将器 5
静岡の空に、穏やかな秋の陽射しが降り注いでいた。
廃藩置県を経て、新たな県の体制が敷かれた静岡において、滝脇慶家の父・清孝は、新設された県立の学校――「静岡師範学校」の教員として新たな人生を歩み始めていた。
かつての武士としての身分こそ失ったものの、次代を担う若者たちに学問を教えるというその仕事は、真面目で実直な清孝の気性に合っていた。
その日、滝脇家には帝都・東京の兵学寮にいる息子、慶家(市之進)からの手紙が届いていた。
「……そうか、市之進は東京でも息災でやっているようだな。渋沢様のお宅を辞し、無事に兵学寮へと入ったとある」
「まあ、本当に良かった。あの子のことですから、大方角を立てていないか心配しておりましたけれど……」
縁側で手紙を読み上げる清孝の傍らで、母の菊は安堵の吐息を漏らし、目尻を下げた。
その横では、妹の松が自分の宛名が書かれた手紙を大事そうに胸に抱き、目をキラキラと輝かせていた。
「お父様! あにさま、後日『浅草の練り羊羹』という、とても甘くて美味しいお菓子を送ってくださるそうです! 東京で一番の評判なのだと!」
「ははは。そうか、それは楽しみだな。お前がしっかりと手習いをしているご褒美だろう」
無邪気に喜ぶ松の頭を撫でながら、清孝は良き父親としての温かな笑みを浮かべた。
遠く離れて暮らしていても、息子はしっかりと家族を気遣い、軍人としての厳しい生活の中でも細やかな手紙を送ってくれる。表向きの滝脇家は、ささやかで平和な、明治の新しい家庭の姿そのものであった。
だが――。
家族を下がらせ、一人書斎に入った清孝の顔から、父親としての温和な笑みがスッと消え失せた。
彼の手元には、家族宛ての手紙とは別に同封されていた、もう一通の手紙があった。
宛名はない。
しかし、同封されていた符丁と、息子の「あの底知れぬ眼差し」を思い起こせば、それが誰に宛てたものであるかは明白であった。
(……この手紙の真の宛先は、上様(慶喜公)だ)
清孝は、封を切らずともその手紙が放つ異様なまでの「重さ」と「危うさ」を肌で感じ取っていた。
息子は、単なる近況報告のために宛名のない手紙を忍ばせるような真似は絶対にしない。これは、国家の根幹、あるいは旧幕府の暗部に触れる極秘の書状に違いない。
「……出かけてくる。学校の用事だ」
清孝は、妻に短く告げると、足早に家を出た。
向かう先は、かつての主君が静かに隠棲する地――駿府の徳川慶喜の私邸である。
―――
駿府の私邸。
秋の庭を眺めながら、趣味の油絵の筆を動かしていた慶喜は、密かに訪れた清孝から無地の封筒を受け取ると、静かにその中身に目を通した。
縁側に、重苦しい沈黙が落ちる。
手紙を読み進める慶喜の表情は、驚くほど動かなかった。
しかし、その双眸の奥底には、かつて日本全土を盤面に見立てて采配を振るっていた「最後の将軍」としての鋭利な光が、微かに、しかし確かに明滅していた。
(……情報機関の創設。そして、旧幕府の『影』の引き渡し、か)
慶喜は、手紙から顔を上げ、空を仰いだ。
数え十五歳の童が、陸軍の兵站を牛耳るだけでなく、今度は国家の「目と耳」を掌握しようとしている。その途方もないスケールと、自らの遺産(公儀隠密)を新政府の心臓部に組み込もうとする神業のような発想に、慶喜は内心で深く舌を巻いていた。
「……上様。市之進は、何と申しておりますか」
平伏したままの清孝が、恐る恐る尋ねる。
「……清孝。其方の息子は、本物の化け物だ。長州の山県はおろか、薩摩の大西郷すらも、己の盤面の駒として使いこなす気でいる」
