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葵三つ葉  作者: 丸亀導師
中つ事
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中事 6

明治十年(1877年)春。


西郷隆盛と大久保利通という、維新政府を牽引してきた「二大巨星」の同時退陣は、日本という国家の土台を激しく揺さぶる巨大な政治的空白を生み出した。


彼らが去り際に遺した言葉――「我々の独善による政治の腐敗」。


その重い十字架と、残された国家の舵取りという絶望的な重圧は、維新の三傑の最後の一人である木戸孝允の双肩に、すべて一任されることとなった。


病を抱えながらも、木戸は極めて冷静に時代の潮目を読み取っていた。


薩長という一部の官僚が密室で国策を決定する『有司専制』は、すでに制度疲労を起こし、限界を迎えている。

九州での士族の不満爆発(未遂に終わった反乱)は、その最たる証左であった。


「……もはや、一部の英傑が腕力で国を引っ張る時代は終わったのだ」


木戸は周囲の助言を受け入れ、一つの重大な決断を下す。


それは、維新以後ずっと続いてきた『有事体制(非常時の独裁)』から『平時体制(法と議会による統治)』への、国家の根本的な転換であった。

そして皮肉なことに。


その「平時体制」を敷くため、木戸が致し方なく承認せざるを得なかった器(システム)こそ、かつて大政奉還の折に、最後の将軍・徳川慶喜が構想していたとされる『幻の議会政体』そのものであった。


明治十年、大久保と西郷の退陣という劇薬に合わせ、日本は世界でも類を見ない、極めて洗練された「天皇の権力を議会に委任する体制」を導入したのである。


明治十年の新体制(慶喜構想の具現化)


木戸が整備し、発足させた新たな国家体制は、各階級の不満とエネルギーを「政治」という盤面に吸収するための、完璧な設計図であった。


* 【天皇】最高権威 兼 最高権力(絶対的なブレーキ)

国家のすべての主権と権力を持つが、実務はすべて首相と議会に「委任」する。普段は政治に口を出さないが、国家の仕組みそのものを破壊しようとする簒奪者が現れた時にのみ、「委任を取り消す」という絶対的な安全装置として機能する。


【首相・木戸孝允】行政の長(下局選出)

天皇から実務の全権を任された、国家の実質的なトップ。予算や法案を作成して国を牽引するが、議会(下院)の承認を得なければ、いかなる法律も予算も成立させることができない。


【議長】議会のみの長(上局選出/華族・士族)

議会をスムーズに進行させるための司会役。自らの意思で法案を潰す「否決権」は持たないが、賛否が同数(50対50)に割れた特異な状況においてのみ、最終決定を下す「キャスティング・ボート(決定票)」を投じる権限を持つ。


【下局】民意の反映(板垣退助など)

地方の有力者、地主、知識人など、国民の代表によって構成される。「すべての法案はまず下院を通さなければならない」という強い権限(下院優位の原則)を持ち、国家の予算と法律の出発点となる。


【上局】伝統とブレーキ(旧大名・不平士族など)

かつての藩主や、九州で暴発寸前だった旧士族の代表たちが座る議院。下院が作った法案を完全に拒否することはできないが、国の伝統や現実に合わせて「修正(ブラッシュアップ)する義務」を負う。


「剣」から「言論」への転換


このシステムの最も恐ろしく、かつ優れた点は、『上局』の存在であった。


時代に取り残され、行き場のない怒りを抱えて剣を抜こうとしていた士族たち。

木戸は、彼らを力で弾圧するのではなく、「貴方たちの高い見識と誇りで、下層の者たちが作る未熟な法案を修正し、国を導いてほしい」と、政治の舞台における『名誉ある役割』を与えたのである。


反乱を起こす大義を完全に奪われ、代わりに「国政に参画する」という正当な牙を与えられた士族たちは、刀をペンに持ち替え、議会という新しい戦場へとそのエネルギーを注ぎ込むこととなった。


板垣退助ら民権派が下院で民意を叫び、不平士族や旧大名たちが上院でそれを現実的な法案へと修正し、木戸孝允が首相としてそれを実行に移す。


異なる階級が互いの利害を激しくぶつけ合い、競い合うことで、国を前へと進めていく。それはまさに、大久保利通が去り際に気づき、徳川慶喜がかつて夢見た『公議政体』の完全なる実現であった。


