中事 5
揺れる馬車の車内で、大山巌は葉巻の煙を細く吐き出しながら、向かいに座る二人の若き将校に冷厳な事実を告げた。
「さて、乃木少佐、滝脇中尉。先ほども少し触れたが……陸軍省に到着し次第、貴官らを待ち受けているのは凱旋の祝宴ではない。軍上層部と参謀局による『査問会』だ」
乃木希典の顔に、やはり来たかという硬い緊張が走った。
「……我々の部隊運用が、独断専行にあたるとの疑いですね」
「その通りだ。特に滝脇中尉、お前さんの考案した戦術と現場での兵站焼き討ちは、石頭の将校どもからすれば『軍紀と武士道を根底から破壊する危険な越権行為』に映っている。……厳しい尋問になるぞ。覚悟はいいか?」
大山は脅すように目を細めたが、当の慶家は、意に介する様子も全くなく、むしろ不敵な笑みを深くした。
「査問会。結構なことです」
慶家は、仕立ての良い軍服の襟を軽く正した。
「処罰したければすればいい。ですが、私はただ頭を下げるつもりは毛頭ありません。
此度の九州での戦訓、すなわち『諸兵科の連動と現場裁量の絶対的優位性』を突きつけ、旧態依然とした軍の教範を根本から叩き直すよう訴えるつもりです。
……それに、反乱の火種を放置し、無駄な戦費と血を流させた『政府中枢の怠慢』についても、この際きっちりと糾弾してやりましょう」
一介の中尉が、陸軍の最高幹部たちを相手に説教と糾弾を行うというのだ。
乃木は横で「た、滝脇中尉……!」と冷や汗を流したが、大山巌は眼を見開いた後、再び豪快な笑声を上げた。
「わははは! 相手は陸軍卿や参謀局のトップだぞ。お前さん、本当に『怖いもの知らず』の若造だな!」
大山のからかうような問いに対し、慶家の瞳からスッと笑みが消えた。
代わりに宿ったのは、天下の業火を潜り抜けてきた大御所としての、底知れぬ重圧と静かな怒りであった。
「……怖いもの知らず、ですか。いいえ、閣下。私は恐ろしいのです」
慶家は、車窓の外を流れる帝都・東京の街並みへ視線を向けた。
煉瓦造りの建物が立ち並び、人々が忙しなく行き交う、近代化の熱気に浮かされた街。
「私が恐ろしいのは、権力者に睨まれることでも、己の首が飛ぶことでもありません。
……この日ノ本という国が、列強の恐ろしさも、戦争というものの真の残酷さも理解せぬまま、見栄と精神論だけで『理由も分からぬ方向』へと走り続け、やがて取り返しのつかない破滅(亡国)へと向かっていくこと。……それこそが、余程恐ろしいのです」
慶家の視座は、一介の軍人のそれを遥かに超越し、国家百年の計を俯瞰していた。
大山は、その言葉の奥底にある「為政者の孤独」を感じ取り、葉巻を下ろして深く感心したように息を吐いた。
「……なるほど。お前さんの目には、この国の行く末がそこまで見えているか」
大山は、鋭い眼光で慶家を射抜いた。
「だが、滝脇中尉。それほどまで国を憂い、政府を正そうとするのなら、政治家(官僚)になれば良いではないか。……それは、『軍人』でなければ出来ないことか?」
鋭い問いであった。
渋沢栄一のように野に下ることも、あるいは内務省で権力を握る道も、慶家の頭脳があれば容易いことである。なぜ、最も硬直した『陸軍』という組織に固執するのか。
慶家は、ゆっくりと大山に向き直り、静かに、しかし予言めいた絶対の確信を持って答えた。
「――このまま行けば、将来的に必ず『軍』は暴走します」
「……何?」
大山と乃木が、同時に息を呑んだ。
「武士という中世の遺物が消え去り、国民皆兵の時代が来る。やがて軍隊は、国家の枠組みすら飲み込む巨大な暴力装置(怪物)へと成長するでしょう。 ……その時、軍の中枢に『算盤を弾き、血の重さを知る冷酷な脳髄』がいなければ、精神論に酔いしれた阿呆どもが、何の罪もない臣民すべてを巻き込んで、この国を破滅の淵へと引き摺り落とす。
……だからこそ、私は軍の内側から、この首輪を握らねばならないのです」
昭和の時代に日本が辿る破滅の運命(軍部の暴走)を、まるで見てきたかのように断言するその言葉。
大山巌は、己の背筋を冷たいものが駆け上がるのを感じた。乃木もまた、戦場で見た慶家の「骸への祈り」を思い出し、彼が背負おうとしている途方もない十字架の重さに戦慄した。
車内が、言葉を失うほどの重い沈黙に包まれた、その時。
「――到着いたしました。陸軍省にございます」
御者の声と共に、馬車がゆっくりと停止した。
慶家は、懐中時計を取り出して時間を確認すると、パチンと蓋を閉じた。
「……さあ、参りましょうか。少佐殿、閣下」
慶家は、自らの『予言』など忘れたかのように、いつもの不敵で冷ややかな笑みを浮かべて馬車を降りた。