慶喜は、手紙を静かに火鉢にくべ、灰になるまで見届けた。
「だが……私自身が、表立って動くわけにはいかない」
慶喜の言葉には、確固たる決意があった。
もし今、徳川慶喜という男が、かつての『公儀隠密』や『御庭番』に直接の号令を下せばどうなるか。
それは新政府に対する明確な「徳川の反逆」と見なされ、ようやく形になり始めた明治という国家の盤面が、根底から歪み、崩壊してしまう。
戊辰の役で己が泥を被り、すべてを投げ打ってまで守り抜いた「日ノ本の統一」が、水泡に帰すのだ。それだけは、絶対に避けねばならない。
だからこそ、徳川の「影」たちは、旧幕府の遺物としてではなく、あくまで「新政府の軍人たる滝脇慶家が個人的に集めた手駒」という体裁をとらねばならないのだ。
「清孝。筆と紙を」
慶喜は、油絵の筆を置き、清孝に命じた。
用意された和紙に向かい、慶喜は硯で墨を擦ると、一切の迷いなく、流れるような筆致で文字を書き連ね始めた。
『元・御庭番衆、某。現在は浅草にて小間物屋を営む』
『伊賀者・某。維新後は横浜に下り、異人館の通詞(通訳)の元で働く』
『甲賀の末裔、某。甲府の山間にて猟師に身をやつす』
『草の者、某。帝都の新聞社に潜り込み、記者として活動中』……
清孝は、息を呑んでその光景を見つめていた。
慶喜が書き記しているのは、かつて徳川幕府が二百六十年をかけて構築し、維新の動乱と共に歴史の闇へと消え去ったはずの「諜報網の目録」であった。
恐るべきは、慶喜のその『記憶力』である。
名簿など一切見ていない。彼は、日本中に散らばり、市井に溶け込み、完全に身分を隠して生きているはずの「影」たちの現在の行方と偽装の職業を、ただ己の脳内の記憶だけを頼りに、次々と紙に書き出していくのだ。
(これが……将軍。これほどまでの頭脳を持ちながら、上様はあえて沈黙を貫いておられるのか……!)
清孝は、その絶望的なまでの能力の高さと、それを決して己のために使おうとしない慶喜の孤独な覚悟に、思わず目頭を熱くした。
やがて、数枚の和紙にびっしりと書き込まれた「影の目録」が完成した。
「……私の知る限り、未だ腕が鈍っておらず、かつ『新しい国』のために働く意志が残っている者たちの名と居場所だ」
慶喜は、墨の乾いたその目録を丁寧に折りたたみ、清孝の手に力強く握らせた。
「清孝。これを、慶家に届けよ。私からの指示は一切ない。『使い方は、そなたに一任する』とだけ伝えろ」
「はっ……! 確かに、承りました」
清孝は、その薄い和紙の束が、万の軍勢にも匹敵するほどの途方もない兵器であることを理解し、震える手でそれを懐深くへと忍ばせた。
「……頼んだぞ。日ノ本の未来を」
背を向け、再び油絵の筆を手にする慶喜の背中は、ひどく小さく、しかしどこまでも高く澄み切っていた。
静岡から東京へ。
最後の将軍の恐るべき記憶力によって呼び起こされた「江戸の影」たちは、数え十五歳の狸爺が待つ新政府の帝都へと、密かに、そして確実に送り届けられようとしていた。
―――
陸軍兵学寮での過酷な日々に僅かな息継ぎが許される休日。
滝脇慶家のもとに、静岡の父母からの手紙が届いた。
内容は、妹の松が届いた土産の羊羹を大層喜んでいることや、父・清孝が県立学校で無事に教鞭を執っていることなど、当たり障りのない近況報告であった。
だが、その手紙の末尾に記されていた「居候の節に大変お世話になった渋沢栄一様へ、お礼の書状と心ばかりの品をお送りしました」という一文を見た瞬間、慶家の口角が微かに上がった。
(……良い口実ができた)
