胎動 2
夜の帳が下り、虫の音だけが響く古びた武家屋敷。
父親の清孝と母親が寝静まった後も、小さな布団に包まれた家康は一人、暗闇の中でぱっちりと目を開いていた。
(……『異国に阿った』、だと?)
昼間、父と同僚の男が交わしていた会話。その一言が、家康の脳裏にねっとりとこびりついて離れなかった。
大老が暗殺されたという事実だけでも、幕府の威信が崩壊している証左であり由々しき事態である。だが、それ以上に家康の警戒心を強く引き付けたのは、「異国」という言葉であった。
家康にとって、異国——とりわけ「南蛮」と呼ばれる外の敵は、徳川の世を築き上げる上で、豊臣の残党以上に厄介で恐ろしい存在であった。
彼らがもたらす鉄砲や火薬、そして交易の利益は確かに魅力的だった。だが、それと同時に彼らが持ち込む「伴天連」の教えは、この国の根幹を揺るがす猛毒になり得ると家康は見抜いていた。
(神という目に見えぬ絶対者を崇めさせ、主君への忠誠よりも教えを優先させる……。あのような宗教が蔓延れば、武士の主従関係など脆くも崩れ去る。だからこそ、わしは伴天連の追放を定め、警戒を怠らなかったはずだ)
有能な造船技術と航海術を持ちながら、宗教を強要しなかった青い目の侍、三浦按針のような重宝する者もいた。彼のように実利だけをもたらす異国人ならば御しやすいが、伴天連の宣教師たちは別である。あの後、彼らはどうなったのか。
(幕府が、その異国に阿った? 異国の命令に屈し、国を売り渡したとでも言うのか?)
家康は、短い腕を布団の中から出し、ぎゅっと小さな拳を握りしめた。
もし大老が異国に屈服したというのなら、この国はすでに伴天連の連中に精神から支配されているはずである。あちこちに十字架が立てられ、武士も百姓も、仏や神ではなく「ゼウス」とやらに祈りを捧げているはずではないか。
しかし、現実はどうだ。
家康が首だけを動かして薄暗い部屋の奥を見やると、そこには古びてはいるが、立派な仏壇と神棚が並んで祀られている。
父親の清孝が口にしたのも、異国の神への讃美ではなく、「帝」というこの国古来の権威への絶対的な傾倒であった。
(おかしい。辻褄が合わぬ)
家康の明晰な頭脳が、必死に論理を組み立てようと回転する。
幕府が異国に阿ったというのに、異国の宗教はこの国に浸透していない。それどころか、朝廷を尊ぶ思想が武士の間に蔓延っている。
それはつまり、異国からの圧力というのが「宗教の布教」ではなく、別の形——例えば武力による脅しや、法外な交易の要求など——であり、幕府がそれに対して無様な対応をとったため、国の威信を保つ拠り所として「帝」が担ぎ上げられているのではないか?
家康の推測は、驚くべきことに現在の状況の核心を突いていた。
しかし、彼には決定的に「情報」が足りていなかった。
無理もない。家康は知らないのだ。
彼の死後、孫である三代将軍・家光が「鎖国」という強力な体制を敷き、長崎の出島などごく一部を除いて異国との関わりを完全に断ち切ったことを。
その鎖国体制が二百年もの長きにわたってこの国を外敵から守り抜き、独自の文化と泰平を熟成させたことを。
そしてつい数年前、海の向こうからやってきた鋼鉄の「黒船」と圧倒的な大砲の力によって、その泰平が無理やりこじ開けられ、幕府が為す術もなく不平等な条約を結ばされたという屈辱的な事実を。
(わしが死んでから、一体どれほどの月日が流れた? 十年か、五十年か、あるいは……百年以上か?)
情報がない。歴史の空白が大きすぎる。
天下を盤上に見立て、あらゆる情報を集めて緻密な戦略を練り上げてきた家康にとって、自分が今「何も知らない」という事実ほど、恐ろしく、もどかしいことはなかった。
(ええい、忌々しい。この赤子の身体では、立ち上がって書物を開くことすらできぬとは!)