目の前にそびえ立つのは、日本の武力の中枢たる陸軍省の威容。
待ち受けるのは、彼を異端として排除しようと手ぐすねを引く、反旧幕派の将校や参謀局の重鎮たちが並ぶ『査問会』である。
「いくさの算段もできぬ阿呆どもに、少しばかり灸を据えてやらねばなりませんからね」
滝脇慶家(徳川家康)は、一切の躊躇いもなく、自らが蹂躙すべき次なる盤面(査問会)へと向かって、堂々たる足取りで歩みを進めていった。
―――
陸軍省の最深部に設けられた、重厚な扉に閉ざされた会議室。
そこには、陸軍卿をはじめとする参謀局のトップや高級将校たちが居並び、中央には乃木希典少佐と滝脇慶家中尉が立たされていた。
「――滝脇中尉! 貴官の行いは、我が大日本帝国陸軍の面汚しである!!」
開口一番、反旧幕派の将軍が机を激しく叩き、怒号を響かせた。
「貴官の提唱したフランス式の新戦術と聞いて期待してみれば、なんだあの有様は! 敵の背後に回って荷車を焼き、井戸に汚物を投げ込み、飢えさせてから撃ち殺すなど……!
西洋の教範のどこにそんな卑劣な戦法が載っている! 第一、武士道にも劣るその戦い方を、諸外国の公使たちにどう思われるか考えたことがあるのか!」
彼らにとって、軍隊とは「国家の威信」を示すための煌びやかなショーウィンドウでもあった。正々堂々と正面から戦わず、陰湿なゲリラ戦と泥棒のような兵站破壊を行った慶家の戦術は、彼らの硬直したプライドを著しく傷つけていた。
しかし、その糾弾に対し、傍聴席に座っていた数名の将校たちが異を唱えた。
大山巌をはじめとする、普仏戦争を直接視察し、あるいは欧州での留学経験を持つ『本物の近代戦』を知る軍人たちである。
「……お待ちいただきたい。滝脇中尉の戦術は、確かに従来の教範から逸脱しているように見えます。しかし、欧州における『近代総力戦』の観点から言えば、彼の行いを罪と断じるのは難しい」
一人の留学組将校が立ち上がり、冷静に弁護を始めた。
「敵の補給線を断ち、継戦能力を奪うのは、むしろ戦略の基本です。
彼が現場の判断で諸兵科を流動的に動かしたことも、『指揮官の意図を達成するための現場裁量』として拡大解釈すれば、極めて高度で立派な軍事的解釈と言えます。事実、自軍の損耗は皆無に等しかったではありませんか」
「詭弁だ! あのような野盗の真似事を、皇軍の正当な戦術として認めるわけにはいかん!」
会議室は、慶家の戦術を「卑劣な面汚し」と断じる石頭の上層部と、「先進的な近代戦」と評価する留学組との間で、激しい怒号が飛び交う紛糾状態に陥った。
その喧騒の中。
乃木希典が、静かに、しかし一歩前に出て、凛とした声で部屋中の視線を集めた。
「――お待ちいただきたい。閣下方に申し上げます」
乃木は、微動だにせず、真っ直ぐに上層部を見据えた。
「滝脇中尉の行動は、すべて連隊長である『私』が許可し、命じたものにございます。現場における独断専行の罪、ならびに皇軍の威信を損ねたという責があるのならば、それは麾下の中隊長ではなく、指揮を執ったこの乃木希典の責任に他なりません。
いかなる処分も、私が受ける所存です」
それは、実直な軍人である乃木が、将来ある若き天才(慶家)を庇い、己の身を挺して泥を被ろうとする、あまりにも高潔な自己犠牲の宣言であった。
上層部の将官たちも、真面目で知られる乃木のこの発言に一瞬怯み、言葉を失った。
だが。
「……少佐殿。お気遣いはありがたいですが、的外れもいいところです」
乃木の背後から、氷のように冷たく、そしてどこか呆れたような声が響いた。
滝脇慶家である。
「た、滝脇中尉……! 貴官は黙っていろ!」
乃木が制止しようとしたが、慶家はそれを悠然と手で制し、居並ぶ陸軍の最高幹部たちに向かって、不敵な笑みを浮かべた。
「乃木少佐には何の問題もありません。処分を受けるいわれなど、万に一つも存在しない。
……問題があるとすれば、それは貴方がた『硬直化した軍政』と、この騒乱を招いた『明治政府そのもの』にあります」
「な……っ! 貴様、一介の中尉の分際で何を言うか!」
激昂する将軍たちを前にしても、慶家の態度は少しも揺るがなかった。むしろ、その瞳には、天下を治める大御所としての『絶対的な怒り』が静かに燃え上がっていた。
「武士道にも劣る、だと? 笑わせるな」
慶家の低く通る声が、会議室の空気を凍りつかせた。
「では問うが、貴方方はあのまま正面から撃ち合い、我が軍の若き兵士たちが何百、何千と死体となって転がるのを見たかったのか? 諸外国の目を気にして、身内の血を無駄に流すことが皇軍の誇りだとでも言うのか!
