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葵三つ葉  作者: 丸亀導師
将たる器
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28/37

将器 8

明治六年、三月。


春の足音が帝都・東京に近づきつつある中、明治政府の機構に一つの極めて重要な組織が密かに、しかし確かな産声を上げた。


司法省警保寮しほうしょう けいほりょう


それまで、東京の治安維持は「東京府邏卒所らそつしょ」という地方行政の管轄下で行われていた。しかし、新たに設立されたこの警保寮は、単なる一地域の警察機構ではない。それは司法省という「中央官庁」の中に置かれた、全国の治安維持機構を一括して統括・指揮する、いわば警察・公安の総本山(統合司令部)であった。


表向きは、近代国家に不可欠な「法と秩序の維持」を目的とした組織である。


だが、その真の顔は全く別にあった。


それは、地方の邏卒たちを中央から監視し、国内の不穏分子を統制するための強大な「内務監視網」。


そして何より――かつて徳川慶喜の命によって集められた旧幕府の『影(公儀隠密・御庭番)』たちを中核とし、国外への諜報・工作網を密かに築き上げるための、完璧な「隠れ蓑」であった。


―――


この警保寮設立の報せは、陸軍兵学寮で教練に励む滝脇慶家(徳川家康)の耳にも、いち早く届けられていた。


(……ほう。なるほど、そう来たか)


自室で報告の書状を読み終えた慶家は、その見事なまでの「盤面の構築」に、感嘆の息を漏らした。

慶家が西郷隆盛に提案したのは、「軍の目と耳となる諜報機関の創設」であった。普通に考えれば、それは陸軍省、あるいは参謀本部の下部組織として作られるのが自然な流れである。


しかし、西郷はそうしなかった。


西郷隆盛という男は、持ち前の強烈な政治的影響力と根回しを駆使し、この新たな情報機関(影の軍隊)を、山県有朋が牛耳る『陸軍』から完全に切り離し、『司法省(警察)』の管轄として立ち上げたのである。


「……見事な手腕だ、大西郷よ」


慶家は、仏頂面を崩してニヤリと笑った。

この「軍の管轄から切り離した」という事実には、国家運営における途方もなく深く、冷徹な計算が隠されている。


(もし、あの影の者たちを陸軍直属の組織にしてしまえばどうなるか。……いずれ陸軍は、己の都合の良いように情報を操作し、暴走を始める。外征の口実を作るために情報を捏造し、不都合な真実は握り潰すだろう)


軍隊とは、巨大な暴力装置である。

その暴力装置が「情報」という目と耳まで独占してしまえば、もはや政府にも止めることのできない完全な『怪物』と化してしまう。


だが、西郷はそれを司法省という別の官庁に置いた。

これにより、何が起こるか。


(『軍そのもの』が、監視対象になるのだ)


慶家の目に、鋭い光が宿る。


警保寮(警察・公安)という、軍とは別系統の組織が国内の情報を統括することで、もし陸軍内部で血気盛んな将校たちがクーデター(反乱)や命令無視を企てたとしても、警保寮の『影』たちがそれを事前に察知し、未然に防ぐことができる。


逆に、軍が外へ向けて戦を起こす際も、司法省の諜報網がもたらす『客観的な情報』と照らし合わせることで、軍の暴走(独断専行)に待ったをかけることができるのだ。


かつて、家康自身が江戸幕府を開いた際、親藩、譜代、外様と大名を絶妙に配置し、大目付や隠密を使って互いに監視させ合う「相互監視チェック・アンド・バランス」のシステムを構築したように。


(あの西郷という男……軍のトップに立ちながら、軍という組織の持つ『暴走の危険性』を誰よりも正しく恐れている。だからこそ、軍の背中に銃口を突きつける『もう一つの天皇の組織』を、意図的に創り上げたのだな)


