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葵三つ葉  作者: 丸亀導師
中つ事
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中事

明治十年(1877年)二月八日。


二年にわたるフランスでの留学を終え、滝脇慶家(徳川家康)が横浜港の土を踏んだ時、日ノ本は文字通り「藪をつついて蛇を出した」かのような、極度の混乱と喧騒の渦中にあった。


九州における不平士族の巨大な武装蜂起。

後に言う『九州士族の反乱(西南戦争)』の勃発である。


事態がここまで悪化した原因は、ひとえに政府中枢の「使節団組(大久保利通ら)」の慢心と愚挙にあった。


司法省警保寮の『草の者(隠密部隊)』たちは、不平士族たちの不穏な動きと武器調達の経路をいち早く察知し、早期の警告を発していた。しかし、使節団組の派閥は「時代遅れの士族どもに何ができる」と、その報告の大半を握り潰したのである。


一方、留守政府を支えていた西郷隆盛は、自らの権限の及ぶ範囲で密かに防衛の準備を講じていたものの、政治的な横槍によってその対策には限界があった。


特筆すべきは、史実において反乱軍の総大将として担ぎ上げられた西郷が、この世界線においては「政府軍(鎮圧側)」に留まっていたことである。


豊かな内需によって農民が潤い、国が力をつけ始めているこの時期に、己の特権とプライドだけを失って暴れる士族たちに対し、西郷は微塵も『大義』を感じていなかった。反乱の規模自体は史実の西南戦争よりも縮小していたものの、九州という広大な地を制圧するため、陸軍の本格的な派兵が決定されていた。


―――


冬の冷たい海風が吹き抜ける横浜港の桟橋。


船から降り立った慶家の前には、まるで彼がこのタイミングで帰国することを完全に予期して待ち構えていたかのように、陸軍の使者(将校)が直立不動で立っていた。


「滝脇少尉! ご帰還、お待ちしておりました!」


「……状況は?」


挨拶もそこそこに、慶家は冷たく問い返した。使者は慌てて一枚の辞令を差し出した。


「はっ! 滝脇少尉は、本帰国の日付をもって『中尉』に任官。直ちに、新設された『混成第一連隊』へ合流し、麾下の一中隊を指揮して九州戦線へ出撃せよ、との特命にございます!」


慶家は、その辞令を無造作に受け取り、目を走らせた。


『混成第一連隊』。


それは、かつて慶家がフランスのマルクリー中佐と共同で書き上げ、陸軍教育科に叩きつけた論文『散兵戦と諸兵科による流動的連動部隊』の理論を、軍が試験的に実戦投入するために新編した実験部隊であった。


史実における「歩兵第十四連隊」に相当するこの部隊の連隊長は、若き日の乃木希典のぎ まれすけ少佐である。


自らの理論の有用性を試す実験部隊に、考案者である自分自身が小隊(中隊)指揮官として組み込まれる。

反旧幕派の将校たちによる、「お前の理論が通用するか、戦場で実証してみせろ」というあからさまな意図が透けて見えた。


だが、慶家の表情には、昇進に対する高揚感も、己の理論が軍に採用されたことへの感慨も、一切浮かんでいなかった。


「……私の部隊への合流は、明日の未明とする」


慶家は、辞令を軍服の懐にしまい込むと、目の前の使者に向かって、氷のように冷たく、無感情な声で命じた。


「貴様は直ちに帝都に戻り、警保寮(警察)の幹部に繋ぎを取れ。

私が部隊に到着するまでに、隠密の諜報網が収集した『敵部隊のすべての動向』と『物資(兵糧・弾薬)の集積所と補給経路』の最新データを、私の陣幕へ届けさせろ。

……軍の参謀局が作った地図など不要だ。現場の『生きた数字』だけを用意しろ」


「え……っ? し、しかし中尉殿。軍の作戦行動に、警察の諜報機関の情報を直接連動させるなど、軍令部の許可が……」


「誰が許可を取れと言った?」


慶家の黒い瞳が、使者を射抜いた。

そこに怒気はない。ただ、何十万という兵の命を冷酷に計算し尽くしてきた「覇王」としての、有無を言わさぬ絶対的な『圧力』だけが、音を立てて使者の全身を押し潰した。


「いくさの勝敗は、最初の盤面(情報)をどう設計するかで九割が決まる。手足を動かす前に、目と耳を繋げと言っているのだ。……私の言葉が理解できないなら、貴様は今すぐここで腹を切れ」


