将器 4
明治の陸軍兵学寮、ひいては新政府の軍部中枢は、普仏戦争から帰還した観戦武官たちの報告に沸き立っていた。
これまで手本としてきた仏蘭西式から、勝利を収めた普魯西式への軍制転換。
その中核となるのが、「統合参謀本部」という概念の導入である。
少数の天才的な指揮官に依存するのではなく、高度な教育を受けた多数の「秀才」たる幕僚(参謀)を育成する。
中央の参謀本部が大まかな戦略と作戦計画(号令)を立案し、前線の各部隊指揮官には、その目的を達成するための広範な裁量権と自律的な判断を委ねる。
これにより、大軍の意思決定を淀みなく、かつ状況に応じて極めて柔軟に機能させる。
戦場という盤面において、軍という巨大な機械を最も効率的に稼働させるための、まさに「切り札」とも呼べる軍制改革であった。
しかし――。
(……阿呆どもめ。それで終わり、だと?)
兵学寮の片隅でその方針を耳にした滝脇慶家(徳川家康)は、深々と、酷く呆れたような溜息を吐いた。
盤面を見る眼の欠如
山県有朋をはじめとする陸軍首脳陣の視線は、完全に「前線の戦場」と「軍隊の動かし方」という物理的な局面にのみ釘付けとなっていた。
慶家から見れば、彼らのやろうとしていることは、将棋において「いかに駒を効率よく前進させ、敵陣を突破するか」という手筋の構築に過ぎない。
だが、実際の国家間の戦争とは、盤面に駒を並べる前の「外交と諜報という盤外戦」において、すでに勝敗の大半が決しているものだ。
プロイセンが勝てたのは、参謀本部が優秀だったからだけではない。
ビスマルクが諸外国に対して周到な政治工作を行い、フランスを完全に孤立させ、情報の網の目で敵の動きを掌握していたからだ。
いかに優秀な参謀本部を創り上げようと、敵国や周辺国の政治的意図、内情、同盟関係といった「情報」が入力されなければ、出力される戦略はただの机上の空論となる。
目隠しをしたまま、闇雲に名刀を振り回すようなものだ。
(自ら攻撃を仕掛ける前に、まずは敵の攻め気を完全に読み切り、その動きを吸収して絡め取る『目と耳』が不可欠だというのに……新政府には、他国を探る強固な組織が何一つ存在しておらん)
居ても立ってもいられなくなった慶家は、即座に筆を執り、自らを営倉に叩き込んだ陸軍大輔・山県有朋、そして政府中枢に向けて、一通の分厚い「嘆願書(建白書)」を書き上げたのである。
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山県への建白書 ——『影の軍隊』の創設
数日後、山県の執務机の上に置かれたその建白書には、十五歳の少年が書いたとは思えぬほど冷徹で、国家の急所を抉るような戦略論が展開されていた。
一、普仏戦争における我が国の情報収集能力の致命的欠如について
今次、普仏戦争において我が国の観戦武官が持ち帰ったものは、砲の性能や参謀本部の仕組みといった「戦場の結果」のみに留まっている。
ビスマルクがいかなる政治的取引を用いて露西亜の中立を買い、英国を黙らせたのか。その過程を探り当てた者が我が国に一人でもいたか。
この極度な情報貧困のままでは、いざ我が国が列強と対峙した際、戦端が開かれる前に外交的に孤立させられ、戦わずして敗北を喫することとなる。
山県は、その一文を読み、苦い顔で眉間を揉んだ。
反論の余地がない。政府も軍も、目の前の近代化に必死で、海外の裏事情を探る余裕など全くなかったのだ。
二、対外政治工作および情報収集を主眼とする『専門機関』の設立
参謀本部という「頭脳」を活かすためには、世界中に張り巡らされた「神経」と「目」が必要である。
軍の正規編成とは別に、平時より他国へ潜入し、政治工作、情報収集、流言飛語による敵国の内部撹乱を担う専門の組織——すなわち、現代における『公儀隠密』たる諜報機関を、陸軍参謀本部の直属、あるいは政府直轄として至急創設すべきである。
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(……諜報機関、だと)
山県は息を呑んだ。
戦国を生き抜き、二百六十年の泰平を「情報」で支配した大御所・家康の魂が、近代国家におけるインテリジェンスの重要性を真っ向から突きつけてきているのだ。
建白書は、さらに具体的な組織の運用法にまで踏み込んでいた。
