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葵三つ葉  作者: 丸亀導師
将たる器
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27/36

将器 7

明治六年、二月。


西郷隆盛と滝脇慶家による、あの極秘裏の会談から数ヶ月が経過した帝都・東京。

冷たい北風が少しずつ春の気配を帯び始めたこの時期、明治政府の中枢において、立て続けに国家の骨格を揺るがす幾つかの重要な法案が可決された。


一つは、兵学寮における「幼年科」の創設、そしてそれに伴う『陸海幼年校』という名の、陸軍と海軍の枠を超えた統合教育機関の勃興である。


本来、陸軍と海軍は完全に分離独立し、別々に士官候補生を育成する方針であった。しかし、西郷が政府内で強権を発動し、「教育の初めから陸海を割るべきではない」と強硬に主張し、これを統合させたのだ。


「同じ釜の飯を食わせ、同じ日ノ本を護る同志としての絆を叩き込む。兵科を分けるのは、その土台が出来上がった後で十分ごわす」


西郷のその言葉の裏には、十五歳の童が放った「教育から縦割りにされた組織は、いずれ身内で争い、必ず内側から腐る」という凄絶な警告があった。結果として、日本軍は黎明期において、陸海の派閥争いという致命的な病巣を未然に防ぐための、極めて合理的な基盤を得ることとなったのである。


そして、もう一つの巨大な改革。


それは、史実よりも約一年ほど前倒しで採決された『屯田兵制』の導入であった。


北の広大な未開の地、北海道(蝦夷地)を開拓し、同時にロシアの南下に対する防衛の要とする。

政府は、維新後に家禄を減らされ、行き場を失って鬱憤を溜め込んでいた旧士族たちに対し、この屯田への「任意での参加」を大々的に布告した。


しかし、その布告文には、単なる開拓の推奨や厄介払いの意図は微塵も感じられなかった。そこには、武士という生き物の誇りを根底から揺さぶる、熱き為政者の言葉が添えられていたのである。


『——屯田は、決して士族のみに許されたものではない。広く平民・農民からもこれを募る。

しかし、鍬を持つ農民の中には、戦を知らぬ者、戦い方を知らぬ者たちが多くいる。

いざ北の地に異国の脅威が迫った時。戦を知らぬ民草を背にかばい、最前線で盾となって国を護り抜くのは、剣に生きてきた士族たるお前たちだからこそ出来る事である。

正規の軍とは違う形となるが、どうか、この新しき日ノ本のために、お前たちのその力を貸してほしい——』


それは、上からの命令ではなく、国家からの「懇願」であり、武士の魂に対する最大限の「敬意」であった。


「自分たちは御払い箱になったわけではない。民を護る盾として、まだ頼りにされているのだ」


その言葉は、死に場所と誇りを求めて燻っていた士族たちの胸に、深く、熱く突き刺さった。


「ならば、北の地でこの命、国のために使い切ってやろうではないか」と。


各地で暴発寸前だった士族たちの不満は、この布告によって見事に吸収され、彼らは自らの意志で北の大地へと旅立っていった。


大久保や板垣らが強硬に主張していた「征韓論」による危うい外征圧力は、この国内の鮮やかなる『纏め上げ』によって、完全にその勢いを削がれることとなったのである。


―――


教育の統合、そして士族の救済。


慶家が示した二つの矢は、大西郷という巨人を経由して、見事に政府の政策として具現化された。


しかし、まだ最後の、そして最も危険な「第三の矢」が残っていた。


外国の謀略を防ぎ、敵を孤立させるための、国家直属の諜報機関インテリジェンスの創設である。


西郷の手元には、慶喜の記憶から書き起こされた「公儀隠密たちの潜伏先目録」がすでに存在していた。しかし、リストがあるだけでは人は動かない。江戸幕府が滅び、市井に散った彼ら「影」たちは、新政府を心の底から憎悪し、信用していない。薩長がいくら金や地位を積もうとも、彼らが真の忠誠を誓って命を懸けることはあり得ないのだ。


彼らを完璧に統率するには、彼らの魂を縛る絶対的な「鍵」が必要であった。


そこで西郷は、大蔵省で暗躍する「共犯者」――渋沢栄一を密かに呼び出し、一つの途方もない命令を飛ばした。


「静岡に隠棲される徳川慶喜公に、一つの文を書いていただきたい。……彼ら影の者たちを動かすための、絶対の号令を」と。


数日後。


駿府の私邸にいた徳川慶喜は、渋沢を通じて極秘裏に届けられたその要請を受け取った。

慶喜は、縁側に座ったまま、長く、静かな沈黙を保った。


自らが筆を執り、かつての隠密たちに命を下す。それは、大政奉還以来、すべての権力と未練を捨て去った慶喜にとって、自らの「死に体」としての沈黙を破ることを意味していた。万が一これが露見すれば、新政府への反逆とみなされ、いかなる言い訳も通用しない。


