安らかなる眠り(目覚め)
元和二年四月十七日。
駿府城の奥深く、重厚な帳が下ろされた寝所には、むせ返るような沈香の香りと、静寂という名の重苦しい空気が立ち込めていた。
床に伏せているのは、一人の老いた男である。
男の名は、太政大臣源朝臣家康。
かつて三河の小大名の嫡男として生まれ、人質として他国を転々とし、幾多の死線を潜り抜け、信長、秀吉というふたつの巨星の跡を継いで天下を平定した男。俗に言う徳川家康、その人である。
七十五年という、この時代においては破格とも言える長寿を全うしようとしている彼の肉体は、すでに限界を迎えていた。
鯛の天麩羅を食し過ぎたことが引き金となったとも噂されたが、己の身体を誰よりも熟知している家康自身は、それが長年の戦陣の労苦と、天下という途方もない重荷を背負い続けたことによって生じた、内臓の深い病——現代でいうところの胃癌——であると、とうに悟っていた。
「……大御所様」
枕元で控える本多正純や南光坊天海らの沈痛な面持ちを、家康は濁り始めた眼で静かに見つめ返した。五体の感覚はすでに遠く、手足は氷のように冷たい。呼吸をするたびに、胸の奥で掠れた音が鳴る。
死の足音が、確実に己の魂を迎えに来ているのがわかった。
(わしは、やり遂げたのか……)
薄れゆく意識の中で、家康の脳裏を走馬灯のように駆け巡るのは、輝かしい栄光の記憶ではない。
三河の野山を泥泥になって駆けずり回った幼き日。
三方ヶ原で武田の騎馬隊に蹂躙され、恐怖のあまり脱糞しながら逃げ惑った記憶。
本能寺の変の後、伊賀の険しい山道を死に物狂いで越えた日々。
そして、関ヶ原の霧の中で感じた、身の毛のよだつような采配の重みと、大坂の陣で豊臣を滅ぼした際の、口の中に広がる血の味のような苦い決断。
すべては、終わりの見えない戦乱の世を終わらせるためだった。
力ある者が弱き者を喰らい、裏切りが日常となり、明日生きている保証すらない狂った時代。
そんな地獄を、己の代で過去のものにする。
その強烈な執念だけで、家康はタヌキと罵られようが、冷酷な謀略家と誹られようが、ただひたすらに天下という盤面を整え続けてきた。
(あとは、秀忠が……そして後の世の者たちが、この泰平を盤石なものにしてくれるはずだ)
二百年、いや三百年。戦のない世が続くようにと、幾重にも楔を打ち、法を定め、制度を築いた。
もはや、己がこの世に未練を残す必要はない。
「……天下の、泰平を……」
掠れた声で小さく呟くと、家康は静かに目を閉じた。
唇の端には、微かな満足の笑みが浮かんでいた。
戦乱の世を過去のものとする為に戦い続けた男は、この日、自らが築き上げた泰平の世の未来を信じ、静かにこの世を去った。
東照大権現として神に祀られ、彼の魂は永遠の眠りについたはずだった。
* * *
時は流れ、時代は大きく変転する。
家康が築いた江戸幕府は、彼の願い通り二百年以上の長きにわたり、日本に類を見ない泰平の世をもたらした。
しかし、澱んだ水がやがて腐るように、長く続いた平和は同時に幕府の屋台骨を内側から蝕んでいった。
硬直化した身分制度、財政の逼迫、そして外洋から突如として現れた黒船という名の異形の脅威。
時に安政五年。
新暦で言うところの、一八五八年六月一日。
日米修好通商条約の締結を巡り、国論が真っ二つに割れ、大老・井伊直弼による強権的な弾圧——安政の大獄が始まろうとしている、まさに幕末の動乱の幕開けとも言える時期であった。
駿河国、府中(現在の静岡市)。
かつて家康が大御所として君臨し、天下の政治を動かした駿府城からほど近い外れの地に、萱葺き屋根の古びた武家屋敷がひっそりと建っていた。