「っ……!! は、ははっ! 直ちに手配いたします!!」


使者は恐怖に顔を蒼白にさせ、弾かれたように敬礼すると、脱兎のごとく帝都へと駆け出していった。


―――


一人残された桟橋で、慶家は懐中時計を取り出し、カチリと蓋を開けた。


フランスでの二年間で完全に大人の骨格へと成長し、洗練された知識という近代の装甲を纏った二十歳の徳川家康。


「……さて。石頭の軍人どもに、『近代のいくさ』というものを見せてやろうか」


軍隊という「暴力」と、警察(諜報)という「情報」。


本来であれば縦割りで断絶しているはずの二つの国家機能を、慶家は己の頭脳をハブとして完全に連動させた。


九州で時代錯誤の刀を振り回す不平士族たちを、圧倒的な情報の非対称性と兵站の計算によって、文字通り「物理的にすり潰す」ための凄惨な蹂躙劇が、今まさに幕を開けようとしていた。



―――


横浜港での強烈な命令から四日後。

滝脇慶家(徳川家康)は、海路と陸路を乗り継ぎ、前線となる九州の玄関口・小倉こくらへと到着した。


この地には、反乱軍の北上に備え、乃木希典少佐率いる「混成第一連隊」が展開し、上層部からの『即時戦闘に入れるよう待機せよ』という命令の下、重苦しい緊張感の中で駐屯していた。


しかし、連隊長である乃木希典の置かれた状況は、単なる出陣前の緊張などという生易しいものではなかった。


彼の陣幕には、慶家が着任する丸一日も前から、「異常な事態」が発生していたのである。


「……少佐殿。また地元警察の探索方(密偵)から報告です。敵右翼の弾薬集積所の位置と、徴発された荷車の数が記されております」


「……ここへ置け」


乃木は、机の上にうず高く積み上げられた報告書の山を前に、脂汗を流し、深い困惑と緊張の板挟みになっていた。


軍の参謀局から送られてくるはずの広域な敵情視察ではなく、なぜか『内務省警保寮(警察の諜報網)』から、敵の兵站、武器の数、行軍速度といった「生々しく、かつ極めて精緻な一次情報」が、一介の連隊長である自分の元へ次々と直接持ち込まれてくるのだ。


(……これは、一体どういうことだ?)


実直で、軍の紀律と階級を何よりも重んじる乃木にとって、この情報の奔流は理解の範疇を超えていた。

軍の指揮系統チェイン・オブ・コマンドを完全に無視している。


乃木は深刻に思い悩んだ。


(軍の上層部が、私という一介の連隊長に何らかの裁量権を与え、秘密裏に敵情を把握せよという暗黙の命令なのだろうか? だが、私に下っている公式な命令は『待機』のみ……。下手に動けば軍紀違反となる。だが、この情報を放置すれば味方を危機に晒す……!)


真面目すぎるが故に、乃木は「上官の意図を測りかねる」という底なしの泥沼に陥り、身動きが取れなくなっていたのである。


そこへ。


陣幕の入り口が開き、一人の若い将校が姿を現した。


「――混成第一連隊、麾下中隊長として着任いたしました。陸軍中尉、滝脇慶家にございます。乃木少佐殿におかれましては、此度の戦、何卒よろしくご指導のほどお願い申し上げます」


