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葵三つ葉  作者: 丸亀導師
中つ事
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中事 3

硝煙と血の匂いが立ち込める、夕暮れの戦場。


凄惨な殺し合いが終わった村落の郊外には、六千の猛攻の代償として、無数の薩摩武士たちのむくろが折り重なるように倒れていた。


連隊長である乃木希典は、戦後処理と負傷兵の確認のため、沈痛な面持ちで野原を見回っていた。


(……これが、滝脇中尉の言う『近代のいくさ』。ただの作業、か……)


彼ら反乱軍の死顔には、武士として華々しく散った満足感よりも、見えない場所から浴びせられた銃弾と砲弾によって、為す術もなくすり潰された無念と苦悶が張り付いていた。


その時である。


乃木は、累々たる死体の山の向こうに、信じられないものを見た。


泥と血にまみれた陣羽織……ではなく、煤けた軍服姿の一人の将校が、兵たちに混じって率先して薩摩武士の骸を運び、整然と並べているのである。


そして、一つ一つの骸の泥を丁寧に拭い、遺体を安置するたびに、静かに目を閉じて手を合わせ、深く頭を下げていた。


滝脇慶家であった。


「……南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏」


その口元からは、微かに、しかし確かな祈りの念仏が零れ落ちていた。


それは、数時間前まで陣幕で「大義など負ければ寝言」「死を効率的に処理しただけ」と、氷のように冷酷な言葉を吐き捨てていた男と、同一人物とは到底思えない姿であった。


「た、滝脇中尉……」


乃木は、無意識のうちに歩み寄り、声をかけていた。


「貴官は……彼らを『処理するだけの作業』と言い切ったのではないのか。なぜ、自ら血に塗れてまで、彼らを弔っているのだ……?」


声をかけられた慶家は、ゆっくりと目を開けた。

その双眸には、戦場を俯瞰していた時の氷のような冷たさはなく、果てしなく深く、重い『何か』が宿っていた。


「……少佐殿。いくさの盤面において、彼らは排除すべき『敵』であり、私の兵站と計算によって処理されるべき『数字』でした。

そこに私情を挟めば、味方が死ぬからです」


慶家は、足元に横たわる、まだ若い薩摩武士の骸へ視線を落とした。


「ですが……いくさが終わり、盤面が片付けば、彼らはただの『人間』です。

己の信じる義のために命を懸け、最後まで逃げずに刃を振るった、誇り高き日ノ本の武士おのこたちだ」


かつて、徳川家康という男は、戦国という地獄の底で、数え切れないほどの将兵を殺し、あるいは死地に追いやった。


三方ヶ原で己の身代わりとなって散った家臣たち。大坂の陣で凄まじい突撃を見せた真田の兵たち。


家康は、その命を冷酷な計算の下にすり潰しながらも、彼らが流した血の重さと、散っていった者たちの『忠義』を、誰よりも深く理解し、生涯その死を悼み続けた男でもあった。


「私は、彼らの誇り(大義)を全否定し、最も泥臭く陰湿な方法で餓死させ、すり潰しました。それは、為政者として、指揮官としての『責任カルマ』です。

……ならばせめて、彼らを討ち取った張本人である私が、誰よりも先に彼らの魂に敬意を払い、手を合わせて弔うのは、当然の道理でしょう」


慶家は、軍帽を取り、再び静かに手を合わせた。


「命を奪う算段を冷酷に行えぬ者は、指揮官であってはならない。……だが、奪った命の重さを背負い、骸に向かって祈れぬ者は、人の上に立つ資格がない。私は、そう思っております」


その言葉は、弱冠二十歳の少尉が口にするには、あまりにも重く、深遠な『覇王の哲学』であった。


乃木希典は、言葉を失った。


彼が慶家に抱いていた「血も涙もない合理主義の怪物」という評価が、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。


この若者は、武士の誇りを理解していないのではない。


誰よりも深く武士の悲哀と命の重さを理解しているからこそ、感情を殺して「最も被害の少ない非情な手段」を選び取ることができるのだ。


それは、乃木自身がこれから生涯をかけて背負い、苦悩し続けることになる『指揮官としての十字架』の、究極の完成形とも言える姿であった。


「……滝脇中尉」


乃木は、静かに己の軍帽を脱いだ。


そして、泥にまみれながら敵の骸に祈りを捧げるその若き将校の隣に立ち、彼もまた、深い敬意と共に目を閉じて手を合わせた。


「貴官の言う通りだ。……彼らもまた、日ノ本を想う立派な武士であった」


夕陽が赤く染め上げる九州の戦場。


近代化の波に呑まれて散っていった中世の亡霊たちの傍らで、大御所の魂を宿す若き特異点と、後に「乃木大将」として世界にその名を知られることになる高潔なる武人が、肩を並べて静かに祈りを捧げていた。


それは、凄惨な殺し合いの果てに生まれた、奇妙で、しかし確かな『絆』の萌芽であった。


―――


村落での一方的な殲滅戦が終わると、かつて薩摩の誇りを背負って決起した武士団は完全に瓦解し、散り散りとなって九州の山野へと逃げ込んだ。


軍としての組織的な抵抗力を失った彼らを待ち受けていたのは、軍隊による華々しい討伐ではなく、内務省警保寮が指揮する警察組織による、冷酷で事務的な「残党狩り」であった。


