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葵三つ葉  作者: 丸亀導師
胎動
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胎動

寝て、起きて、母の乳房を吸い、また眠る。

乳母を雇う金もないのだろう、そんな生活にも慣れた。


尤も、家康。女の乳を吸う程度の事、恥ずかしくも何ともなかった。


生涯二十の側室を持った男の中の男である。この程度、恥でも何でもない。


そもそも、赤子が乳を吸うのは至極当然である。

乳飲み子が果たしてどうして、それ以外で大きくなれようか。


産まれてから百以上、眠りと起きるを繰り返した頃、ここで父親である男の名がわかった。


滝脇監物清孝たきわきけんもつ・きよたか、というらしい。

滝脇。その名を聞いて、家康の脳裏に古い記憶が蘇った。


(滝脇松平か……。確かに、三河十八松平の一つ。わしがまだ竹千代と呼ばれていた頃から付き従っていた、由緒正しき家柄よな)


しかし、家康は呆れ半分に薄目を開け、雨漏りの染みが広がる天井を見上げた。


尤も、家格ばかりのようであるが……。


かつての誇り高き三河武士の末裔も、二百数十年の時を経て、今や自ら鍬を握らねば食い扶持も稼げぬ境涯にまで落ちぶれていた。監物という立派な百官名も、今となっては虚しい響きでしかない。


(まあよい。貧しかろうが、生きているだけで儲けものよ。今はひたすらに力を蓄える時ぞ)


少しずつ、一人で手足を動かし、寝返りを打ち、ずり這いができるようになってきている。


それに伴い、家康は己の内に湧き上がる奇妙な衝動に気づいていた。


なるほど、この時分の子供がどうしてこうも動きたいのかと、何となくわかることもある。


要するに、興味が強いのだということである。


大人から見れば、赤子はただ無思慮に手足をバタつかせ、目につくものを口に入れようとしているようにしか見えないだろう。


だが、中身が百戦錬磨の老将である家康には、その肉体的な本能の正体がはっきりと理解できた。


これは『斥候』であり、『索敵』なのだ。

己を取り巻く世界がどのような造りになっているのか。何が危険で、何が安全か。自らの陣地(寝床)の周辺の地形はどうなっているのか。


未知なる盤面を前にして、まずはじっと相手の出方をうかがい、己の手駒の動きを確認する。決して焦って攻め込まず、周囲の情報を徹底的にかき集め、強固な守りの陣形を構築するための準備段階。


それはまさに、家康が前世で得意とした、相手の猛攻をしのぎ切り、盤石な態勢から逆転を狙う「受け」の兵法そのものであった。


(赤子の身体というものは、実によくできている。理屈ではなく、生き残るための本能として、周囲の情報を渇望しておるのだな)


視界に入る柱の傷、畳の擦り切れ具合、障子から差し込む光の角度。


父親の清孝が刀を手入れする際の身のこなし、母親が立ち働く際のかすかな足音。


家康は、そのすべてを小さな目でじっと観察し、脳裏に刻み込んでいった。


(この滝脇の家、そしてこの駿河の地から、いずれわしは再び動き出さねばならん。わしが築いた幕府がどうなっているのか、この目で確かめるまでは……)


「あー、うー」


家康は赤子特有の無邪気な声を上げながら、短い手足をばたつかせ、目的の場所——部屋の隅に置かれた、父親の古い書物——へと向かって、力強くずり這いを進めた。


今はまだ、この狭い六畳間が彼の天下であった。しかし、その小さな身体の中には、かつて日本全土を盤面として見立てた巨大な知略が、静かに、しかし確実に息いていた。


監物という大層な役職名とは裏腹に、父親である清孝の日常は、家康の目から見ても奇妙なものであった。

どうやら清孝は、駿府城の警護か何かの役目についているらしい。


数日ごとに城へ出仕しては、数日の非番を取って家にいる。


駿府城といえば、家康自身が大御所として晩年を過ごした、いわば天下の副首都とも言うべき城である。そこに勤めているのであれば、それなりの格式と知行があって然るべきはずだ。


(役職持ちのくせに、このようなあばら家に住まうとは、いったいどういう了見だ?)