仕立ての良い真新しい軍服。フランス留学帰りの洗練された所作。

慶家は、軍の規定に則った完璧な敬礼と共に、極めて律儀に、そして模範的な下級将校としての挨拶を交わした。


「お、おお。滝脇中尉か。フランスでの留学から戻ったばかりで前線とは苦労をかけるが……貴官の考案した混成部隊の力、期待しているぞ」


乃木は、この若き俊英の到着にホッと息をつきながらも、机の上の書類の山から目を逸らせずにいた。

慶家は、その乃木の視線の先――己が事前に手配しておいた『情報』の山を見ると、スッと目を細め、静かに歩み寄った。


「少佐殿。ずいぶんと『目と耳』が揃っているご様子。……少し、拝見してもよろしいでしょうか?」


「あ、ああ。構わんが……実は困惑しているのだ。なぜか警察の探索方から、当連隊に直接これらの情報が……」


乃木が言い終わる前に、慶家はすでに書類の束を手に取り、恐るべき速度で目を走らせていた。


(……阿呆どもめ。相変わらず、いくさの算段がまるで成っておらん)


慶家がそれらの情報から読み取ろうとしたのは、単なる敵の数や位置ではない。

フランスで学んだ『国家総力』と『ロジスティクス(兵站)』の視点、そして戦国を生き抜いた大御所としての経験をフル稼働させ、書類の向こう側にいる『敵の臓腑(兵站)』と『精神性メンタリティ』を透視することであった。


「……乃木少佐。敵は、熊本方面に向けて進軍しているようですが、この荷車の数と徴発された米の量……明らかに『前線で戦う兵の数』と『後ろから運ぶ食糧の量』の計算が合っていません。弾薬も、スナイドル銃とエンフィールド銃が混在しており、規格が統一されていない」


慶家は、書類をパサリと机に置き、冷酷な事実を告げた。


「つまり、彼らには『長期的な兵站計画』が存在しない。現地での略奪に近い徴発(略奪)で食いつなぐ腹積もりです。……これは、国家を転覆させるための近代的な軍事行動ではありません」


「兵站がない……? だが、士族たちの士気は異常なほど高いと聞く。彼らは死狂いとなって官軍に襲いかかってくるはずだぞ」


乃木が怪訝な顔で問い返す。


「ええ、その通りです。それが彼らの『精神性』の答えです」


慶家の瞳の奥に、かつて大坂の陣で真田幸村の決死の突撃を受けた時と同じ、冷たい理解の色が浮かんだ。


「彼らは、このいくさに『勝とう』とは思っていないのです。新しい国造りのビジョンも、そのための算段もない。

ただ、時代に取り残された己の誇りを証明するため、あるいは薩長政府への恨みを晴らすためだけに暴れている」


慶家は、乃木を真っ直ぐに見据えた。


「少佐殿。彼らが求めているのは、勝利ではありません。自分たちが武士として輝ける『華々しい死に場所(墓標)』です。

……目的が『死』である以上、彼らの突撃は恐るべき威力を持ちますが、兵站が尽きれば必ず自壊します」


乃木は、絶句した。


到着したばかりの二十歳の若造が、誰からの命令でもなく、己の権限で情報に目を通し、またたく間に敵の戦略的欠陥と精神の急所を丸裸にしてしまったのだ。

そして同時に、乃木は一つの恐るべき事実に思い至った。


「た、滝脇中尉……。まさか、この大量の警察からの報告書は、貴官が……?」


「情報の非対称性こそが、兵の損耗を防ぐ唯一の盾です」


慶家は、乃木の問いを肯定も否定もせず、ただ静かに、有無を言わさぬ圧力で言葉を継いだ。


「命令がないからと立ち止まっていては、死狂いの刃に喉元を掻き切られます。敵の兵站が薄いと分かった以上、我々混成連隊の『正解』は、正面から打ち合うことではなく、敵の補給線を徹底的に叩き、彼らを餓死させることです。

……さあ、少佐殿。手足(部隊)を動かす準備をなさいませ。いくさの盤面は、すでに整っております」


軍令という硬直した枠に囚われ、身動きが取れなくなっていた乃木希典。


その目の前に現れた十七歳の――否、二十歳となった滝脇慶家は、部下という仮面を被りながらも、すでに連隊の『脳』として、冷酷なる蹂躙劇のタクトを振り下ろそうとしていた。



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