将器 2
バァン、と無惨に蹴り開けられた長官室の扉が、衛兵たちの手によって恐る恐る閉じられた。
静寂を取り戻した部屋の中で、陸軍大輔・山県有朋は、執務机に両手をついたまま、ギリリと奥歯を噛み鳴らしていた。
その脳内では、猛烈な怒りと、極めて冷徹な政治的計算が、凄まじい勢いで火花を散らして衝突していた。
(……あの小僧。私の、この山県有朋の顔に、見事に泥を塗りおった)
山県にとって最大の悩みは、滝脇慶家に対する「処分」をどう下すかであった。
軍隊とは、絶対的な階級社会である。
いかに正論であろうと、一介の生徒が長官室に押し入り、陸軍トップを面罵するなどという行為は、明らかな軍規違反(抗命罪)であった。
ここで慶家に一切の罰則を与えなければ、明治政府や陸軍の沽券に関わるのはもちろんのこと、何より山県自身が「高々数えで十五の童に良いように言われ、黙り込んだ腰抜け」として、全軍から舐められてしまう。
西郷隆盛という最大の大物に見られていたことも、状況を致命的に悪くしていた。
軍の規律を保つためにも、慶家には必ず「罰」を与えねばならない。
しかし——。
山県は、激情に任せて物事を判断するような単細胞ではない。欧州を視察し、近代国家の冷酷な仕組みを肌で学んできた、筋金入りのリアリスト(現実主義者)である。
(もし、あの童を退学や投獄といった『厳罰』に処せば、どうなる?)
山県は、慶家が吐き捨てた言葉を、頭の中で反芻した。
『白米は贅沢病(脚気)の温床』
『食で釣った兵は戦で役に立たない』。
あの言葉には、反論の余地がないほどの強烈な「真理」が宿っていた。
山県自身、長州藩で奇兵隊を率い、泥まみれの実戦を経験してきた男である。補給が途絶えた時の兵の脆さや、贅沢に慣れた者の弱さは、実は誰よりも痛感しているのだ。
(もし、あの童を厳罰で切り捨てた後……数年後に陸軍内で脚気が蔓延し、あるいは不味い飯が原因で兵の逃亡が相次いだとしたら……?)
その時、山県有朋という男の評価は地に堕ちる。
「あの時、十五歳の天才が論理的に指摘した警告を、己のちっぽけなプライドのために握り潰した『無能な将官』」として、歴史に名が刻まれてしまうのだ。
政敵である薩摩閥や、他の政府高官たちに、それを格好の攻撃材料として使われるのは火を見るよりも明らかであった。
メンツを保つために罰すれば、己の無能を証明する危険を孕む。
かといって罰しなければ、軍の階級と己の権威が崩壊する。
「……山県。おはん、どうするつもりごわすか?」
ソファで葉巻を吹かしていた西郷が、面白がっているような、それでいて試すような目で山県を見た。
山県は深く息を吸い込み、乱れた軍服の襟を正すと、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、もはや怒りはなく、国家の権力者としての氷のような冷徹さだけが宿っていた。
「……西郷殿。軍規は軍規です。一介の生徒が長官室に押し入り、暴言を吐いた事実は決して看過できません」
山県は、傍らに控えていた副官に向かって、冷酷な声で命を下した。
「陸軍兵学寮、滝脇慶家。上官に対する著しい不敬および軍規違反により、『一週間の営倉(軍の牢獄)における重謹慎』を命ずる」
副官が「はっ!」と敬礼する。
とりあえずの体裁として、軍の牢獄へ叩き込む。これならば、「生意気な童を処罰した」という山県のメンツは保たれる。
だが、山県の命令はそれだけでは終わらなかった。
「……ただし」
山県は、執務机の上に積まれていた分厚い書類の束——大蔵省から突き返されたばかりの、陸軍の糧食予算と兵站の計算書——を無造作に掴み上げ、副官の胸に押し付けた。
「謹慎中、あの小僧にはこの書類を全て持ち込ませろ。そして伝えよ。
『貴様の言う通り、我が陸軍はこれより兵食に麦と雑穀を混ぜる。ついては、貴様の言う“飴と鞭”の兵食を、現在陸軍に割り当てられている予算内で完全に再計算し、新しい兵站の仕組みを立案してみせろ』とな」
「……は? え? 営倉の中で、軍の予算の計算を、ですか……?」
副官は目を丸くした。それはもはや罰則ではなく、軍の幕僚が何日も徹夜して行うような高度な実務である。
