外事 7
殺伐とした外交戦と、血の滲むような軍事・科学の吸収に明け暮れるパリでの日々。
その中で、滝脇慶家という歳十七歳の「怪物」が、唯一、年相応の穏やかな顔を見せる時間があった。
彼には、この異国フランスにおいて「文化」という、軍事や法とは全く異なる、しかし国家を構成する上で不可欠な臓腑の仕組みを教えてくれる、一人の得難い協力者がいたのである。
前田正名。
後に「興業意見」を著し、日本の農林水産業の育成に生涯を捧げることになるこの男は、当時、フランスで農政や経済を熱心に学んでいる留学生であった。
慶家よりも八つ年上の前田は、薩摩藩の出身であったが、彼には薩長特有の権力欲や派閥意識が驚くほど欠落していた。土の匂いを愛し、民の生活を豊かにすることだけを純粋に志すその実直な人柄は、陰謀と打算の海を泳ぐ慶家にとって、一種の清涼剤のようなものであった。
「おい市之進(慶家の通称)。いくらお前が頭の切れる秀才でも、部屋にこもってばかりや、しかめっ面で将校どもと睨み合ってばかりでは、フランスの本当の姿は分からんぞ」
休日の昼下がり、シャンゼリゼ通りに面したカフェのテラス席。
前田は、本から顔を上げない慶家の手から、強引にドイツ語の論文を奪い取った。
「いいか。フランスという国の本当の強さは、ナポレオンの軍隊でも、パリの華やかな夜会でもない。この『食』と『土(農業)』にあるんだ。……ほれ、このチーズを食べてみろ。ワインもだ」
前田は、慶家の前に皿を押しやり、八歳下のこの恐るべき少年将校を、まるで「少し頭は良いが、世間の楽しみを知らない不器用な弟」のように扱い、世話を焼いた。
慶家は、溜息をつきながらも、前田が勧める食事を口に運んだ。
「……なるほど。確かに、ただの保存食にしては複雑な味がする」
「だろう? フランスには『テロワール(風土)』という概念があってな。地方ごとの気候や土壌が、独自のワインやチーズを育む。
フランス人はそれを何よりも誇りにしているんだ。……国を豊かにするってのは、ただ工場を建てて鉄砲を作ることじゃない。その土地に根ざした『生業』を育てることなんだよ」
前田の熱弁を聞きながら、慶家の瞳には深い理解の光が宿っていた。
(……この男の言う通りだ。いくさの勝敗を決めるのは、究極的には『兵糧』。そして、その兵糧を生み出すのは、土に根ざした農民だ。フランスが普仏戦争の敗北からこれほど早く立ち直りつつあるのも、この分厚く豊かな農業基盤(国力)があればこそ)
かつて、三河の貧しい土地から身を起こし、新田開発と治水によって関東平野を日本最大の穀倉地帯へと造り変えた大御所・家康。
彼にとって、農業や地方産業の重要性を説く前田正名の思想は、己の「国造りの哲学」と完全に共鳴するものであった。
二人は、専攻こそ違えど、共に異国の地で学ぶ留学生として、夜な夜な互いの得た知識を語り合った。
前田がフランスの農政システムや地方分権の仕組みを熱く語れば、慶家はそれを軍事的な兵站や、日本における地租改正の行く末と結びつけて論理的に解体してみせた。前田は、弟分だと思っていた十七歳の少年の口から飛び出す、あまりにも完成された国家観と経済の知識に、幾度となく目を丸くしたものである。
―――
そして、この前田正名という「温和で顔の広い農政学者」の存在は、慶家にとって、社交界での暗躍とはまた違う、もう一つの強大な『人脈のネットワーク』を築くための最高の窓口となった。
「市之進、今日は法学を学んでいる連中が来るぞ」
「おお、滝脇少尉。前田さんから噂は聞いてますよ。軍人なのに経済にも明るいんですって?」
前田の気さくな人柄に惹きつけられ、彼の下には、軍人だけでなく、法律、経済、土木、美術など、様々な分野を学ぶ日本の留学生たちが自然と集まってきていた。
慶家は、前田の「弟分」という立ち位置を最大限に利用し、彼ら留学生の輪の中にすんなりと入り込んでいった。