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語学と文化の完全なる習得: 武官のみならず、商人や留学生として諸外国へ人員を潜伏させ、その国の経済状況や世論の動きを逐一中央へ報告させること。
謀略による敵の孤立化: 敵国の内部対立を煽り、自国に有利な勢力へ資金や武器を密かに援助する工作能力を持つこと。
防諜: 同時に、帝都に入り込んでいる異国の密偵や外交官の動きを監視し、我が国の軍事機密の流出を防ぐこと。
刃(軍隊)を磨くことのみに熱中し、敵の背中を取る算段(諜報)を怠る者は、必ずやその刃で己の身を滅ぼす。
軍制を普魯西式に改めるのであれば、その根底にあるビスマルクの『謀略の仕組み』ごと模倣せねば、仏蘭西の二の舞になることは必定である。
―――――――――
山県は、分厚い建白書を机に置き、深く、長く息を吐き出した。
軍の中央集権化と参謀本部の設立。それで新時代の軍隊が完成したと思い上がっていた己の浅薄さを、またしてもこの数え十五歳の少年に、完膚なきまでに叩き潰されたのだ。
「……滝脇慶家。貴様は、どこまでこの国の先を見透かしているのだ」
軍事の枠を超え、国家のインテリジェンス(情報機関)の創設までもを進言してきた天才少年。
この建白書は、やがて新政府の軍部に、見えない戦争を戦うための「影の組織」を産み落とす、極めて重要な劇薬となっていくのである。
―――
歴史の歯車は、一個人の卓越した先見性だけでスムーズに回るほど軽くはない。
滝脇慶家が提出した「情報機関(影の軍隊)の創設」という、国家の命運を左右する至極真っ当な建白書。本来ならば即座に政府首脳会議にかけられるべきこの議題は、陸軍大輔・山県有朋の机の上で、完全に「塩漬け」の危機に瀕していた。
折しもこの時期、山県は政治生命を完全に絶たれかねない、底なしの疑獄事件の泥沼に足を踏み入れていた。
――世に言う『山城屋事件』である。
長州出身の政商・山城屋和助が、陸軍の公金を無担保で巨額に借り入れ、生糸の投機に失敗して焦げ付かせた一件。事が発覚し、進退窮まった山城屋は陸軍省内で割腹自殺を遂げた。
この前代未聞の不祥事に対し、新政府内の最大派閥である薩摩閥(および土佐・肥前閥)は、長州閥の巨頭である山県をここぞとばかりに猛烈に追及した。
事態は明治天皇の耳にまで達し、政府の重鎮である西郷隆盛らが事態の収拾に動かざるを得なくなるほどの大事件へと発展していたのである。
軍の予算を焦げ付かせた張本人として、山県の政治的発言力は地に墜ち、辞表を提出せざるを得ない状況にまで追い込まれていた。
このような針の筵の状態で、「新たに謀略・諜報のための特務機関を創設し、予算を回してほしい」などと政府を説き伏せることなど、天地がひっくり返っても不可能であった。
「……忌々しい。よりにもよって、こんな時に……っ」
山県は、執務室で慶家の建白書を握りしめ、血を吐くような思いで呻いた。
己の失態が招いたこととはいえ、この建白書に記された「諜報網の欠如」は、今の日本が抱える致命的な急所である。派閥争いで潰していい次元の話ではない。
追い詰められた山県は、ついに一つの決断を下した。
己のちっぽけなプライドを捨て、政敵とも言える薩摩の巨頭に頭を下げることである。
―――
「……なんごわすか、山県。辞表の他に、まだわしに渡す物があると言うのか」
西郷隆盛の私邸。
巨体を揺らして現れた西郷に対し、山県は深く頭を下げ、懐から慶家の建白書を差し出した。
「西郷殿……恥を忍んで、お願いがございます」
山県は、山城屋事件で己が身動きが取れない現状を素直に認めた上で、この建白書の重要性を必死に説いた。
「あの滝脇慶家という童が書き上げた、他国を探る諜報機関の創設案です。
……悔しいが、奴の言う通り、今の我が軍の目は完全に塞がれている。
だが、今の私にこれを太政官(政府)へ通す力はない。
どうか、西郷殿のお力でこの議題を取り上げ、あの童から『深い真意』を聞き出し、組織の輪郭を形作るために動いてはいただけないか」
「ほう……」
西郷は、受け取った建白書に目を通し、その鋭くも達観した内容に微かに目を細めた。
長州の意地を捨ててまで、薩摩の自分に頭を下げて国の急所を塞ごうとする山県の姿。そして何より、あの数え十五歳の「化け物」が、今度は新政府の裏側にまでメスを入れようとしているという事実に、西郷の血が微かに騒いだ。
