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葵三つ葉  作者: 丸亀導師
中つ事
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中事 2

明治十年、九州。


この日ノ本を揺るがす巨大な士族反乱において、決起した数万の兵の先頭で大将旗を掲げていたのは、史実のような西郷隆盛ではない。彼の最も忠実な腹心であり、薩摩の精神的支柱の一人でもあった村田新八であった。


時計の針は、明治七年に遡る。

村田は、新政府の重鎮として国政を動かす西郷の「変節」に、激しい疑念と怒りを抱いて抗議に赴いていた。


「西郷先生! なぜごわすか! なぜ、あのような時代錯誤の『徳川の税制』など復活させたのです! あまつさえ、我々が血を流して倒した旧幕臣の役人どもを大量に雇い入れるなど……先生は、徳川の亡霊にでも憑りつかれたとですか!」


しかし、西郷は泰然として「これが日ノ本の民を救い、国を磐石にする最善の手ごわす」と答えるのみであった。


欧米視察も経験し、見識が広いはずの村田であったが、この時の西郷の「極めて現実的で冷酷な為政者としての判断」を、感情的にどうしても理解することができなかった。


結果として、村田は涙を飲んで西郷と袂を分かった。

彼の下には、同じく新政府の「旧幕臣重用」と「有司専制」に反発して野に下った篠原国幹ら元軍人や、警察官たちが次々と集った。


彼らが掲げた大義は、政府への反逆ではない。「悪しき旧幕府の亡霊から、敬愛する西郷先生の目を覚まさせてやりたい」という、極めて純粋で、それゆえに狂信的な『義挙』であったのだ。


(もっとも、帝都でその報せを聞いた当の西郷隆盛からすれば、「阿呆どもが。いくさと国造りの違いも分からんか……」と頭を抱えるほどの、大いなる『有難迷惑』でしかなかったのだが)


―――


村田や篠原が率いる九州士族たちは、己の義を信じ、凄まじい士気と抜刀突撃をもって北上を開始した。


しかし、彼らを小倉で迎え撃つ混成第一連隊の麾下で、一個中隊を指揮する滝脇慶家は、彼らのその「熱く高潔な精神性」を、最も冷酷で卑劣な方法で叩き潰しにかかっていた。


「……前衛の抜刀隊とは絶対に交戦するな。敵の主力は通過させろ」


深夜の山中。


慶家は、台湾出兵を生き抜き、自分に狂信的な忠誠を誓う旧幕領出身の古参兵たちを少数のゲリラ部隊に分け、敵の監視網をすり抜けて『背後』へと浸透させていた。


「狙うのは、敵の尻尾(兵站)のみだ。食糧を積んだ荷車を燃やせ。橋を落とせ。野営地の井戸には汚物を投げ込み、一切の補給を絶て」


それは、華々しい名乗り合いも、武士の誇りを懸けた一騎打ちも存在しない、完全な「泥棒」と「放火魔」の戦術であった。


数日後。


連隊長である乃木希典は、前線の小高い丘の上から、双眼鏡越しにその光景を見て絶句していた。


最前線で刀を抜いて待ち構えている士族たちの後方で、彼らの命綱である弾薬庫と兵糧の集積所が、次々と黒煙を上げて炎上しているのである。


反乱軍は前方に敵を見据えて気負い立っていたが、突如として背後の食糧をすべて焼かれ、完全に宙に浮いた状態となってパニックを起こし始めていた。


「滝脇中尉……! 貴官の部隊の仕業か!」


乃木は、陣幕に帰還した慶家に向かって、激しい怒りと困惑をぶつけた。


「敵は我々に正々堂々と決戦を挑んできているのだぞ! それを、背後に回って米俵を焼き、井戸を潰すなど……! まるで野盗の振る舞いではないか。

貴様のやり方は、あまりにも武士道にもとる!」


真面目で高潔な乃木にとって、軍人とは天皇の刃であり、正々堂々と敵を打ち破ってこそ大義が立つものであった。夜陰に乗じて食糧を燃やすなどという陰湿な戦法は、彼の美学(武士道)からすれば到底許容できるものではなかったのだ。