そこで行われるのは、専門分野の垣根を越えた、極めて純度の高い情報交換である。
法学の留学生からは欧米の最新の法律解釈を。
工学の留学生からは最新の土木技術を。
画家の卵からは、美術品を通じた欧州貴族たちの文化的な価値観を。
慶家は、彼らが日々苦労して学んでいる専門知識の要髄を、日常の雑談の中で次々と吸い上げていった。留学生たちもまた、自分たちの専門的な悩みを、軍人であるはずの慶家が恐るべき論理的思考であっさりと解決策を提示してくれることに驚愕し、彼に一目置くようになっていった。
「文化を知る」ということは、単に芸術や食事を楽しむことではない。
それは、相手の国の「人間の根源的な行動原理」を理解し、彼らの懐に飛び込むための最高の『手札』を手に入れることである。
前田正名からフランスの風土と文化の真髄を教え込まれた慶家は、それを夜会での社交術に還元した。
フランスの貴族と話す際には、彼らの領地のワインやチーズの製法を的確に褒め称えることで、並の外交官では絶対に開けない彼らの「心の扉」を易々とこじ開けた。前田の教えは、慶家という冷徹な交渉機械に「人間味という最強の潤滑油」を与えたのである。
軍事、科学、法学、そして文化と農業。
前田正名をはじめとする留学生たちとの交流を通じて、滝脇慶家の頭脳の中には、もはや一個人の限界を遥かに超えた、「一つの完全な近代国家」そのものの設計図が、鮮明に組み上がりつつあった。
―――
明治九年(1876年)末。
冬の足音がパリの石畳を白く染め始め、二年間にわたるフランス留学の帰国期限が目前に迫っていた頃。
滝脇慶家(徳川家康)の下宿先の壁には、彼がこの二年間で掻き集めた欧州の軍事、産業、法制、そして農業に関する膨大なメモが、蜘蛛の巣のように張り巡らされていた。
慶家はその中央に立ち、一枚の巨大な模造紙に向かって、無数の数字と線を結びつける作業に没頭していた。
それは、単なる統計資料ではない。
軍隊の数、大砲の門数、鉄道の敷設距離、石炭と鉄の産出量、関税収入、そして小麦と米の収穫量。
一見バラバラに見えるそれらの要素を、一つの巨大な「歯車」として連動させた、『国家総力(Total National Power)』という概念の視覚化(分布図)であった。
「……できた」
ペンを置き、完成したその巨大な図形を見上げた慶家の瞳に、凄絶な光が宿った。
その図形に、彼が調べ上げた『フランス』の数値を入力し、隣に『日本』の数値を並べて当てはめた時。
そこには、精神論や武士の意地などといった曖昧な言葉では絶対に誤魔化しきれない、「絶望的なまでの国力の差」が、極めて残酷な『視覚的データ』として浮かび上がっていた。
この一枚の図表を完成させた瞬間は、滝脇慶家――いや、大御所・徳川家康の魂にとって、前世からの完全なる『脱却と進化』を意味していた。
これまでの慶家は、己の中にある前世の記憶と、天才的な「直感(独善的な視点)」に頼って盤面を動かしてきた。
戦国時代、三河武士たちは「殿がそう仰るなら」と理屈抜きで従った。明治の日本でも、己の圧倒的なカリスマと、理詰めの言葉、あるいは恐怖によって相手をねじ伏せてきた。
だが、それはあくまで「個人の能力(主観)」に依存した支配である。
欧州列強の真の実力を知り、やがて来る『総力戦の時代』を予見した慶家は悟ったのだ。
(……これからのいくさは、数万の兵が野原でぶつかり合うものではない。工場と工場、畑と畑、銀行と銀行が、国ごと激突する『殺し合い』になる)
そのような巨大な戦争において、薩長閥のちっぽけなプライドや、精神論で凝り固まった石頭の将校たちを、いちいち言葉で説得している暇はない。
「大和魂があれば勝てる」「白兵戦で突撃すれば良い」と本気で信じている阿呆どもに、いくら口で「兵站が大事だ」「工業力が足りない」と説いても、彼らは理解しない。