滝脇慶家がフランスで学び、物理的な国力差に絶望していた頃。


極東の島国・日本は、流血の惨事(西南戦争)を最小限の犠牲で乗り越え、史実よりも遥かに早く、そして健全な形で「議会政治の夜明け」を力強く迎え入れていた。


―――


明治十年(1877年)春。


「天皇の権力を議会に委任する」という、世界でも類を見ない全く新しい国家体制が産声を上げた時。

第一期の『首相(行政の長)』として、このシステムを承認した木戸孝允が座ることは、誰の目にも明らかであった。


しかし、新体制のもう一つの巨大な柱――『上局(上院)の議長』、すなわち議会全体を取りまとめる司会進行役に誰を据えるかという点で、政府内は真っ二つに割れ、大紛糾することとなった。


「議長は、皇室の藩屏たる岩倉具視卿が務めるべきである!」


明治政府の中枢に残る薩長閥の官僚たちは、当然のようにそう主張した。議会という未知の怪物に、自分たちの息のかかった手綱をかけておきたかったのだ。

だが、これに強烈に反発した勢力があった。


勝海舟ら旧幕臣のネットワーク。そして、下局(下院)議員への選出が確実視されていた渋沢栄一をはじめとする民間資本家たち。さらには、薩長の専横を快く思っていなかった一部の華族たちである。


彼らは、党派を超えて結託し、岩倉の議長就任を断固として拒否。その代わりとして、「ただ一人の男」を強烈に指名・推挙したのである。


かつて、鳥羽・伏見の戦いで兵を見捨てて逃げ。

江戸城を無血で明け渡し。

その身を駿府(静岡)へと移して、ひたすらに沈黙を守り続けてきた男。


徳川慶喜である。


「……馬鹿な! 旧幕府の将軍を、大日本帝国の初代議長に据えるだと!?」


薩長閥は猛反発したが、首相となる木戸孝允は、深く長い溜息をついた後、これを『承認』せざるを得なかった。


上局に座る華族や不平士族たちを納得させ、議会という器に権威を持たせるためには、日本最大のネームバリューと教養を持つ「徳川慶喜」という神輿が、どうしても必要だったのだ。


結果として、大日本帝国議会の初代議長は、徳川慶喜となることが決定した。


この決定に対し、難色を示すと思われていた明治天皇は、驚くべきことに大いに理解を示し、すんなりと裁可を下した。


若き天皇は、玉座からこの十年間、薩長閥による有司専制の限界と、醜い権力闘争をその目で冷徹に観察し続けてきた。


(……もしかすると、国をまとめる器としては、あの慶喜という男の方が合っていたのではないか?)


天皇の胸の奥底には、そんな密かな思いが芽生え始めていたのである。


そして何より、天皇の心を動かしたのは、政界を去る直前に西郷隆盛が拝謁した際、天皇にだけ告げた『ある事実』であった。


「陛下。此度発足する議会の制度……あの原案を描いたのは、他でもない、徳川慶喜公にございます」


―――


駿府の地で、趣味のカメラや油絵に興じていた慶喜の元へ、明治天皇からの正式な「議長就任を命ずる勅使」が届けられた。


慶喜は、その書状を手に取ると、徐(おもむろ)に駿府の青く澄んだ春の天を見上げた。


「……この仕組みは、かつて土佐の坂本(龍馬)という男が発案したものだ。だが、それを日ノ本の形として選んだのは、確かに私だ」


慶喜は、自らの手で投げ出したはずの国家の舵取りが、十年という歳月を経て、再び自分の元へと回ってきたという歴史の皮肉に、微かに唇を歪めた。


そして、勅使に向かって、議長を引き受けるための「絶対の条件」を言い渡したのである。


「――私が議長の席に座るのは、大坂、会津、そして箱館(函館)を巡り、あのいくさ(戊辰戦争)で散っていった者たちの霊を慰めてからだ。それまでは、待ってもらう」


かつて、自らが戦端を開き、そして自らが放り出したことで、賊軍の汚名を着せられたまま無念の死を遂げた者たち。彼らの魂に詫び、ケジメをつけずして、新しい国の議長席に座ることはできない。