しかし、慶家は泥で汚れた軍服の袖を払いながら、無感情なまでに冷ややかな目で乃木を見返した。


「武士道? ……少佐殿、兵学書ばかり読んで頭が硬くなっているのでは?」


慶家は、軍の教範を鼻で笑うように吐き捨てた。


「敵は勝つための算段(兵站)を持たず、ただ『美しく死ぬための場所』を求めて突撃してきているだけです。そんな心中願望に、なぜ我々の大切な兵士の命を付き合わせてやる必要があるのですか」


「いくさとは、敵の戦意を挫き、勝利を得ることだ! 卑怯な真似をしてまで――」


「いくさとは、『いかに味方の損耗を減らし、敵を機能不全に陥れるか』という算盤です」


慶家の一喝が、乃木の怒声を冷酷に切り裂いた。


「兵站を絶たれた軍隊は、三日で飢え、一週間で病に倒れ、士気は完全に崩壊する。

私が荷車を燃やしたおかげで、正面から斬り合えば死んでいたであろう我が連隊の兵士たちの命が、何百人も救われたのですよ。……味方を無傷で生かすことの、一体何が『卑劣』なのですか」


乃木は、反論の言葉を失った。


慶家の言う通り、反乱軍は兵站を焼かれたことで完全に足止めを食らい、前線の士気は急速に瓦解し始めていた。味方の血を一滴も流さず、戦局は完全に官軍側の有利へと傾いていたのだ。


(……この男は、本当にあの名門・滝脇家の人間なのか?)


乃木は、背筋に冷たい汗が流れるのを感じていた。


滝脇慶家。

駿府の旧幕臣の家系に生まれ、最後の将軍・徳川慶喜から直々にその名の一字を賜ったという男。噂によれば、彼は慶喜に対して深い畏敬の念を抱き、江戸の誇りを胸に秘めていると聞いていた。


乃木が想像していた「旧幕臣の誇り高き武士」像とは、たとえ滅びゆく運命であっても、主君のために正々堂々と剣を振るう、それこそ目の前の敵(九州士族)のような姿であった。


だが、目の前に立つこの二十歳の若者は違う。


武士の誇りなどという幻想を完全に切り捨て、泥にまみれることを厭わず、敵を最も陰湿かつ確実に餓死させる算段を、まるで帳簿をつけるように平然と実行する。


その底知れぬ合理主義と、手段を選ばぬマキャベリズムの塊のような姿は、乃木の思い描く『武士』の枠組みから、あまりにも遠く、異様であった。


(……この男の目に映っているのは、武士道でも名誉でもない。ただ、冷酷な『勝利』という結果だけだ……)


時代に取り残された士族たちが、己の美学のために炎となって散ろうとする中。


戦国の地獄を生き抜き、天下をその手に簒奪した大御所(家康)の魂は、近代軍隊の制服を着て、一切の感傷を交えることなく、彼らの命を無慈悲に「事務処理」し続けていたのである。



―――


滝脇慶家(家康)の冷酷極まりない「兵站焼き討ち」の戦術は、わずか三日の間に九州士族たちの誇りを泥に塗れさせ、彼らの精神を極限まで追い詰めた。


弾薬はあっても、腹が減っては戦はできぬ。


補給線を完全に断たれた村田新八や篠原国幹率いる士族たちは、草の根を齧り、泥水をすする飢餓地獄へと叩き落とされた。そして、飢えに喘ぐ数千の軍勢を抱えた彼らは、ついに武士としての矜持を捨て、ある『苦渋の決断』を下さざるを得なかった。


「……背に腹は代えられん。直近の村落へ入り、食糧を徴発(略奪)する」


政府の悪政から民を救うという大義を掲げて決起したはずの彼らが、生き延びるために、その守るべき民の村を襲う。それは、反乱軍が道徳的な正当性を完全に喪失した瞬間であった。


