書だ。父の清孝も、これを武士の嗜みとして熱心に読み込んでいた形跡がある。
しかし、分厚い書物を小さな手でめくりながら、家康は鼻で笑った。
(ふん。高坂弾正の名を騙ってはいるが、どう見ても後世の儒学者や軍学者どもが書き加えた、綺麗事の寄せ集めよな)
『甲陽軍鑑』は、戦術書としては確かに名著とされている。だが、それはあくまで「戦を知らぬ江戸期の人間」にとっての話である。
家康は違う。
彼は三方ヶ原の戦いで武田の恐るべき騎馬隊に蹂躙され、恐怖のあまり脱糞しながら逃げ惑うという、生涯最大のトラウマを植え付けられた当事者だ。
そして同時に、武田家滅亡後には彼らの遺臣を大量に召し抱え、その軍制と戦術を徳川の軍隊に丸ごと組み込んだ、武田軍法の「最大の継承者」でもある。
武田が実際にどのように戦ったのか。彼らがどれほど泥臭く、計算高く、そして情け容赦のない実戦集団であったか。それを、家康ほど骨の髄まで知っている者はこの世にいない。
「……ええい、筆が重いな。この小さな手では、どうにも思うように動かん」
家康は、父が残していった古筆と粗悪な紙を引き寄せ、短い指で不器用に筆を握った。
そして、『甲陽軍鑑』の記述を拙い童の文字で書き写しながら、その横に容赦のない「修正稿」を書き加え始めたのである。
『啄木鳥の戦法、迂回奇襲の陣形について』
(元の記述:別働隊を背後に回し、驚いて飛び出した敵を本隊が討ち取る見事な策)
↓
(家康の修正稿:机上の空論。実際の山野において、大軍を二手に行軍させれば必ず連携に乱れが生じる。信玄入道が川中島でこれを仕掛けた際も、上杉の気配を察知する見張りが機能していなかったが故に本隊が崩れかけた。兵法とは「いかに奇策を成功させるか」ではなく、「奇策が読まれ、敵の猛攻を受けた際に、いかに陣を固めて反撃の機をうかがうか」が本質である。)
『鶴翼の陣、魚鱗の陣について』
(元の記述:陣形の美しさと、それぞれの相性について)
↓
(家康の修正稿:形骸化した戯言。いざ白兵戦となれば、陣形など一瞬で崩れ去る。重要なのは初撃を受け止める盾の厚さと、前線が疲弊した際に後詰めの兵をどう入れ替えるかの兵站(兵のやり繰り)のみ。戦国期の武田は陣形などという見栄えよりも、足軽の槍の長さと、泥濘でも進軍できる強靭な足腰を鍛えることを重んじていた。)
書き進めるうちに、家康の頭の中で、二百数十年前の血生臭い記憶が鮮明に蘇ってくる。
地響きを立てて迫り来る赤備え。怒号と悲鳴。鉄砲の硝煙の匂いと、泥に塗れた死体。
(二百年の泰平は、見事に武士から「実戦の泥臭さ」を奪い去りおったわ)
家康は、『甲陽軍鑑』のみならず、父の蔵書にある他の軍学書にも次々と目を通し、同じように修正を加えていった。
どの軍学書も、いかに美しく陣を構え、いかに名誉ある戦いをするかという「作法」に成り下がっていた。
相手の攻めをじっと耐え忍び、泥水をすすってでも生き残り、敵の隙を突いて一気呵成に首を獲るという、死狂いの戦術がすっぽりと抜け落ちているのだ。
(これではいかん。異国の黒船とやらがどのような大砲を積んでいようが、戦の基本は変わらぬはず。だが、今の形骸化した軍学を妄信しているようでは、いざ戦になった時、幕府の軍勢は初撃の恐怖で瓦解するぞ)
四歳の幼児は、顔や着物に墨をつけながら、一心不乱に筆を動かし続けた。
それは傍から見れば、手習いを覚えたての子供が、書物の真似事をして遊んでいるようにしか見えないだろう。
しかし、その紙の束に記されているのは、実戦経験ゼロの江戸の学者たちが束になっても敵わない、天下人・徳川家康による「真の実戦兵法書」であった。
(今はまだ、ただの落書きよ。だが……いずれわしが元服し、この国の軍を動かす立場になった時、この泥臭い『真の兵法』が必ず必要になる)
筆を置き、墨だらけの手で顔を拭った家康の瞳には、狂信的な尊王攘夷論者とも、西洋かぶれの開国論者とも違う、ただただ冷徹に「国家の生存と勝利」のみを見据える、大御所の光が宿っていた。
家康が書物の写しと「修正」を密かに始めてから、およそ半年の月日が流れた。
相も変わらず、数日おきに駿府城へ登城しては非番を過ごすという日々を送っていた滝脇清孝は、ある日、部屋の片隅の文机の裏に、無造作に積まれた妙な紙の束を見つけた。
(なんだこれは……?)