それは、徹底して冷酷な合理主義者であった徳川慶喜が、人生で初めて見せた、痛切な『意地』であった。

天皇は、この条件を快諾した。


―――


*大坂の陣跡・鳥羽伏見

明治10年 4月

かつて自らが軍を置き去りにして逃亡した地。慶喜は深く頭を垂れ、幕府軍として戦い散っていった諸藩の兵たちの慰霊碑に手を合わせた。


*会津・若松城跡

明治10年 5月

最後まで徳川への忠義を貫き、凄惨な籠城戦の末に焼け落ちた会津。慶喜は、松平容保の無念と、白虎隊をはじめとする犠牲者たちの魂に、長時間の黙祷を捧げた。

* 箱館・五稜郭

明治10年 5月下旬

旧幕臣たちが最後の抵抗を試みた北の大地。慶喜は榎本武揚らと共に戦い散った土方歳三らの魂を慰め、ついに自身の過去(旧幕府)との完全なる決別を果たした。


―――


第一回 大日本帝国議会、発足

慶喜の鎮魂の巡礼が終わり、彼が帝都・東京へと足を踏み入れたのは、明治十年の梅雨時のことであった。

雨のそぼ降る中。

新たに建設された壮麗な議事堂に、フロックコートに身を包んだ首相・木戸孝允、下局の議員たち、そして上局に座る旧大名や士族たちが一堂に会していた。

その議場の最も高い席。

かつて日本を統べる将軍であった男が、今は「議長」として、静かに、そして威風堂々と木槌(ガベル)を握りしめていた。


「――これより、第一回大日本帝国議会を開会する」


徳川慶喜の静かで通る声が、議場に響き渡る。

それは、旧幕府の怨念と薩長の驕りが「言論」という新しい盤面で昇華され、極東の島国が本当の意味で『近代国家』としての第一歩を踏み出した、歴史的な瞬間であった。


―――


「徳川慶喜は、鳥羽伏見で我々を見捨てて逃げた裏切り者である」


それが、戊辰戦争で血を流し、明治の世で没落していった旧幕臣や不平士族たちにとっての、長年にわたる絶対的な共通認識であった。彼らにとって慶喜とは、怨嗟と軽蔑の対象でしかなかったはずである。


しかし。


いざ議会が発足し、華族や士族の代表たちの熱烈な推挙によって、他ならぬ慶喜が『大日本帝国議会の初代議長』という最高位に座った事実を目の当たりにした時。


帝都の市井や、全国の士族たちの間で、突如として「ある奇妙な噂」が爆発的に広まり始めた。


『――聞いたか。慶喜公は、決して我々を見捨てて逃げたわけではなかったのだ』


『ああ。公はあえて泥を被り、この十年間、薩長の有司専制という悪政の裏で、孤独な暗闘を続けておられたのだ……!』


『そして今、公は議長という座に就き、ついに薩長政府を打ち破って【勝利】を得たのだ! 我々の徳川は、負けてなどいなかったのだ!』


冷静に考えれば、あまりにも都合が良く、荒唐無稽な「酷い噂」であった。


だが、時代に取り残され、行き場のない怒りと惨めさに打ちひしがれていた旧士族たちにとって、この噂は『極上の精神的救済』として機能した。


「自分たちの主君は無能な暗愚ではなく、十年越しの逆転劇を演じた大策士であった」。そう思い込む(あるいは信じたふりをする)ことで、彼らは己のプライドを保ち、薩長政府への恨みを『慶喜公の勝利』という形で無理やり納得させることができたのである。


当然、この滑稽な噂は、政府の中枢にもすぐさま届いていた。


しかし、当の徳川慶喜も、首相である木戸孝允も、そして最高権威である明治天皇までもが、この噂に対して「一切の肯定も否定もしない」という徹底した沈黙を貫いた。


「……馬鹿馬鹿しい。私が裏で暗闘など、するはずもなかろうに」


議長室で報告を聞いた慶喜は、苦笑しながら葉巻を吹かした。


「だが、阿呆な士族どもが私を『英雄』と勘違いして大人しくなるのであれば、その程度の泥(偶像)はいくらでも被ってやろう」


木戸もまた、同じ計算を弾いていた。


噂を公式に否定してしまえば、せっかく矛を収めた士族たちの怒りが再び燃え上がる。彼らが勝手に溜飲を下げ、議会という新しいルールに従ってくれるのであれば、これほど安上がりな治安維持対策はない。


明治天皇も、沈黙の奥底でその政治的効果を正確に見抜いていた。


国家を安定させるためには、時に『事実』よりも『民衆が信じたい物語』をそのまま泳がせておく方が、遥かに国益にかなうのだ、と。


人の噂も七十五日


熱狂的に語られた「慶喜公の逆転勝利」という噂は、まさに諺の通り、七十五日も過ぎる頃には、人々の口から自然と消え去っていった。


だが、噂が市井の風にかき消された頃には、日本の社会はすでに「議会で議論を戦わせる」という新しい平時体制(日常)に、完全に適応してしまっていた。


士族たちは刀を置いて新聞を読み耽り、上局の議員たちは国策の修正に知恵を絞り、下局の議員たちは地方の利益を代弁して声を張り上げる。


誰もが、血を流すことなく、自らの不満を「言論」という盤面にぶつける方法を学習したのである。


明治十年、夏。

西郷と大久保の退陣、そして慶喜の復権という劇的なうねりを経て、日ノ本という国家は、内乱の危機を完全に脱し、近代国家としての強靭な骨格をついに完成させた。


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