それは、一部の藩閥(薩長)や軍部のためではない。真に「日ノ本(国家)」を守るための、冷徹にして完璧な組織設計であった。


「……素晴らしい」


慶家は、窓の外――警保寮が置かれた霞が関の方角を見つめ、深く満足げに頷いた。


「軍を動かすのは陸海軍。金を動かすのは大蔵省。そして、それらすべてを裏から監視し、他国を探るのは司法省(警保寮)。……国家の臓腑が、見事に分かれた」


自らが構想し、西郷と渋沢、そして慶喜を動かして産み落とした『影』たちが、これ以上ない最高の配置についたのだ。


明治六年、春。新政府の裏側において、十三歳の狸爺が仕掛けた巨大な「国家の再設計リビルド」は、誰一人その真の操り人形師の存在に気付かぬまま、完璧な形となって始動したのである。



―――


明治六年、夏。


岩倉具視や大久保利通ら政府の首脳陣が欧米視察(岩倉使節団)で国を空けている間、日本国内を預かる「留守政府」の内部は、まさに業火の如き混乱と対立の渦中にあった。


板垣退助らが強硬に主張する「征韓論」を巡る果てしない政争。


近代化を急ぐ各省庁による、大蔵省(財布の紐)を完全に無視した野放図な予算要求と、それに伴う泥沼の権力闘争。


新政府は、外敵と戦う前に身内の派閥争いと利権漁りで自壊しかねない、極めて危うい状態にあった。

だが――。


司法省の中にひっそりと産声を上げた治安維持の総本山、『警保寮』が本格的に稼働を始めたことで、この泥濁りの政府内に、冷酷なまでの「浄化のメス」が入り始めることとなる。


―――


帝都の夜。各省庁の役人たちが足繁く通う新橋や柳橋の料亭、あるいは官僚たちの私邸の暗がりにおいて、音のない「影」たちが蠢いていた。


(……長州の井上馨殿、またしても豪商の三井と密会し、何やら証文を交わしておったな)


(各省庁の帳簿も確認した。大蔵省の承認を通さず、軍費や土木費名目で勝手に公金を流用している形跡が山ほどある)


彼らは、かつて徳川幕府が二百六十年をかけて練り上げ、今は警保寮の邏卒(警察)や密偵として身をやつしている元・公儀隠密や御庭番たちであった。


彼らにとって、新政府の成り上がり官僚たちがやっている汚職や裏工作など、あまりにも稚拙で隙だらけであった。料亭の仲居に化け、あるいは車引きとして政府高官の会話を盗み聞き、時には厳重に保管された金庫の帳簿を夜の間に「検分」する。


彼らの放つ蜘蛛の巣は、瞬く間に新政府の暗部を絡め取り、数々の致命的なスキャンダルを『素っ破抜いて』いった。


その最たるものが、大蔵省のトップ(大蔵大輔)として強大な権力を握っていた長州閥の重鎮・井上馨いのうえ かおるによる、大規模な汚職疑惑――世に言う『尾去沢おさりざわ銅山事件』であった。


井上が自らの権力を濫用し、秋田の豊かな銅山を悪徳商人と結託して不当に差し押さえ、私物化しようとしたという、極めて悪質な利権の横流しである。


のみならず、各省の役人たちが大蔵省の予算枠を無視し、賄賂を受け取って勝手に公金を使い込んでいる実態が、次々と一枚の報告書にまとめられていった。

それらの「絶対的な証拠」は、警保寮の裏口から、一人の男の執務机へと直接届けられた。


司法卿(法務大臣)・江藤新平。

「法の支配」を絶対の正義と信じ、いかなる権力者であろうとも罪を犯せば容赦なく裁く、新政府きっての苛烈なる法治主義者である。


「……己の私腹を肥やすために、国法を曲げ、公金を貪るか。長州の成り上がり者どもめ、言語道断である!!」


届けられた井上馨の汚職の証拠と、各省庁の腐敗のリストを目にした江藤は、烈火の如く激怒した。


司法省のトップである江藤にとって、警保寮がもたらしたこれらの情報は、腐敗した藩閥政治を打ち砕くための「最強の剣」であった。江藤は一切の躊躇なく、この絶対的な証拠を携え、真っ直ぐに皇居へと参内したのである。


―――


「……これらはすべて、事実であるか。江藤」


玉座に座る若き主君――明治天皇の御声は、静かに、しかし奥底に雷鳴のような怒りを孕んで震えていた。

まだ御年二十一歳。


維新以来、天皇は政府の元勲たちの決定を静かに見守り、裁可を下す「象徴」としての役割を黙々とこなしてきた。政治の泥臭い実務は、すべて西郷や大久保ら臣下に任せていたのだ。