部屋の隅で転がりながら、家康は呆れ半分に父親を観察していた。


三河武士たるもの、質素倹約を旨とするのは良いことである。家康自身も麦飯を好み、贅沢を戒めてきた。だが、この家の有様はいくらなんでも「度を超して」いる。


非番のたびに、武士の魂である刀を置き、農民のように泥だらけになって鍬を振るう。これではまるで、戦国時代の地侍か、あるいは戦にあぶれた浪人ではないか。


(幕府の財政が傾き、旗本や御家人の知行が目減りしているのか? だとしたら、この男はなけなしの俸禄を一体何に使っているのだ)


その答えは、家康のすぐそばにあった。


この粗末で貧相な家の中で、唯一、異常なほどに充実しているもの。それは「書物」であった。


四書五経などの儒学書をはじめ、歴史書、兵法書、そして家康の時代には見慣れぬ思想書らしきものが、部屋の片隅に山と積まれている。清孝は農作業の合間、それらの書物を我が子のように慈しみ、丁寧に手入れをし、熱心に読み耽っていた。


(なるほど。食うや食わずの生活をしてまで、書物を買い求めておるのか。学問に励むのは武士の鑑ではあるが……)


家康が少しずつハイハイで家の中を動き回れるようになり、言葉の響きから周囲の状況を断片的に理解し始めた頃。


ある日、この粗末な家に珍しく来訪者が現れた。


非番であった清孝を訪ねてきたのは、同じ駿府城に勤める同僚らしき武士であった。


男は顔を青ざめさせ、周囲をはばかるように声を潜めている。


赤子である家康は、部屋の隅で玩具遊びをしているふりをしながら、自慢の聴力を研ぎ澄ませた。


「清孝殿、聞いたか……。江戸で、とんでもないことが起きたぞ」


「いかがなされた。異国船がまた火でも吹いたか?」


清孝が書物から顔を上げると、同僚は震える声で言った。


「大老・井伊直弼公が、討たれた」


「……なっ!?」


清孝が絶句し、手から書物を滑り落とした。

部屋の隅にいた家康もまた、内心で大きく目を見開いていた。


(大老が、討たれただと……!?)


「桜田門外にて、登城の途上を水戸と薩摩の脱藩浪士どもに襲撃されたとのことだ。首を刎ねられ、雪に血が染まったと……江戸は今、蜂の巣をつついたような大騒ぎになっているらしい」


その言葉を聞き、家康の明晰な頭脳は激しい混乱に見舞われた。


(馬鹿な! 大老といえば、将軍を補佐する幕府の最高責任者ではないか。

それが、白昼堂々、江戸城の門外で暗殺されただと? 幕府の威信はどうなっている! 警護の者たちは何をしておったのだ!)


家康が定めた江戸の町は、盤石な治安と鉄壁の防衛網を誇っていたはずだった。その中枢中の中枢、将軍のお膝元で、幕府のトップが浪人ふぜいに首を獲られる。それは、家康の常識からすれば「幕府の権威が地に墜ち、完全に崩壊している」ことを意味していた。


(政治がそこまで荒んでいるのか……? 一体、わしの死後、徳川の世に何が起きたというのだ!)


内心で激しく狼狽する家康をよそに、驚きで固まっていた清孝の顔に、やがて奇妙な色が浮かんだ。

それは、悲しみでもなく、幕府の行く末を案じる恐怖でもなかった。


うっすらとした、暗い歓喜の色。

清孝は、震える声で、しかしはっきりとこう言い放った。


「……みかどのご意向を無碍にし、異国におもねったのだ。これぞ、天罰というもの」


(――な、なんだと?)


家康は、父親のその言葉に耳を疑った。


「安政の大獄と称し、尊王の志ある有能な士を次々と弾圧した井伊の専横、もはや神仏も許しはおかなかったということだ。これで、少しは世の空気も変わるやもしれん」


「これ、声が大きいぞ清孝殿。誰に聞かれるか……」


「構うものか。我らとて、帝を敬う『尊王』の志は同じはずであろう」


(そんのう、だと……? 帝のご意向……?)


家康の心の中で、かつてないほどの巨大な警鐘が鳴り響いていた。


家康は、朝廷を敬いながらも、公家衆や天皇が政治に口を出すことを徹底的に封じ込めるため、「禁中並公家諸法度」を定めた。政治の実権はあくまで武家たる幕府が握り、朝廷は学問と神事にのみ専念させる。それが、泰平を維持するための絶対のルールだったはずだ。


しかし今、目の前にいる己の末裔——徳川の家臣たる武士が、幕府の最高権力者の死を「帝の意向を無視した天罰」と断じ、朝廷を絶対視する『尊王』などという危険な思想に傾倒している。


(この男……いや、この時代の武士たちは、一体何を考えておるのだ。徳川の禄を食みながら、幕府よりも朝廷を上に置くと言うのか!)


大老の暗殺。そして、身内の武士にまで蔓延る、幕府の権威を否定するかのような思想。


畳の上で小さな拳を握りしめながら、家康は事態の深刻さを悟っていた。


自分が丹精込めて作り上げた「幕府」という強固な城が、土台から音を立てて崩れ落ちようとしている。それも、外からの攻撃だけでなく、内側から腐り落ちるように。


(わしは、とんでもない時代に産み落とされたらしい……)


赤子である家康の仏頂面は、かつて関ヶ原の陣中で見せた、冷徹な天下人のそれへと変わっていた。


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