慶家は、即座に共に渋沢邸に身を寄せていた四人の若者たちを召集した。
「父母が渋沢殿へ礼の品を送ったそうだ。我々も挨拶に伺うのが筋であろう。ついてこい」
慶家一人で休日に兵学寮を抜け出して大蔵省の高官の屋敷へ向かえば、山県の放った監視の目を引く。だが、かつて世話になった書生五人が揃って恩人の元へ挨拶に行くという体裁をとれば、極めて自然な行動として誤魔化せるのだ。
―――
帝都の中心部、渋沢邸。
折しも休日のこの日、新政府の金庫番として多忙を極める渋沢栄一は、珍しく自宅に留まっていた。いや、正確には「この日を休日に設定して待ち構えていた」のである。
彼が誰のために休みを取ったのかといえば、他でもない。今まさに屋敷の門を叩いた、数え十五歳の怪物を問い詰めるためであった。
「おお、よく来たな! 大蔵省の仕事が溜まっていてな。お前さんたち、悪いが少しあっちの部屋で帳簿の整理を手伝ってくれないか?」
渋沢は、玄関先で出迎えるなり、慶家の背後にいる四人の若者たちに二言三言声をかけ、体よく別の部屋へと追いやった。
四人もすっかり渋沢邸の勝手が分かっているため、「はいっ!」と素直に散っていく。
見事な人払いだった。
周囲に誰もいなくなったのを確認すると、渋沢の顔から人の良い笑みがスッと消え失せた。
「……こっちへ来い、滝脇」
渋沢は慶家を奥の茶室へと招き入れると、ピシャリと襖を閉め、周囲に一切の気配がないことを確認した。
そして、懐から一通の無地の書状を取り出し、畳の上に叩きつけるように置いた。
「……静岡の親父殿からの礼の品に、これが紛れ込んでいた。ご丁寧に『厳封・渋沢様より市之進へ』とな」
渋沢の目は、血走るような鋭さを帯びていた。
兵学寮への郵便物は、すべて軍の検閲(山県の息の掛かった者たち)の目を通る危険がある。
だからこそ、清孝は最も安全で確実なルート——大蔵省の重鎮であり、絶対に中身を他言しない渋沢栄一の私邸へと、この「爆弾」を送り届けたのだ。
「俺の屋敷を経由させるということは、これがそれだけ『危ない橋』だという証拠だ。中身は見させてもらった。……江戸の公儀隠密、御庭番、伊賀甲賀の残党たちの潜伏先目録。背筋が凍ったぜ」
渋沢は、額に冷汗を滲ませながら慶家を睨みつけた。
「今、長州の山県は山城屋事件で身動きが取れねえ。その隙を突いて諜報組織の『手駒』を揃えようって算段は分かる。……だが、滝脇。俺は旧幕府の金庫や人事にはそれなりに精通しているつもりだが、ここまで完璧に全国の『影』の動向を把握している者など、一人しか思い浮かばねえ」
渋沢は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「……まさか。これを書いたのは」
「ご推察の通り」
慶家は、微塵も隠す素振りを見せず、静かに、しかしはっきりと告げた。
「上様(徳川慶喜公)が、自らの記憶のみを頼りに書き記されたものです」
「っ……!!」
渋沢栄一は、目を見開き、言葉を失った。
静岡で隠居し、趣味の写真や油絵に没頭し、政治や世の動きには一切関心を持たず、ただ日々を無為に過ごしている……あの、牙を抜かれた哀れな旧主が。
あの大政奉還と無血開城の果てに、すべての気力を失ってしまったはずの男が、このような国家を揺るがす大それた目録を書いたというのか。
「上様は、ただ日ノ本という国の未来のためのみに動いて下さっております」
慶家は、微動だにせず、渋沢の目を真っ直ぐに見据えた。