手に取ってみると、それは粗悪な反故紙であった。墨の跡も真新しい。そこに書かれているのは、どう見ても幼児が筆の持ち方から四苦八苦して書いたような、歪で拙い文字の羅列である。
清孝はすぐに、これが数えで四つになったばかりの息子、市之進の仕業だと気がついた。
「ふふ、見よう見まねで軍学書を写したか。熱心なことだ」
親馬鹿な笑みを浮かべながら、清孝はその束の最初の一枚に目を落とした。書かれているのは、彼自身も愛読している『甲陽軍鑑』の一節である。
だが、読み進めるうちに、清孝の顔からふっと笑みが消えた。
写し書きの余白に、備忘録のようにはみ出して書かれた「付け加え」の文章があったからだ。
『……陣形などいざ白兵戦となれば一瞬で崩れ去る。重要なのは初撃を受け止める盾の厚さと、前線が疲弊した際に後詰めの兵をどう入れ替えるかの兵のやり繰りのみ…』
(な、なんだこれは?)
清孝は息を呑み、次の紙をめくった。
『……兵法とはいかに奇策を成功させるかではなく、奇策が読まれ、敵の猛攻を受けた際に、いかに陣を固めて反撃の機をうかがうかが本質である……』
そこにあるのは、儒学者たちが説くような「いかに美しく陣を構え、名誉ある戦いをするか」という高尚な理念ではなかった。
泥にまみれ、血を流し、恐怖に駆られる生身の人間をどう統率し、どう生き残らせ、どう敵を殺すかという、身も蓋もないほどに冷徹で強靭な「受けの戦術論」であった。
(軍学書を、先人たちの知恵を愚弄しているのか!?)
一瞬、武士としての反発が清孝の胸をよぎった。しかし、彼は紙を持ったまま、釘付けになったように動けなくなった。
清孝自身、太平の世の武士でありながら、書物を読むたびに心の奥底で常々抱いていた疑問があったのだ。
「いかにすれば美しい陣形のまま戦えるのか?」
「いかにすれば兵は書物通りに迅速に動き、奇策は成功するのか?」
誰もその本質を教えてはくれなかった。江戸期の軍学者たちは、盤上の駒を動かすように戦を語るが、実際に人が命を懸けてぶつかり合う際の「重み」や「摩擦」については、皆一様に口をつぐんでいた。あるいは、彼ら自身も知らなかったのだ。
だが、この拙い文字で書かれた落書きは、清孝が長年抱えていたその疑問に対する、あまりにも明確で残酷な「解答」であった。
陣形は崩れるのが前提。奇策は失敗するのが前提。その上で、どう耐え、どう反撃するか。あまりにも合理的で、血の通った実戦の論理がそこにはあった。
「……」
清孝は、震える手で紙の束を置くと、ゆっくりと振り返った。
部屋の奥では、市之進が小さな布団にくるまり、健やかな寝息を立てている。起きている時はいつもどこか仏頂面をしている息子だが、眠っている時の顔は年相応の無邪気な赤子そのものであった。
この小さな頭の中で、一体何が起きているというのか。
誰に教わったわけでもない。ただ書物を読んだだけで、歴代の軍学者たちが二百年かけても辿り着けなかった「戦の真理」を、四つの童が見抜いたとでも言うのか。
(……何という、才であるのか)
清孝は、寝顔を見つめたまま、へなへなとその場にへたり込んだ。
恐怖ではない。歓喜でもない。それは、己の理解を遥かに超えた巨大な存在——天が遣わした『神童』に触れてしまったことへの、純粋な畏怖であった。
没落の一途を辿る滝脇の家に、途方もない竜が産み落とされたのかもしれない。清孝は、ただ静かに眠る息子の小さな背中に対して、思わず深く首を垂れていた。




