将器 11
明治七年(1874年)の幕開けは、帝都・東京に重く冷たい緊張感をもたらしていた。
前年に勃発した「留守政府組」と「岩倉使節団組」による激しい勢力争い――いわゆる明治六年の政変――の余波は、いまだ政府内部に深く燻り続けていた。
西郷隆盛らが敷いた『徳川式・近代システム(定免・検見法の復活や屯田制)』は、明治天皇の御墨付き(錦の御旗)を得たことで絶対的な正当性を持ち、何より日本の実情に極めて合致していた。農民の不満は和らぎ、行き場を失っていた旧幕臣や士族たちからも「西郷の旦那は俺たちの窮状を分かっている」と絶大な支持を集めていたのである。
しかし、それが面白くないのが岩倉具視や大久保利通ら「使節団組」であった。
欧米の圧倒的な文明を目の当たりにし、日本の遅れに強烈な焦燥感を抱いて帰国した彼らにとって、旧幕府のシステムを流用する留守政府のやり方は、近代化への逆行にしか見えなかった。
「せっかく西洋の最新の制度を持ち帰ったのに、なぜそれを使わんのだ!」
それは近代化を急ぐが故の「合理」であり、同時に、幕府を倒した御維新の元勲としての「武士の意地」でもあった。
結果として、双方の派閥は激しく衝突し、互いに勢力を削り合いながら、政府は深い内部抗争の病を抱えたまま新しい年を迎えていた。
―――
そんな政府の中枢が軋みを上げている様子を、陸軍兵学寮の片隅から、獲物を狙う鷹のような鋭い眼差しで「覗き込んでいる」者がいた。
滝脇慶家、数えで十七歳。
本来であれば、すでに士官候補生としての教育課程を修了し、任官試験を経て少尉や中尉として部隊に配属されていてもおかしくない年齢である。古川宣誉ら沼津からの同期たちの多くは、すでに試験をパスして任地に赴いていた。
しかし、慶家は「任官試験を意図的に拒否し、兵学寮に留年し続ける」という異例の道を選んでいた。
「……阿呆らしい。今、少尉や中尉の階級章を貰ったところで、長州閥が牛耳る軍の末端で小間使いにされるだけのこと」
慶家にとって、前線で一小隊を指揮する名誉など便所の落書き以下の価値しかなかった。
彼が求めているのは、国家全体を動かすための戦略と、欧米列強の最新の軍事・外交知識である。陸軍兵学寮という場所は、フランス軍事顧問団から直接『西洋兵学の神髄』を吸収でき、かつ、軍の内部情報が最も集まる「情報の交差点」であった。
己の盤面(警保寮の影たちや海軍の斎藤実との繋がり)を熟成させ、さらに知識を持続的に吸収し尽くすために、慶家はあえて「学生」という自由な身分に留まり続けていたのである。
そんな慶家の元に、明治七年の頭、一つの巨大な政治的爆弾が投下されたという報せが届いた。
政争に敗れ、政府を外から動かすという野心を抱いて下野した板垣退助や後藤象二郎らが、政府と明治天皇に向けて直訴に及んだのである。
『民撰議院設立建白書』
一部の役人(薩長)だけで政治を独占する「有司専制」を痛烈に批判し、国民によって選ばれた議員からなる国会(議院)を直ちに開設せよ、と迫るその建白書は、瞬く間に新聞を通じて日本中に知れ渡った。
この報せに、陸軍兵学寮の若き士官候補生たちは沸き立った。
「板垣殿の言う通りだ! 薩長の連中が政府を私物化している『有司専制』など、打ち壊さねばならん!」
「我々も国民だ! 民撰議院ができれば、我々士族の不満も国政に届くはずだ!」
血気盛んな若者たちが、自由と民権という甘美な言葉に酔いしれ、講堂で議論を白熱させている中。
部屋の隅で兵学書を読んでいた慶家が、突如としてその分厚い本を机に叩きつけた。
ダァァァンッ!!
銃声のようなその音に、講堂の議論がピタリと止む。
皆が振り返った先には、夜叉のように顔を歪め、凄まじい怒気を放つ十七歳の少年の姿があった。
「……貴様ら、自分の頭でモノを考えることもできぬ阿呆の集まりか」
慶家の声は、怒号ではなく、底冷えのするような静かな凄みを帯びていた。
「た、滝脇……なんだと? 板垣殿の建白書は、間違っているとでも言うのか! 事実、長州の山県大輔や薩摩の連中による『有司専制』は腐っているではないか!」
一人の生徒が反論する。慶家はそれに対し、冷酷に首を肯いた。
「ああ。薩長による有司専制(独裁)が腐っているという批判、それ自体は完全に正しい。……私が激怒しているのは、板垣のあの薄汚い『野心』と、それを見抜けずに踊らされている貴様らの浅薄さに対してだ!」
慶家は、立ち上がり、生徒たちの中央へと歩み出た。
「よく考えろ。今、この日ノ本に『民撰議院』などという議会を作って、誰が政治をやるというのだ?