「この目録の存在が新政府に露呈すれば、旧幕府による謀反の企てと見なされ、上様の首が物理的に危のうございます。渋沢殿の屋敷を中継地点に使ったのは、確実な隠蔽のため。……要するに」
慶家は、大御所の凄みを滲ませて、ニヤリと笑った。
「渋沢殿。あなたには、我々の『共犯者』になっていただく、ということです」
本来ならば、大蔵省の重鎮を「旧主の命」という人質に取って脅迫するような、極めて悪辣な手口である。
しかし、渋沢の顔に怒りはなかった。
恐怖すらなかった。
ただ、彼の大きな目から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出していたのだ。
「……そうか。そうだったのか……っ」
渋沢は、両手で顔を覆い、嗚咽を漏らした。
彼は、ずっと悔しかったのだ。
類稀なる英明さを持ちながら、時代に敗れ、世間から「腰抜け」と罵られながらも、一切の弁明をせずに沈黙を貫いている徳川慶喜という男の境遇が。
だが、違った。
慶喜は決して呆けてしまったわけでも、牙が抜かれたわけでもなかったのだ。
あの男の恐るべき頭脳と記憶力は、未だ健在であった。ただ、その牙を剥いてしまえば最後、国内で血みどろの内戦が再発し、やっと形になり始めた「日本」という国が崩壊してしまう。
それが分かっているからこそ、彼は自らに泥を塗り、意図的に動かない(沈黙する)という『極大の忍耐』を続けていただけなのだ。
「……上様は、まだ、この国を……っ」
渋沢の男泣きが、茶室に響く。
新政府の金庫番として冷徹に数字と向き合ってきた男の、かつての主君に対する絶対的な忠誠と、その深い自己犠牲への理解がもたらした、抑えきれない感情の奔流であった。
「……分かった。この渋沢栄一、喜んで地獄行きの『共犯者』になってやろうじゃねえか」
やがて、渋沢は袖で乱暴に涙を拭い、真っ赤な目で慶家を睨み返した。
その顔は、もはや明治政府の官僚のものではなく、慶喜のために命を賭した『幕臣』の顔に戻っていた。
「予算の融通だろうが、身分証の偽造だろうが、大蔵省の権限を使っていくらでも裏から手を回してやる。山県が手出しできねえ今のうちに、最高の組織を創り上げろ!」
「頼もしい限りです」
慶家は、深く頷いた。しかし、その顔はすぐに為政者としての冷徹なものへと切り替わった。
「ですが、渋沢殿。一つだけ誤解なきよう。……私はこの新しい情報機関(影の軍隊)を、いずれ陸軍から完全に切り離し、『独立した存在』とする腹積もりです」
「なんだと? 軍の下部組織にするんじゃないのか?」
「ええ。情報が軍部に独占されれば、いずれ軍は己に都合の良い情報だけを信じ、暴走を始めます。情報は、軍のためではなく『国家(日ノ本)』のために存在せねばならない」
慶家は、目録の書かれた書状を静かに懐へと収めた。
「いずれ山県らが腰を上げ、陸軍の組織としてこれを立ち上げさせるでしょう。
しかし、その中身(人員)はすべて私が掌握する。そして機が熟した時、軍の枠組みからこれを引き剥がし、真に国を護るための絶対的な『裏の眼』へと昇華させます」
数え十五歳の少年が語る、数年、あるいは数十年先を見据えた途方もない国家構想。
それはまさに、かつてこの国を統一した家康が、新たな時代に合わせて日ノ本という国を『再設計』しようとする青写真そのものであった。
「……この日ノ本を、真に良き国とするために」
その言葉に、慶喜の願いと、家康の執念が重なり合う。
渋沢栄一は、目の前の童の中に、二人の偉大な天下人の影を幻視し、ただ深く、無言のままに平伏して頷くことしかできなかった。