網の目を張るように配備された警官たちは、疲労と飢えで動けなくなった士族たちを虱潰しに発見し、次々と捕縛していった。


中には、捕縛による恥辱を良しとせず、山中で輪になり、互いを介錯し合って凄惨な割腹自殺を遂げた者たちもいた。


かつて日ノ本を動かした武士たちの最期は、新しい時代から完全に切り捨てられた、あまりにも孤独で悲惨なものであった。


―――


数日後。


帝都・東京の陸軍本部に、小倉からの一報が『電信』によってもたらされた。


混成第一連隊の戦闘詳報を読み上げた参謀たちは、一様に言葉を失い、やがてその顔に渋面を作った。


「味方の死傷者、極めて軽微。対する敵軍は完全に破砕され、事実上の壊滅……」


参謀局の将校たちは、その報告書から立ち上る「戦場の異様さ」に底知れぬ不快感を抱いていた。


兵站を焼き討ちにし、飢えさせてから要塞化した村落へ誘い込み、一方的に十字砲火を浴びせてすり潰す。


そこに、彼らが重んじる「皇軍としての正々堂々たる武勇」は微塵も存在しなかった。ただひたすらに、敵を効率よく処理するための冷酷な『殺戮の算段』があるだけだった。


「……まるで、害獣を駆除するような戦い方だ。これが、フランス帰りのあの少尉……いや、滝脇中尉のやり方か」


「しかし、事実としてこれ以上の戦果はない。あの男の提唱した『諸兵科の流動的連動(混成部隊)』と『徹底した兵站への攻撃』は、従来の白兵突撃戦術よりも、遥かに我が軍の損耗を抑え込んだのだ」


感情としては、滝脇慶家のやり方は反吐が出るほど不快であった。旧幕臣の若造が、薩長が築き上げた軍の教範を無視し、己の理論の正しさを完璧な形で証明してみせたのだから。


しかし、彼らもまた国家を背負う軍人である。


兵の損耗の少なさと、その圧倒的な制圧力を前にしては、慶家の理論を「近代軍隊が目指すべき最適解」として、深く理解し、認めざるを得なかったのである。


―――


九州戦線の前線基地である小倉。


残党狩りへと移行した戦場において、もはや高度な機動部隊である「混成第一連隊」の出番は終わっていた。


部隊が小倉へと再集結した日の午後。

乃木希典少佐と滝脇慶家中尉は、後続として到着した鎮台の少佐に対し、正式に部隊の指揮権と占領地域の引き継ぎを行っていた。


「――以上をもって、混成第一連隊の作戦行動記録ならびに、捕縛した捕虜の目録を引き渡す」


「ご苦労であった、乃木少佐。後の掃討は我々が引き受けよう」


書類のやり取りが終わり、後任の少佐が退室すると、陣幕には乃木と慶家の二人が残された。


乃木は、机の上に置かれた帝都からの電報を手に取り、ふうと短く息を吐き出した。


「滝脇中尉。我々に対する次なる命令だ。部隊を小倉に残し、私と貴官は直ちに東京の陸軍本部へ『出頭』せよとのことだ」


「出頭、ですか。凱旋の帰還にしては、随分と冷たい言葉選びですね」


慶家は、軍服の埃を払いながら、微かに鼻で笑った。


「無理もない。軍上層部からすれば、我々――特に貴官の取った戦術は、命令を拡大解釈した独断専行の極みだからな。

だが、戦果は否定できない。上層部も、貴官という劇薬の扱いに頭を抱えているのだろう」


乃木はそう言って、この数週間、行動を共にした若き特異点を見つめた。


冷酷な合理主義で敵を餓死させながらも、戦後には誰よりも深く敵の骸に祈りを捧げた男。乃木の中で、滝脇慶家という存在は、もはや単なる生意気な下級将校ではなく、時代そのものを体現する底知れぬ怪物として刻み込まれていた。


「……東京に戻れば、陸軍省や参謀局の重鎮たちが、貴官を査問の場に引きずり出そうとするやもしれんぞ。覚悟はできているか?」


乃木の静かな問いかけに、慶家は陣幕の入り口から射し込む陽光へと顔を向けた。

その横顔には、戦場の冷徹さとはまた違う、為政者としての不敵な笑みが浮かんでいた。


「覚悟など不要です、少佐殿。むしろ、こちらから教えてやらねばなりません」


慶家は、懐から取り出した懐中時計の蓋を鳴らした。


「兵站を断たれた武士がいかに脆いか。そして、私がフランスから持ち帰った『国家総力』という数字の刃が、いかに絶望的なものか。

……帝都で踏ん反り返っている阿呆どもの脳髄に、直接叩き込んでやる良い機会です」


明治十年春。


戦場という物理的な盤面を完全な勝利で片付けた滝脇慶家は、乃木希典と共に、次なる戦場――権謀術数が渦巻く帝都・東京の『政治と軍事の最高中枢』へと、静かに歩みを進めようとしていた。


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