網を張る蜘蛛、動く連隊


「――少佐殿。敵が動きました。目標は南西の村落、『略奪』の構えです」


警察の諜報網からその報せが届いた時、乃木希典少佐の動きは、これまでの逡巡が嘘のように迅速かつ峻烈であった。


罪なき農民が略奪の犠牲になる。それは、乃木の持つ『武士道』と『軍人の本分』が絶対に許容できない事態であった。


「直ちに出撃する! 民草を逆徒の牙から護るのだ!」


乃木の号令の下、これまで戦闘を避けに避けて不満を溜めていた混成第一連隊が、ついにその本来の牙を剥いた。


ここで、慶家が論文で提唱し、軍が新編した「諸兵科連合(混成部隊)」の真価が劇的な形で発揮されることとなる。


機動力に優れる「騎兵中隊」が、歩兵を待たずに単独で先行。


彼らは砂煙を上げて村落へと急行し、敵が到着するよりも早く村に飛び込んだ。

騎兵たちは即座に下馬して臨時の防衛線を敷くと同時に、逃げ惑う住民たちを村の裏手から安全な後方へと徹底的に避難させた。


住民の避難が完了し、騎兵の薄い防衛線が敵の斥候と接触し始めた絶好の牽制のタイミングで、乃木と慶家が率いる「歩兵・砲兵の本隊」が到着する。


彼らは村の入り口の建物を盾にし、あらかじめ掘らせておいた塹壕に陣取ると、山砲を完璧な射線で配置し、あっという間に村落を『鉄壁の要塞』へと作り変えてみせた。


陣地の後方で、慶家は冷静に前方の森を見据えていた。


血気盛んに突撃してくる敵に対し、自ら攻め込むような真似は決してしない。敵の激しい猛攻を強固な陣地で受け止め、その勢いと体力を完全に削ぎ落とした後に、複雑な終盤戦で機動力を活かして相手を盤面ごと制圧する。


それは、彼が最も得意とする「受け潰し」の戦術であった。


「……さあ、来るぞ」


森の奥から、飢えと疲労、そして「ここで食糧を奪わねば死ぬ」という狂気に目を血走らせた士族たちが、刀を抜き放って雪崩を打つように姿を現した。


彼らの頭には、「村の農民を脅して米を奪う」という算段しかなかった。


しかし、彼らが森を抜けた先で直面したのは、逃げ惑う農民の姿ではない。


塹壕に身を隠し、幾重にも銃口を突きつけ、大砲の照準を完全に合わせきって待ち構える、近代化された混成部隊の『無慈悲な防衛線』であった。


「な……っ!? なぜ、官軍がすでに村に陣を敷いているのだ!」


「退くな! ここを突破せねば、我々に明日はない! チェストォォォ!!」


絶望と飢餓に急き立てられた薩摩武士たちが、死狂いとなって一斉に村へと突撃を開始する。

乃木希典は、軍刀を高く振り上げ、万感の思いを込めて叫んだ。


「逆徒どもに、一歩も村を踏ませるな! ――全軍、撃てェェェッ!!」


ダダダダダダダダダッ!!


ドゴォォォォンッ!!


近代戦術と兵站の計算によって完全にコントロールされた「待ち伏せ」。


飢えに苦しむ旧時代の武士たちが、慶家という男が冷酷に組み上げた「必殺の終盤戦エンドゲーム」の盤面へと、自らその身を投げ出した瞬間であった。



―――


村落を盾とした防衛戦は、戦いという言葉すら生ぬるい、完全なる「一方的な破砕作業」へと変貌していた。


「突撃! 怯むな、一歩でも前へ——ッ!」


村田新八、篠原国幹の号令の下、飢えと狂気に突き動かされた薩摩武士たちが、白刃を煌めかせて村落へと押し寄せる。彼らの士気は凄まじく、死を恐れぬその気迫は、かつて日本最強と謳われた示現流の恐ろしさを遺憾なく発揮していた。


しかし、彼らが激突したのは、精神論で崩せるような柔な陣形ではなかった。


「第二列、一斉射! 第三列、装填急げ!」


滝脇慶家が指揮する混成第一連隊は、塹壕と村の建物を巧みに利用し、『断続的かつ波状の射撃網』を完璧に構築していた。


前列が撃ち終われば下がり、後列が撃つ。間断なく降り注ぐ鉛の雨が、刀を振りかぶって肉薄しようとする士族たちの突撃を、物理的な壁として冷酷に弾き返し、すり潰していく。


「おのれ……! 大砲オオスツば前へ出せ! 敵の陣地ば吹き飛ばすごわす!」


反乱軍も無策ではない。後方から旧式ながらも野砲を引き摺り出し、村落の陣地へ向けて砲撃の準備を始める。


しかし、それすらも慶家の盤面の上であった。


「……遅い」


慶家が顎でしゃくると、連隊に組み込まれた砲兵隊が、すでに『高度に計算された射数と仰角』で待ち構えていた山砲の火蓋を切った。


ズガァァァンッ!!