いや、屋敷と呼ぶにはあまりにも手狭で、あちこちの土壁は崩れ落ち、庭の大部分は生活のための畑として開墾されている。
パッと見は裕福な庄屋の家のほうがよほど立派に見える有様だった。
この家の主である男は、縁側で落ち着かない様子で立ったり座ったりを繰り返していた。
男の身分は、駿河国を治める大名の家臣、その中でも末端に位置する下級、いや中級武士の末席といったところである。
彼の家系は、元を辿れば三河十八松平家——家康の祖先である松平氏の庶流に行き着くという、いかにも由緒正しき伝承を持っていた。
家系図には誇らしげに三河武士の系譜が記されている。
しかし、時代が下るにつれてその血脈の権威は薄れ、分家から分家へと枝分かれしていくうちに、もはやそれが事実かどうかも定かではなくなっていた。
現在では、武士とは名ばかりの細々とした微々たる俸禄しか与えられず、それだけでは到底家族を養うことはできない。
男は毎日、先祖伝来の刀を鍬に持ち替え、泥に塗れながら田畑を耕し、大根や芋を育てて糊口を凌ぐという、百姓にも似た生活を余儀なくされていた。
男の手は、剣ダコよりも農作業によるひび割れと泥の染み込みの方が目立っている。
「……まだか、まだ産まれぬか」
男は、障子の向こうから漏れ聞こえる妻の苦しげな呻き声に、祈るように両手を合わせた。
生活は苦しい。
だが、彼にとってこの子は、没落しつつある家系を継ぎ、いつの日か再び武士としての誇りを取り戻してくれるかもしれない、希望の光だった。
「ひぃーっ、ふぅーっ……!」
「奥様、もう少しです! いきんで!」
産婆の張りのある声が響く。
男の心臓は早鐘のように打ち、額からは脂汗が滲んでいた。
もし難産であれば、母子ともに命を落とすことも珍しくない時代である。男は、神仏に、そして家の誇りである東照大権現・徳川家康公に、ただひたすらに無事を祈った。
その時だった。
『オギャアアアッ! オギャアアアッ!』
力強い、生命力に溢れた赤子の産声が、初夏の生温かい空気を震わせて屋敷に響き渡った。
男は弾かれたように立ち上がり、障子の前で立ち尽くした。
「産まれましたよ! 元気な、元気な男の赤子でございます!」
血まみれの手を拭いながら、産婆が笑顔で障子を開けた。
男は転がるように産室へ入り、疲労困憊で布団に沈み込む妻を労うのもそこそこに、産婆の腕の中で湯浴みを終え、布に包まれた小さな命を抱き取った。
「おお……おお……でかした。よくぞ産まれてきてくれた……!」
男は、我が子の小さな顔を覗き込んだ。
大泣きに泣いていた赤ん坊は、父親の腕に抱かれた瞬間、ピタリと泣き止んだ。
* * *
(……五月蝿い。なんだ、この騒ぎは)
赤ん坊——いや、徳川家康の魂は、混沌とした意識の中で激しい混乱に陥っていた。
つい先程まで、駿府城の奥深くで本多正純らに看取られながら、静かに息を引き取ったはずだった。
すべてをやり遂げ、冷たくなっていく身体の中で、神仏の導きを待っていたはずなのだ。
それなのに、突如として五感を強烈な刺激が襲った。
眩しい光。肌に触れる粗末な布の感触。
血と羊水の生臭い匂い。そして、自分の意志とは無関係に、肺から絞り出されるような大音声の叫び。
(わしは、死んだはず……。いや、ここはどこだ? 駿府の城ではないのか? この妙な布切れは何だ。それに、なぜ身体が動かぬ?)
未だおぼつかない思考と、焦点の定まらないぼやけた視界を通して、彼は必死に状況を把握しようとした。
手足を動かそうとするが、思い通りにならない。視界の端に映った自分の手は、皺くちゃで、紅葉のような小さな小さな赤子の手であった。
(……赤子?)