理解できないから、感情的に反発する。
ならば、どうするか。
(……理屈が通じぬなら、『物理的な事実(数字)』でその腐った脳髄をぶん殴るまでだ)
この「国家総力分布図」は、単なる分析結果ではない。
反論の余地を一切許さず、見た瞬間に相手を絶望させ、己の無知を悟らせ、「滝脇慶家の描く計画に従うしか、この国が生き残る道はない」と強制的に理解させるための『凶器』であった。
「どんな馬鹿でも、この図を見れば一目で分かる」
慶家は、模造紙を丁寧に折りたたみ、帰国用のトランクの最も奥底へと大切にしまい込んだ。
「気合や根性で、大砲の弾は防げない。刀の切れ味で、蒸気機関車は止められない。
……この圧倒的な質量差を前にして、それでもなお精神論を喚く阿呆がいるならば、そいつはもはや軍人ではなく、ただの『国賊』だ」
フランスの軍事顧問団も、公使館の役人も、誰も気づいていない。
この十七歳の少年が、欧州のあらゆる知識を喰らい尽くし、それを「狂気の刃」へと鍛え上げてしまったことに。
「……さあ、帰ろうか。私の『城(日ノ本)』へ」
明治九年の冬。
二年前、一介の士官候補生として追放されるように海を渡った少年は今、大日本帝国という国家を根底から作り変えるための「究極の設計図」を携え、静かに、そして禍々しい笑みを浮かべながら、極東の島国へと帰還の途に就いたのである。
―――
滝脇慶家(徳川家康)がフランスの地で、欧州列強の恐るべき「国家総力」を冷徹な数字とグラフに変換し、それを打ち破るための設計図を組み上げていた二年間(明治7年〜9年)。
慶家が不在の日本国内では、留守政府の重鎮・西郷隆盛と、野に下った民間資本の雄・渋沢栄一が死守し、定着させた『徳川式近代税制(基本税率2.5%+検見・定免法)』が、極東の島国に「奇跡」とも呼べる劇的な化学変化を引き起こしていた。
それは当時の世界基準から見れば極めて異端でありながら、百年先の現代経済学における「自動安定化装置」を先取りした、恐るべき国家統治システムへと進化を遂げていたのである。
1. 欧米の嘲笑と、不気味な「一揆ゼロ」の事実
当時のヨーロッパ(イギリス、フランス、ドイツなど)における近代化の常識は、「農民から過酷な定額税を現金で絞り取り、土地を失って没落した彼らを都市の工場へ追い立て、低賃金の労働者として酷使する」という冷酷なものであった。
日本の新税制を見た列強の駐日公使や外国人お雇い教師たちは、当初、これを鼻で笑った。
「毎年、役人が田畑の出来を直接見て税額を決める(検見法)だと? 前近代的で非効率の極みだ。徴税のための人件費ばかりがかさむ、後進国の愚かなシステムだ」と。
しかし、数年が経過した明治9年頃。列強の公使たちは、自らの報告書に記される「ある事実」に背筋を凍らせることになる。
本国ヨーロッパでは、重税と過酷な労働に耐えかねた農民の暴動や労働者のストライキが頻発し、軍隊が出動して血を流しているというのに。
「日本だけは、全国規模の農民一揆(内乱)の発生率が『完全にゼロ』である」
凶作の年には自動的に税が減免され、豊作の年には定額(定免)で農民の懐に利益が残る。この柔軟すぎる税制は、農民を絶対に「破産(餓死)」させないための完璧な安全装置として機能していた。
欧米が嘲笑した「高すぎる徴税コスト」は、そのまま「内乱を未然に防ぐための最強の治安維持費」であった。そしてそれを支えていたのは、かつて日本全国の天領を治めていた旧幕府の『勘定方』という、世界でも類を見ない超優秀な実務官僚(計算と交渉のプロ)たちのマンパワーであった。
2. 「分厚い中間層」の誕生と、爆発する内需
史実の明治時代は、血も涙もない一律3%の重税とデフレによって自作農が次々と没落し、一部の「寄生地主」だけが土地を独占して肥え太る、絶望的な格差社会であった。農村は貧困に喘ぎ、娘の身売りが常態化していた。