……私は、貴方方の無能な政治の尻拭いをし、被害と騒乱を『最小限』に抑えるために、最も合理的な算段を打ったに過ぎない!」
「き、貴様ァッ!!」
「糾弾されるべきは私ではない! 不平士族の不穏な動きを事前に警察の諜報網が察知していたにもかかわらず、それを黙殺し、同国人同士が数万の規模で殺し合う事態を招いた、陸軍省と明治政府の怠慢こそが糾弾されるべきなのだ!」
軍の最高幹部たちに向かって、己の非を認めるどころか、逆に国家の失政を痛烈に抉り出し、完全な論破と逆弾劾を叩きつける。
そのあまりの傲岸不遜さと、反論の余地もない正論の暴力に、会議室は水を打ったような静寂に包まれた。大山巌ら留学組の将校たちすら、この若造の底知れぬ度胸に冷や汗を流していた。
そして、慶家は、完全に沈黙した上層部に向かって、究極の「爆弾」を投下した。
「……このまま貴方方のような『見栄と武士道』に酔いしれた阿呆どもに軍を任せておけば、いずれ必ず日ノ本は滅びる」
慶家は、微塵も恥ずかしげのない、堂々たる態度で言い放った。
「この事実を踏まえ、私はこれより、事の次第のすべてを『天皇陛下へと直訴』申し上げる所存です」
「――っ!!!!」
天皇陛下への直訴。
それは、軍の指揮系統と政府の権威を根底から飛び越える、明治国家において最も恐るべきタブーであり、最大の『脅迫』であった。
もし、一介の士官が天皇に直接「政府と軍の怠慢の証拠(警察の事前情報など)」を突きつければ、陸軍卿はおろか、政府首脳陣の首すら物理的に飛びかねない大疑獄事件に発展する。
「や、やめろ……! 狂っているのか貴様は!」
「たかが中尉が、陛下にお目通りなど叶うはずがないだろう!」
顔面を蒼白にして叫ぶ将軍たちに対し、慶家はかつて家康が天下の大名たちを平伏させた時と同じ、凄惨で絶対的な覇王の笑みを浮かべた。
「叶うかどうか。……試してみられますか?」
司法省警保寮に巣食う『旧幕府の影』たち。渋沢栄一という巨大な『資本』。そして、フランスから持ち帰った圧倒的な『知識』。
彼らには分からないのだ。目の前の二十歳の特異点が、その気になれば本当に皇居の奥深くまで情報をねじ込み、盤面をひっくり返すだけの手札を、すでに完全に握りしめているということに。
査問会という名の『吊るし上げ』は、滝脇慶家という一人の怪物によって、陸軍中枢に対する完全なる『死の宣告』へと変貌していた。
凍りついた査問会の会議室。
天皇への直談判を堂々と宣言し、陸軍中枢に刃を突きつけた慶家の凄絶な覇気に、将官たちの顔が蒼白に染まっていたその時である。
「――そこまでにごわす」
重厚な扉が軋みを開て開き、一人の巨漢が静かに、しかし圧倒的な存在感を放ちながら会議室へと足を踏み入れた。
留守政府の重鎮にして、陸軍の象徴とも言える男、西郷隆盛である。
「さ、西郷閣下……!?」
怒号と沈黙が交錯していた会議室に、新たな動揺が走った。
九州での士族反乱の首謀者たちが西郷の腹心(村田新八ら)であったため、西郷自身も政府内で極めて微妙な立場に置かれているはずであった。その彼が、なぜこの下級将校の査問会に姿を現したのか。
西郷は、並み居る将官たちを一瞥もせず、真っ直ぐに慶家の前へと歩み寄った。
「滝脇中尉。おはんの言うことは、いちいち正論ごわす。あの阿呆どもの暴走を未然に防げなかった政府の怠慢、そして無駄な血を流さずに戦を終わらせたおはんの戦術。……どれも、この西郷が完全に保証しよう」