その瞬間、家康の明晰な頭脳は、一つの信じがたい結論を導き出した。
自らの姿を想像し、自分が『赤子として新たに産み落とされた』という事実を、驚愕と共に意識したのである。
(馬鹿な……輪廻転生などという仏教の教えが、誠であったというのか。
天下を平定し、泰平の世を築いたわしが、再び人として生を受けただと? それも、このような……)
視界が徐々に鮮明になるにつれ、抱き抱えている男の顔が見えてきた。
身なりは粗末極まりない。
着ている着物は継ぎ接ぎだらけで、顔は日焼けして皺深く、手には農作業でこびりついた泥の跡がある。
しかし、その腰には確かに大小の刀が差されており、武士であることは間違いなかった。
(貧乏旗本か、あるいはどこぞの下級藩士か。
しかし、この男からは微かに……本当に微かにだが、三河の土の匂いがするような気がする)
前世の記憶と、赤子としての本能が脳内で激しく衝突する。
普通であれば、あまりの混乱に狂い泣きをするところだが、そこは幾多の修羅場を潜り抜けてきた「東照大権現」である。
家康は、己の内に渦巻くパニックを、その類まれなる精神力と理性で強引にねじ伏せた。
(慌てるな。泣き喚いて何になる。まずは現状の把握だ。今はいつだ? 年号は? ここはどこだ? 幕府はどうなっている? 徳川の世は、わしが築いた泰平は、無事に続いているのか?)
家康は、大泣きするのをやめ、抱きかかえる父親の顔をじっと見つめ返した。
* * *
男は、腕の中の我が子を見て、思わず息を呑んだ。
産まれたばかりの赤ん坊というのは、通常、目を固く閉じ、真っ赤な顔をして泣き叫び続けるものである。
あるいは、まだ焦点の合わない目でぼんやりと宙を見つめているかだ。
しかし、この赤ん坊は違った。
泣き声はぴたりと止み、その小さな目はしっかりと開き、男の顔を真っ直ぐに見据えていた。
ただ見つめているのではない。その瞳の奥には、赤子にはあるはずのない『思考』の光が宿っているように見えた。
周囲の状況を観察し、品定めし、何かを計算しているかのような、恐ろしく冷徹で理性的な目。
そして、その顔つき。
ふっくらとした赤子の頬をしているにも関わらず、口元はへの字に結ばれ、眉間にうっすらと皺が寄っている。
まるで、世の中の理不尽に対して不満を抱く老人のような、見事なまでの「仏頂面」であった。
「……なんだ、この目は」
男は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
まるで、偉大なる先祖か、身分の高い大物に見透かされているかのような錯覚。
この小さな赤子の内に、自分よりも遥かに巨大で、老獪な『何か』が宿っているのではないか。
男は思わず、腕の中の我が子に対して頭を下げそうになる奇妙な感覚に襲われた。
しかし、男はすぐに首を振り、己の馬鹿げた妄想を打ち消した。
「……気の所為だ。産まれたばかりの赤子に、自我などあるはずがない」
男はそう自分に言い聞かせ、無理に顔を綻ばせて赤ん坊を揺すった。
「おお、そうかそうか。お前も自分が三河十八松平の血を引く武士の家に産まれたことがわかり、覚悟を決めたような顔をしておるのだな。頼もしい奴め」
男の言葉を聞きながら、赤ん坊——家康は、心の中で深くため息をついた。
(三河十八松平だと? ふん、末端も末端、もはや血の繋がりなど無きに等しい下級武士ではないか。
それにしても、この貧しさ。
幕府の財政はどうなっておるのだ。
武士が泥にまみれて芋を育てねば食えぬ世の中など、わしの定めた法度には……)
家康は、未だ自由に動かない己の小さな手をじっと見つめた。
自分がどのような因果でこの時代に呼び戻されたのかはわからない。
だが、この理性的な目と、前世で培った天下人の記憶がある限り、ただの下級武士の子供として終わるつもりは毛頭なかった。
(よいだろう。仏が再びわしに命を与えたというのなら、それなりの理由があるはず。
天下泰平の世がどうなっているか、この目で見極めてやろうではないか)
安政五年、六月一日。
ペリーの黒船来航から五年。
日本がかつてない激動と混乱の渦に呑み込まれようとしているその直前に、幕府の創設者にして天下泰平の礎を築いた男は、皮肉にも己の膝元であった駿河の地で、ひっそりと産声を上げた。
仏頂面をしたその赤子は、やがて来るであろう時代の嵐に立ち向かうべく、その静かで理性的な瞳で、まだ見ぬ未来をじっと見据えていた。