しかし、この世界線の明治9年は、まったく違う景色が広がっていた。
税率が2.5%に抑えられ、凶作時の破産リスクが消滅したことで、人口の八割を占める農民の手元には、毎年確実に「現金(余剰資金)」が蓄積していくようになったのだ。
農民たちは、手元に残った金で「金肥(魚粉などの良質な肥料)」や「新しい農機具」を買い、土地の生産性をさらに引き上げた。余力のある者は、野に下った渋沢栄一が全国に張り巡らせた銀行(国立銀行)から低利で融資を受け、「養蚕」や「製茶」といった外貨を稼ぐ輸出産業へと積極的に投資を始めた。
結果として、農村全体の所得は雪だるま式に増大し、日本に「分厚い中間層(豊かな自作農)」が誕生した。
懐が温かくなった農民たちは、消費に走る。
ランプ、懐中時計、コウモリ傘(西洋傘)、質の良い綿織物、そして美味い酒やタバコ。
史実の日本が「国民が飢えながら、国が無理やり外債で軍艦を買う」いびつな軍事国家であったのに対し、この世界の日本は「国民の旺盛な購買力(内需)が、国内の軽工業や商業を猛烈な勢いで育てていく」という、極めて健全で強靭な資本主義のサイクルを完成させていたのである。
3. 「痛税感」なき莫大な戦費調達
国民が豊かになったことは、政府の金庫(大蔵省)にも劇的な恩恵をもたらした。
農村が豊かになり、酒やタバコといった嗜好品が飛ぶように売れるようになった結果、地租(土地の税)を無理に絞り取らなくとも、「間接税(酒造税やタバコ税)」が莫大な規模で国庫に転がり込むようになっていたのだ。
国民からすれば、「自分の生活が豊かになったから、少し良い酒を飲んでいる」だけであり、政府に税金を奪われているという『痛税感』が全くない。
政府からすれば、農民の反乱に軍事費を割く心配が一切なく、豊かになった経済の血流から、自然と、そして極めて安定的に「巨額の税収(将来の戦費の元手)」を吸い上げることができる。
まさに、滝脇慶家が渋沢栄一に説いた「国を富ませる臓腑」が、完璧に機能し始めた証であった。
しかし。
この誰もが豊かになりゆく劇的な経済成長の中で、完全に時代に取り残され、極限の不満を真っ黒に溜め込んでいる階層が「一つだけ」存在していた。
農民は土地と知恵で富を築き、商人は渋沢の下で資本家へと成り上がった。
一方で、かつての特権階級・支配階級でありながら、生産手段(土地や商才)を持たず、ただ刀の誇りと政府からの支給金(秩禄)だけを頼りに生きている『士族(武士)』たちである。
西郷隆盛らが推し進めた「屯田兵制度」に活路を見出し、自ら進んで北海道の荒野を開拓しに行った士族たちは、己の力で新たな富(土地)を得ていた。
だが、それに背を向け、「武士が土など弄れるか」「我々は御維新を成し遂げた特別な身分だ」と己の地位に胡座をかき、変化を拒絶した者たちだけが、この好景気の中で完全に割を食っていたのだ。
町へ出れば、かつて虫ケラのように見下していた農民が、仕立ての良い着物を着て、舶来の懐中時計を見せびらかしながら、料亭で美味い酒を飲んでいる。
その横で、誇り高き士族たちは、色褪せた着物で腹を空かせ、無用の長物となった刀を抱えて貧窮のどん底に喘いでいる。
「……おのれ、薩長(有司専制)の成り上がりどもめ。我々士族を蔑ろにし、百姓や商人ばかりを優遇しおって!」
彼らの不満は、史実のソレよりも遥かに濃縮され、醜くねじ曲がっていた。
「農民の富を奪い返せ」「我々を冷遇する腐った政府を倒せ」。
明治9年。
滝脇慶家がフランスで「国家総力」の恐るべき刃を研ぎ澄ませていた頃。
日本の内部では、健全な経済成長の影で、時代に適応できなかった不平士族たちの怒りが限界点(沸点)に達し、かつて慶家が兵学寮で予言した通り、「日ノ本を二つに割る、最後にして最大の同国人同士の殺し合い」の巨大な火薬庫が、今まさに大爆発を起こそうとしていた。
慶家は、そんな時代に帰国に着いた。