今まで田畑しか見てこなかった農民に、国家の予算や諸外国との条約が理解できるか?
否だ!
結局のところ、選挙で選ばれるのは地方の地主か、あるいは特権を奪われて鬱憤を溜め込んでいる『不平士族』どもだけだ!」
慶家の言葉は、民主主義という理想論の皮を剥ぎ取り、明治初期の日本の残酷な現実を突きつけていた。
「教育も行き届いておらぬ民衆に政治の舵を委ねるなど、国家という巨大な船を暴風雨の中で素人に操縦させるに等しい。
……衆愚政治の極みだ。板垣退助という男は、そんなこと百も承知でこの建白書を出している」
「な……ならば、何故板垣殿は国会を開けなどと……」
「『大義名分』を得るためだ」
慶家は、窓の外――冬晴れの帝都の空を鋭く睨み据えた。
「板垣は、己が政府の主導権を握るために、野に下って不平士族たちを扇動している。
西郷殿の屯田制などの改革でいくら不満を和らげようとも、いまだ刀の誇りを捨てきれぬ士族どもは山のようにいるのだ。
『我々の声を聞け。国会を開け』……その要求を、政府が呑むはずがない。板垣はそれを分かった上で、わざと無理難題を突きつけたのだ。
……政府がこれを撥ね付けた時、どうなるか分かるか?」
慶家は、ゾッとするような大御所の笑みを浮かべて、周囲の生徒たちを見回した。
「『我々の正当な要求(言論)が、腐敗した政府に踏みにじられた』……そう言って、連中は堂々と鉄砲と刀を手に取るだろう。板垣の阿呆は、『民権』という美名を使って、不平士族どもに政府へ反逆するための『免罪符(言い訳)』を与えてしまったのだ」
講堂の空気が、完全に凍りついた。
生徒たちは、慶家が描き出した「政治的主張の裏に隠された、暴力への発火装置」という恐るべきロジックに、反論の言葉を失っていた。
「……言論で世が動かねば、不満を持つ者は必ず物理的な暴力に訴える。
それが人間の理だ。板垣退助が放ったこの建白書は、政治の直訴などではない。……来たるべき『士族の暴動(内乱)』への、事実上の宣戦布告だ」
慶家は、机に叩きつけた兵学書を拾い上げ、埃を払いながら冷酷に言い放った。
「貴様ら、浮かれている暇があるなら、実弾の数でも数えておけ。……遠からず、この日ノ本で再び、同国人同士が殺し合う血みどろのいくさが始まるぞ」
明治七年。
西洋の自由民権思想を借りた板垣退助の政治的行動は、図らずも(あるいは意図して)、日本全国で鬱憤を溜めていた不平士族たちの心に「反逆の火」を点けてしまった。
陸軍兵学寮に留まり続ける数十七歳の狸爺(家康)は、誰よりも早くその炎の匂いを嗅ぎ取り、やがて来る『内乱の時代』に向けて、静かに己の牙を研ぎ澄ませていたのである。
―――
滝脇慶家が兵学寮の講堂で「士族の暴動」を予言してから、事態が動くまでにひと月もかからなかった。
明治七年(1874年)二月。
板垣退助らの建白書提出によって火を点けられた不平士族の不満は、ついに九州・佐賀の地で物理的な暴発を引き起こした。
世に言う「佐賀の乱」の勃発である。
首謀者として担ぎ上げられたのは、前年まで司法卿として警保寮からの報告を受け、天皇に直接藩閥の腐敗を直訴したあの江藤新平であった。
政争に敗れて下野した彼は、皮肉なことに、自らが不正を糾弾するために使っていた「法の正義」ではなく、不満に燃える故郷の士族たちの「武力」に呑み込まれ、反乱軍の首魁として新政府に牙を剥くこととなったのである。
しかし――。
この反乱に対する明治政府の対応は、史実のそれとは比較にならないほど、あまりにも「早く、そして完璧」であった。
「……佐賀の士族ども、洋式銃を二千丁買い集めました。決起の日は二月十六日、目標は佐賀城内の県庁および銀行」
「江藤新平、ならびに島義勇の動き、すべて筒抜けでございます」
反乱の火の手が上がる数週間も前から。
司法省警保寮に所属する『草の者(旧幕府の密偵)』たちは、佐賀の商人や職人、あるいは反乱軍の下働きの農民に身をやつし、彼らの武器調達の経路、密議の内容、決起の日時に至るまで、そのすべての情報を中央へ分刻みで報告し続けていたのである。