「……よかろう。あの童の頭ん中、わしも前々から覗いてみたいと思うとったところごわす。山県、おはんはしばらく謹慎しておれ。この件は、わしが預かる」
西郷の快諾を得て、山県は深く、安堵の息を吐き出した。
―――
一方、その頃。
陸軍兵学寮の自室において、滝脇慶家は、洋ランプの微かな灯りの下で、何通もの手紙を書き連ねていた。
(山城屋事件、か。……まったく、御維新を成し遂げた元勲だというのに、商人の懐具合に丸め込まれて足元をすくわれるとは。
山県有朋、貴様の経済観念はその程度というわけだ。渋沢殿の爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいわ。)
慶家は、兵学寮にいながらにして、すでに市中の噂や政府の動揺を正確に把握していた。
山県が事件の当事者として失脚の危機にあり、表立って軍制改革や新たな組織の創設に動けないことなど、火を見るよりも明らかである。
(あのプライドの高い山県が身動きを取れぬとなれば、必ず西郷隆盛あたりに泣きつくはず。西郷が動けば、いずれわしの所へ『真意』を問いに来るだろう。……だが)
慶家は、ペンを走らせながら冷たく笑った。
(政府の阿呆どもが重い腰を上げるのを、口を開けて待ってやる義理はない。
組織の『箱』は奴らに作らせるとして、中に入れる『手駒』は、わしが先に揃えさせてもらう)
彼が書いているのは、故郷・静岡の実家へ宛てた手紙である。
父・清孝には、兵学寮での厳しいが充実した生活の報告。
母・菊には、体調を気遣う温かな言葉。
妹・松には、東京の街の珍しい風物や、いずれまた西洋の珍しい菓子を送るという約束。
それぞれ一通ずつ、家族への細やかな愛情と気配りに満ちた、年相応の少年の手紙であった。
しかし——。
その家族への手紙の下に隠された「最後の一通」。
それこそが、慶家が明治政府の盤面を根底から覆すために放つ、極めて危険な一矢であった。
宛先は、徳川慶喜。
かつての主君であり、彼に「慶家」の名を与えた沈黙の男。
その手紙の内容は、近況報告などという生易しいものではなかった。そこには、大御所・家康の冷徹な意思が、隠語すら交えずに生々しく記されていた。
『上様(慶喜公)に、一つお伺いしたき儀がございます。』
『新政府の軍は、図体ばかりが大きくなり、目と耳を欠いております。私はこれより、新政府の軍部に、他国の内情を探り、謀略を以て敵を孤立させるための新たな組織(影の軍隊)を組み上げる腹積もりにございます。』
慶家のペンが、和紙の上で力強く躍る。
『しかし、情報機関というものは、一朝一夕の訓練で育つものではありませぬ。人の腹を探り、気配を絶ち、外国語を操り、命を賭して暗躍する者。それを一から育てていては、列強の牙に間に合いませぬ。』
『故にお尋ねいたします。——幕末期において、諸外国や各藩の情勢を探っていた『公儀隠密』『御庭番』『伊賀・甲賀の血を引く者たち』……旧幕府の情報網の残党は、現在いかなる現状にあり、いずこに散っておりますか。』
―――
ゼロから間者を育てるなど、愚の骨頂。
徳川幕府が二百六十年の長きにわたって血と金をつぎ込み、洗練させ続けてきた「情報のプロフェッショナル」たちがいるではないか。
彼らは維新の動乱で職を失い、あるいは市井に紛れ、あるいは新政府を恨みながら逼塞しているはずだ。その者たちを、新しい『国家の諜報機関』の骨組みとして丸ごと組み込んでしまえばいい。
慶家は、そのために、旧幕府の頂点にいた慶喜から、彼らの行方と動かし方の「鍵」を直接聞き出そうとしているのである。
『山県大輔は自らの不祥事にて身動きが取れず、近々、西郷隆盛が私に接触してくるはずです。その時までに、私はこちらの手札を完全に揃えておく必要があります。……この日ノ本を真に護るため、どうか、かつての『影』たちを、この滝脇慶家にお託しください。』
慶家は、書き終えた手紙を丁寧に折りたたみ、封を閉じた。
薩摩と長州が政争に明け暮れ、山県が西郷に助けを求めて右往左往している間に。
数え十五歳の狸爺は、彼らの予測を遥かに超える速度で、旧幕府の遺産を新政府の心臓部に移植するための『水面下の工作』を、すでに完了させようとしていた。
表の盤面では、大西郷が慶家のもとへ歩みを進める。
そして裏の盤面では、慶家が旧時代の影たちを招き寄せる。
帝都・東京の夜闇の中で、二つの巨大な思惑が、静かに交錯しようとしていた。