西郷は、己の政治的立場など微塵も気に掛ける様子もなく、はっきりと慶家の肩を持った。
そして、その太く深い声で、部屋全体に響き渡るように告げたのだ。
「しかしな、中尉。陛下を煩わせるような直訴は、この西郷が許さん。……此度の騒乱、根本を質せば、おいを慕うていた者たちが起こした不始末ごわす。
彼らの感情論を抜きにしても、おいにはそれを止めきれなかった『絶対的な落ち度』がある」
西郷は、ゆっくりと、しかし岩山のように揺るぎない決意をもって、陸軍卿や将官たちに向き直った。
「此度の責任は、すべておいが取る。……滝脇中尉ら、現場で血を流した者たちに一切の咎はなしとする。その代わり、おいは本日をもって政府の全役職を辞し、軍服を脱ぐ」
「な……っ!? 西郷先生! それはなりませぬ!」
大山巌ら薩摩出身の将校たちが、悲鳴のような声を上げた。西郷隆盛の引退は、明治政府そのものを根底から揺るがす大事件である。
だが、西郷の決意は固かった。
彼にとって、村田新八らが起こした反乱は決して「他人事」ではなかったのだ。彼らがなぜ時代錯誤の凶行に走ったのか、西郷には痛いほど分かっていた。
そして、その不満を事前に察知していながら、権力闘争にうつつを抜かして情報を握り潰した「使節団組(大久保ら)」に対する静かな、しかし確かな怒りもあった。
「……おい一人で腹を切るつもりはなか。情報を黙殺し、国を危機に晒した者たちにも、相応の『落とし前』はつけてもらう」
西郷の目は、使節団組の息がかかった政府の重鎮たちを冷酷に射抜いていた。彼は自らの政治生命(首)を差し出すことで、慶家らの罪を完全に消し去ると同時に、政府中枢の腐敗した重鎮たち(使節団派の数名)を道連れにして政界から引きずり下ろすという、捨て身の相打ちを図ったのである。
―――
「……西郷殿。貴方はそれで良いのですか」
慶家は、自らの直訴という最強の手札を強引に叩き落とされ、深い不満の塊のような顔で西郷を睨みつけた。
(私が直訴に及べば、政府の癌をより確実に、法的に取り除けたものを。……この男は、己の情と道連れという古臭い手段で、すべてを有耶無耶にしようとしている)
「おはんには不満じゃろうな、中尉」
西郷は、慶家の冷たい視線を受け止め、ふっと大きな笑みをこぼした。
「じゃが、おはんは若すぎる。まだ、こんなところで大火傷を負って消えるべき男じゃなか。
……おいのような古臭い人間は、古臭いやり方で舞台を降りるのが一番ごわす。後の始末は……頼んだぞ、徳川の若き知恵袋よ」
それは、かつて江戸城無血開城において、己と対等に渡り合った「江戸の亡霊(家康)」に対する、西郷なりの最大の敬意と、日ノ本の未来を託す遺言のような言葉であった。
慶家は、舌打ちを一つすると、それ以上は何も言わず、軍帽を深く被り直した。
(引くに引けぬか、薩摩の巨星め。……相変わらず、情に脆く、理屈の通らぬ不器用な男だ)
西郷隆盛の突然の介入と、自らの辞職を賭けた刺し違えにより、滝脇慶家に対する査問会は完全にうやむやとなり、彼の軍略は「無罪」として公式に黙認されることとなった。
明治十年、春。
西南戦争という内乱の終結と引き換えに、新政府の巨大な柱であった西郷隆盛が政界を去った。
その空白は、日本という国家に新たな混乱を生むこととなるが……同時にそれは、滝脇慶家という二十歳の怪物が、軍の内部で誰にも縛られることなく、己の設計図通りに『軍制改革』という名の手術を強行するための、最高の土壌が完成した瞬間でもあった。