隣の部屋には、父親が買い集めた書物の山がある。
あれを読めば、あるいは今の世がどうなっているのか、歴史がどう動いたのかが記されているかもしれない。いや、間違いなく記されているはずだ。
(早く……早く大きくならねばならん。手足が動き、目が見え、文字が読めるようにならねば。戦をするにも、まずは敵の陣容と己の立ち位置を知らねば始まらぬ)
家康は暗闇の中で、静かに、しかし強烈な執念を燃やした。
今はただ、乳を飲み、眠り、この脆弱な肉体を一日でも早く成長させるしかない。それが、彼にできる唯一の「軍備拡張」であった。
いずれ必ず、歴史の空白を埋めてみせる。
そして、自分が築いた幕府を窮地に陥れている「異国」とやらが何者であれ、このまま黙って国を荒らさせるつもりは毛頭なかった。
仏頂面の赤子は、その小さな胸の内に野心と探求心を滾らせながら、やがて来るべき明日に向けて、再び静かな眠りについた。
翌日もまた、粗末な滝脇家の木戸を叩く者があった。
昨日とは別の、しかし同じようにどこか血気にはやり、切羽詰まった顔つきをした清孝の同僚たちである。
囲炉裏端に腰を下ろすなり、彼らはまたしても声を潜め、しかし熱を帯びた口調でヒソヒソと密談を始めようとしていた。
(よし、来たぞ。今日こそは『異国』の正体と、幕府の現状を暴き出してくれるわ!)
部屋の隅、手作りの小さな籠の中で寝転がっていた家康は、内心で快哉を叫んだ。
昨夜の悔しさを晴らす絶好の機会である。彼は全神経を小さな両耳に集中させ、武士たちの口の動きすらも見逃すまいと、仏頂面のまま目をギラギラと光らせた。
「清孝殿、江戸の情勢だが……水戸の浪士どもが……」
「のみならず、異国の船が……」
断片的に聞こえてくる単語。
水戸? 御三家の水戸が浪士を出したというのか? 異国の船がどうしたというのだ?
さあ、もっと大きな声で話せ。その続きを!
家康が身を乗り出そうと、必死に短い手足を踏ん張ったその瞬間である。
「あなた、そのような物騒な話はお辞めくださいな。市之進が可哀想ではありませんか」
ふわり、と。
柔らかな布の感触と、白檀の仄かな香りが家康の視界を覆い隠した。
母である女、菊である。
彼女は、密談に花を咲かせようとする夫たちをたしなめるようにキッと睨むと、這い出ようとしていた我が子——市之進と名付けられた家康——を、大事そうにひょいと抱き上げてしまったのだ。
(な、何をっ……!? おろせ、母よ! わしは可哀想などではない! むしろ今、最高に面白いところなのだ!)
家康は抗議の声を上げようとしたが、悲しいかな、彼の喉から出るのは「あー!」という、ただの甲高い赤子の喃語でしかない。
「ほら、お客人たちの怖いお顔を見て、市之進も怯えております。ねぇ、よしよし……」
(怯えてはおらん! これは敵情を視察する武将の目つきだ!)
内心の猛抗議など露知らず、菊は家康を胸に抱き寄せると、その小さな背中をトントン、トントンと、一定の心地よいリズムで優しく擦り始めた。
「怖い話はあっちへ行け、ですわね。市之進は強い子に育ちますよ……」
ゆりかごのような優しい揺れ。
母乳の甘い匂い。
そして、背中を撫でる温かく愛情に満ちた掌の感触。
(ふん、女の慰めなど……わしは三河の野山を駆け抜け、幾多の死線を潜り抜けた徳川家康ぞ。この程度の甘やかしで、このわしの探求心が削がれるとでも……)
家康は必死に目を見開き、男たちの会話に意識を向けようとした。
しかし。
(……削がれ……る、と、でも……)
トントン、トントン。
(……おや? なんだ、この抗い難い心地よさは……)
突如として、家康の視界がぐらりと揺れた。
まぶたが、まるで鉛のような重さを持って垂れ下がってくる。
脳内を駆け巡っていた「幕府」や「異国」といった切実な天下の情勢が、急速に輪郭を失い、白い霧の彼方へと溶け出していく。
(いかん!! 眠りについてしまう!!)
家康は己の頬を抓ろうとしたが、ぷっくりとした短い腕は宙をかくばかりだ。
三方ヶ原で武田の猛攻に耐え、大坂の陣で真田の突撃を凌いだあの強靭な精神力をもってしても、この根源的な欲求には全く太刀打ちができない。
子供の身体というものは、理屈や精神論など及ばない次元で、どうしようもなく「眠気」には弱くできているのだ。
(ええい、なんという不甲斐なさ! 大御所ともあろう者が、母の背擦りで寝落ちなど……ッ!)
「……すぅ」
最後の意地で眉間にシワを寄せたまま、赤ん坊はコクンと首を垂れた。
抵抗を諦め、温かい母親の胸の中で完全に脱力したその顔は、ただの無防備で愛らしい乳飲み子のそれであった。
「あらあら、もう眠ってしまいましたわ」
菊が愛おしそうに微笑む腕の中で、家康の意識は、幕末の喧騒から遠く離れた、深く穏やかな夢の中へとあっけなく沈んでいったのである。