官軍の放った砲弾は、反乱軍が砲撃準備を整えるよりもコンマ数秒早く、彼らの砲兵陣地のド真ん中に正確無比に着弾した。


轟音と共に、反乱軍の貴重な大砲と砲兵たちが、一瞬にして爆風の彼方へと吹き飛ぶ。


「な……ば、馬鹿な! 敵の大砲の狙いが、なぜこれほど正確なのだ……!」


「あらかじめ、この村の周囲の『距離』と『着弾地点』を測り終えていたというのか!?」


反乱軍の将たちは、絶望の叫びを上げた。


その通りであった。騎兵を先行させて陣地を構築した時点から、慶家と乃木は、敵が砲を据えるであろう高台や窪地の距離をすべて測量し、事前に砲の照準(射表)を完全に合わせきっていたのである。


歩兵による突撃は、断続的な一斉射撃によって破砕される。


それを支援すべき砲撃は、官軍の計算され尽くしたカウンター砲撃によって無力化される。


三日間の兵站焼き討ちによって体力を削られ、空腹の限界で村落へと誘い込まれた反乱軍。彼らの『死狂いの刃』は、慶家が組み上げた「近代戦の要塞」という分厚い盾の前に、傷跡一つ残すことなく次々と折れていった。


―――


数時間の激闘(という名の一方的な迎撃)の末。

村落の前に横たわる野原は、反乱軍の死傷者で埋め尽くされていた。


「……敵軍、退却していきます! 我々の完全勝利です!」


陣幕に駆け込んできた伝令の声に、乃木希典は額の汗を拭い、大きく息を吐き出した。


乃木が率いる混成第一連隊の数は、約三千。


対して、彼らがこの村落で受け止めた反乱軍の数は、約六千。


優に二倍という圧倒的な兵力差であったにもかかわらず、連隊の死傷者は極めて軽微であり、事実上の『完封勝利』であった。


「……勝った。三千で六千の猛攻を、これほど見事に退けるとは」


乃木は、自らが指揮したとはいえ、この信じられない戦果に戦慄していた。


そして、その視線は自然と、陣幕の隅で硝煙の匂いを嗅ぎながら、冷ややかに戦場を見つめている二十歳の中尉へと向けられた。


「滝脇中尉。貴官の言った通りになったな……。我々は、味方の血をほとんど流さずに、敵の主力を打ち砕いた」


「当然の結果です、少佐殿」


慶家は、懐中時計の蓋をパチンと閉じ、淡々と答えた。


「いくさとは、刀を交える前に決まっているもの。兵站を焼き、腹を空かせ、準備を整えた陣地に誘い込む。

……あそこまで追い詰めれば、あとはただ『引き金を引く』という作業を繰り返すだけのことです。そこに、個人の武勇など入り込む余地はありません」


「……作業、か」


乃木は、その言葉の冷酷さに背筋を凍らせながらも、軍人として、この戦術の絶対的な正しさを認めざるを得なかった。


「彼ら(反乱軍)は、自分たちに大義があると信じていたのだろうな。だが……その大義も、貴官の冷徹な盤面の前では、虚しく散るしかなかったか」


「大義など、負ければただの寝言です」


慶家は、陣幕から出て、累々たる死体の転がる戦場を見渡した。


「彼らは『武士』として死にたかった。我々は『近代の軍隊』として、その死を効率的に処理した。ただ、それだけのことです」


明治十年、西南戦争。


この九州の地において、滝脇慶家(家康)は、中世の亡霊(士族)たちの誇りと怨念を、兵站と情報、そして諸兵科連合という「近代の冷酷な算盤」によって完全にすり潰し、時代という巨大な歯車を力ずくで前へと回しきったのである。


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