しかし、江藤新平によって直接突きつけられた報告書には、天皇の御心である「大御宝(民)」のために使われるべき国費が、私利私欲のために食い物にされているという醜悪な現実が克明に記されていた。


「はっ。司法省警保寮の調べによれば、一分の隙もなき事実にございます。特に井上馨の所業は、国家の財を私物化する国賊の振る舞い。……陛下、どうか厳正なる御裁断を」


江藤が深く平伏する中、明治天皇はギュッと拳を握りしめ、かつてないほどの激しい怒りを露わにした。


数日後。


天皇の異例の呼び出しを受け、西郷隆盛、板垣退助、大隈重信ら「留守政府」の重鎮たちが、青ざめた顔で御前に平伏していた。


そしてその中には、汚職の張本人として糾弾された井上馨の姿もあった。


「――朕は、お前たちに国を託した。私腹を肥やし、派閥で争うためにまつりごとを任せたのではない!!」


若き天皇の叱咤が、玉座の間に雷のごとく響き渡った。


「大義を掲げて幕府を倒し、新しい国を創ると誓ったのはお前たちであろう! それが、わずか数年でこの体たらくとは何事か! 井上、其方の所業は断じて許し難い。直ちに職を辞し、謹慎せよ!」


「は、ははぁっ……!!」


長州の巨頭である井上馨が、天皇の直接の怒りに震え上がり、額を床に擦り付けた。


「西郷! 板垣! お前たちもだ! 征韓だの何だのと外に向けて騒ぐ前に、己らの足元の腐敗をどうにかせよ! 民の血税を無駄にするような政府ならば、朕は決して認めぬぞ!!」


元勲たちは、誰一人として顔を上げることができなかった。


明治天皇が、政府の首脳陣に対してこれほどまでに直接的かつ激しい怒りをぶつけたのは、これが初めてのことであった。天皇は単なる神輿から、真に国家の不正を正す「絶対君主」としての威厳を、この時初めて目覚めさせたのである。 


この天皇の激怒により、井上馨は事実上の失脚に追い込まれ、大蔵省は一時的に機能を停止するほどの大打撃を受けた。


同時に、各省庁に蔓延していた賄賂や公金流用も、警保寮(司法省)の容赦ない摘発の恐怖に晒され、一気に息を潜めることとなったのである。


―――


この留守政府を激震させた一連の騒動の顛末を。

陸軍兵学寮の片隅で、滝脇慶家(徳川家康)は極めて満足げな笑みを浮かべて見届けていた。


「……見事だ。江藤新平という『法に狂った男』に情報を流し、彼を直言の刃として天皇を動かす。これこそが、情報(の正しい使い方よ」


軍事顧問の講義を右から左へ聞き流しながら、慶家は窓の外の青空を見上げた。


司法省警保寮。軍から切り離されたこの「影の組織」は、初陣にして見事にその真価を発揮した。


軍部(長州閥)の暴走や資金洗浄を未然に防ぎ、不正を天皇という「絶対的権威」に直接裁かせることで、腐敗した藩閥政治に強烈なくさびを打ち込んだのだ。


(……西郷殿よ。貴殿が意図した通り、これで新政府の成り上がりどもは、常に己の背後に『天皇の眼(警保寮)』があることを恐れながら政をせねばならなくなった)


力(軍隊)を持つ者は、必ず腐る。


ならば、その力を持つ者を常に裏から監視し、時にはその首を合法的に刎ね飛ばすための『自浄作用のシステム』が必要なのだ。


(若き帝も、これで単なる飾り物ではなくなられた。己の目で悪を憎み、臣下を叱咤する『真の王』としての自覚を持たれたのだ。

……日ノ本の形が、また一つ、あるべき姿へと近づいたな)


慶家は、手元の兵学書のページをゆっくりと捲った。

彼の描いた盤面は、いまや軍の枠すらも完全に飛び越え、天皇と国家の中枢をも巻き込む巨大な歯車となって、明治という時代を確かな方向へと駆動させ始めていたのである。


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