だが、慶喜の心に迷いはなかった。


彼は知っている。帝都で自らの名を継ぐ十五歳の童が、己の命を賭して、この国を強国へと押し上げようと血反吐を吐いていることを。


ならば、かつてこの国の頂点に立った者として、その覚悟に報いねばならない。


「……硯を」 


慶喜は、傍らの清孝に命じ、筆を手に取った。

その瞬間、趣味の油絵や写真に興じていた「隠居・徳川慶喜」の纏う空気が、劇的に変貌した。


冷徹なる知性、天下を統べる絶対的な威厳、そして万軍を従える重圧。


それは紛れもなく、かつて三百年の長きにわたり日ノ本に君臨した武家の棟梁、『征夷大将軍』としての顔であった。


和紙に向かい、慶喜は自らの人生における「最後の命令書」を書き連ねていく。


『——公儀隠密、御庭番、伊賀・甲賀の末裔、並びに草の者たちへ告ぐ。

長きにわたり、徳川のために尽くしてくれた忠義、大儀であった。

だが、徳川の世は終わった。もはや、我に尽くす必要はない。

コレよりは、日ノ本という国を護るために。

かつて我に捧げたその忠義を、そっくりそのまま「国家への忠義」とし、新たな主の下で粉骨砕身に努めてほしい。

お前たちのその比類なき力、どうか新しき国のために振るってくれ——』


それは、主君から家臣に対する「解き放ち」であり、同時に国家への「奉公」を命じる、将軍としての最後にして最高の訓示であった。


―――


東京の郊外。


夜の闇に包まれた、大蔵省所有の広大な秘密倉庫。

その人気のない暗がりに、数十名の男たちが音もなく集結していた。


商人、車引き、猟師、新聞記者、異人館の通詞……。


表の顔は様々であるが、その身のこなし、気配の消し方、そして研ぎ澄まされた刃のような眼光は、彼らが常人ではないことを如実に物語っていた。彼らこそ、目録を元に日本中から密かに招集された、かつての旧幕府の影たちである。


「……何の用だ。俺たちはもう、武士ですらねえんだぞ」 


「薩長の役人風情が、今更俺たちを呼び出してどうしようってんだ。隙を見せりゃあ、寝首を掻くぞ」


暗がりの中で、彼らは新政府に対する明確な殺気と警戒心を露わにしていた。 


その彼らの前に進み出たのは、新政府の重鎮である西郷隆盛と、大蔵省の渋沢栄一であった。


渋沢は、彼らの敵意に満ちた視線を真っ向から受け止めながら、懐から一通の書状を取り出した。


そして、静かに、だがはっきりと通る声で告げた。


「……上様(徳川慶喜公)からの、最後の御命令である」


その一言で、倉庫内の空気が一変した。


先程まで殺気を放っていた男たちが息を呑み、信じられないものを見るような目で、渋沢の手元の書状を凝視した。


渋沢は、震える声で、その訓示を読み上げた。

徳川の世の終わり。忠義の切り替え。日ノ本のために粉骨砕身せよという、かつての主君からの懇願。

読み終えられた時、倉庫の中は水を打ったような静寂に包まれていた。


やがて、一人の初老の男が、ポロポロと大粒の涙をこぼしながら、その場に崩れ落ちるように膝をついた。


「上様は……我らのことを、お忘れではなかった……っ」


「国のために、この命を使えと……!」


一人、また一人と、影の者たちが床に額を擦り付ける。


彼らは、薩長に屈したのではない。新政府に降伏したわけでもない。彼らが生涯を捧げた絶対の主君・征夷大将軍からの「最後の命令」に、深い涙と誇りと共に従ったのだ。


西郷隆盛は、その凄絶なまでの忠誠の光景を前に、ただ深く、深く頭を垂れていた。

旧幕府の遺産が、今ここに、国家(日ノ本)を裏から守護するための絶対的な「盾と眼」として生まれ変わった瞬間であった。


「……頼むごわす。おはんらの力、この国の裏側を護るために、貸してくれ」


大西郷のその言葉に、影たちは無言のまま、かつての主君に対するのと同じように、重々しく平伏した。

十五歳の少年が描き出した途方もない盤面は、大蔵省の金庫番と薩摩の巨頭を動かし、ついに最後の将軍をも動かした。


明治六年、春。

後に列強から恐れられることとなる、日本の近代諜報機関——『影の軍隊』が、帝都の夜闇の中でひっそりと、しかし極めて強靭な産声を上げたのである。


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