かつて徳川幕府が、地方大名の反乱を未然に防ぐために張り巡らせていた「公儀隠密」のネットワーク。それが、電信という近代技術と結びついた時、その情報収集能力は絶望的なまでの威力を発揮した。
新政府(特に内務卿に就任していた大久保利通)は、佐賀の反乱軍が決起するよりも前に、すでに圧倒的な鎮圧部隊と艦船を九州へ向け、配置を完了させていた。
二月中旬。
佐賀の士族たちが「国を憂う!」と叫び、意気揚々と佐賀城へ向けて進軍を開始した時、彼らを待っていたのは、手薄な県庁の守備隊などではなかった。
すでに塹壕を掘り、重砲を並べ、十字砲火の射線を完璧に計算して待ち構えていた、新政府の『正規軍』による容赦のない包囲網であった。
「な、なんだこれは……! なぜ、官軍がすでに陣を敷いているのだ!」
「情報が漏れている! 誰だ、内通者は!」
反乱軍は恐慌状態に陥った。
彼らが奇襲のつもりで放った攻撃はすべて先読みされ、弾薬の集積所は的確な砲撃によって真っ先に吹き飛ばされた。
滝脇慶家が提唱し、軍に浸透し始めていた「諸兵科連合(混成部隊)」による有機的な反撃の前に、武士の個人の武勇など何の意味も持たなかった。
結果として、士族の意地と命を懸けたこの反乱は、凄惨な激戦となるはずだった史実の経過を大きく覆し、決起からわずか一週間という信じられない速度で、完全に鎮圧・瓦解することとなったのである。
―――
数日後。
帝都の皇居において、早馬ならぬ電信で届けられた「佐賀の乱、スピード鎮圧」の報告を受けた明治天皇は、玉座で深く頷いた。
「……見事な手際であった。西郷、大久保よ」
天皇の御前には、留守政府を支えてきた西郷隆盛と、欧米から帰国して内政を握る大久保利通が平伏していた。
天皇は、この一週間での鎮圧劇が、単なる軍の武勇によるものではないことを正確に見抜いていた。
「これほど被害を少なく、かつ迅速に逆徒を討ち果たせたのは、偏に『警保寮による事前の情報掌握』があったればこそである。
……朕は、情報というものが、いかに多くの兵の命を救い、国を安寧に導くかを、此度の一件で深く理解した」
若き天皇の言葉には、目に見えぬ「影の組織」の有用性に対する、絶対的な信頼と賞賛が込められていた。
「はっ……。恐れ多き御言葉、至極光栄に存じます」
西郷と大久保は、深く頭を垂れた。
しかし、西郷の胸中は複雑であった。
天皇が称賛しているこの完璧な諜報網と鎮圧劇のシナリオ。それらを描いたのは、自分でも大久保でもない。
陸軍兵学寮の机に向かい、兵学書を読みふけりながら、政府の要人たちを盤面の駒として動かしている、あの十六歳(数え十七歳)の童なのだ。
(……あの童の言った通りになったごわす。情報が戦を制し、国を割る危機を未然に防いだ。……空恐ろしか狸よ)
西郷は、己の背後に立ち、軍と政府を意のままに誘導している巨大な「大御所の影」に、改めて深い戦慄を覚えていた。
―――
一方、陸軍兵学寮。
「佐賀の乱、一週間で鎮圧!」の号外が舞い散る中、講堂は騒然としていた。
先日、慶家から「不平士族の暴動」を予言されていた生徒たちは、慶家の言った通りの事態が起き、そしてあっけなく鎮圧されたことに、言葉を失っていた。
「……武士の意地と血気だけでは、もはや近代のいくさには勝てぬということだ」
慶家は、号外をチラリと一瞥しただけで、再び手元の洋書へと視線を落とした。
佐賀の乱は、これから全国へ飛び火していくであろう『士族の反乱』の、最初の小さな火種に過ぎない。
慶家の視線は、すでに国内の反乱の鎮圧などを超え、遠く大陸、そして欧米列強という「真の敵」との盤面へと向かっていた。
日本という国家の「臓腑(経済)」と「目と耳(諜報)」は完成した。
あとは、この手足をどう動かすか。
留年を続ける青年・滝脇慶家(家康)は、沈黙の中で、次なる『国家の改造』へと静かに思考を深化させていくのであった。