「そうだ。もし一週間の謹慎明けまでに、実用に耐えうる完璧な計算書を提出できなければ、先程の暴言は『ただの大言壮語』であったとみなし、即刻兵学寮から放逐する。
……渋沢栄一の下で丁稚奉公をしてきたというその手腕、見せてもらおうではないか」
山県は、薄く、しかし獰猛な笑みを浮かべた。
これこそが、山県有朋という男の真骨頂(政治力)であった。
表向きは「軍規違反による投獄」という厳罰を下して軍の規律を守る。
しかしその実態は、慶家が批判した「兵站の欠陥」を、慶家自身に解決させるための『強要』である。
見事にやってのければ、山県は己の非を認めることなく、恩着せがましく「優秀な案を採用してやった」という形で軍を強化できる。
もしできなければ、「口だけの小僧だった」として堂々と切り捨てられる。
どちらに転んでも、山県自身は一切傷つかず、むしろ利益を得る完璧な「盤面」を構築したのだ。
「……くくっ。あっはっはっは!!」
西郷は、山県のそのあまりにも食えない、為政者らしい狡猾な判断を聞いて、再び大爆笑した。
「流石は山県ごわす! 伊達に長州で軍を率いちゃおらん! 罰を与えるふりをして、あの童にタダ働きで陸軍の兵站を立て直させる腹積もりか! いやはや、恐ろしか男だ!」
「……お褒めに預かり光栄です、西郷殿」
山県は、西郷の笑い声を背に受けながら、窓の外——兵学寮の方向を鋭く睨み据えた。
(滝脇慶家。貴様がただの理想を語る坊主か、それともこの私をも食い殺す真の怪物か。……その腕前、とくと見せてもらおう)
かくして、大御所・徳川家康は、十五歳にして明治政府の「牢獄」へと叩き込まれることとなった。
しかしそれは、彼にとって罰でも何でもない。新政府軍の兵站という最重要の心臓部を、合法的に、かつ完全に己の計算下へ置くための、願ってもない『玉座』の獲得であった。
―――
陸軍兵学寮の敷地内、その片隅にひっそりと建つ営倉。
分厚い木の扉と鉄格子で閉ざされ、陽の光もろくに入らない薄暗いその部屋は、血気盛んな若者の精神を折り、軍規の絶対性を骨の髄まで叩き込むために造られた空間である。
しかし、その冷え切った板の間に胡座をかき、小さな机に向かっている滝脇慶家の顔に、悲壮感や反省の色は微塵もなかった。
「……ふむ。麦と粟の相場がこの程度ならば、白米一辺倒だったこれまでの予算からおよそ二割の金が浮く。
その浮いた金で、麦の長期保存のための乾燥設備と、脚気防止のための梅干しや味噌の副食を充実させれば……完璧に予算内に収まるな」
カリカリ、カリカリ。
静寂の営倉に、慶家が走らせる洋筆の音だけが小気味よく響き渡っていた。
山県有朋から突きつけられた、陸軍全軍の兵食見直しと兵站の再計算。本来ならば、大蔵省と陸軍省の幕僚たちが何日も頭を突き合わせて行うべき膨大で複雑な実務である。
だが、かつて百万石を超える領国を切り盛りし、さらには直近まで大蔵省のド真ん中で渋沢栄一から近代経済の仕組みを叩き込まれていた慶家にとって、この程度の計算は「ちょっとした頭の体操」に過ぎなかった。
彼は涼しげな顔で、瞬く間に予算書を書き換え、計算書を一枚、また一枚と完成させていく。
(山県の奴、わしを罰する体裁を取りつつ、この厄介な計算を押し付けてタダ働きさせるつもりだろうが……甘いな)
慶家は、計算書の隅に自分の署名を記しながら、内心で冷たく笑った。
(わしにこの書類を作らせた時点で、お前はすでにわしの術中にはまっておるのだ。
この計算書が採用されれば、今後の陸軍の兵食と兵站の根幹は、すべてこのわしが設計した『土台』の上で動くことになる。……軍の胃袋を握ったも同然よ)
ふと、慶家は筆を止め、鉄格子の外——微かな物音を立ててこちらを窺っている「視線」の方へと、チラリと目を向けた。
山県が配置した監視の衛兵、あるいは内偵の類だろう。一挙手一投足を見張り、もし慶家が泣き言を言ったり、計算に行き詰まって絶望したりすれば、すぐに報告を上げる手筈になっているに違いない。
(監視、か。……阿呆らしい)
慶家は、再び筆を動かしながら、フッと鼻を鳴らした。
この程度の圧迫感など、前世で経験した『あの地獄』に比べれば、児戯にも等しい。
戦国末期。小田原征伐を終えた直後、天下人たる豊臣秀吉から「長年住み慣れた三河・駿河の地を没収し、未開の湿地帯である関東(江戸)へ国替えせよ」と命じられたあの時の理不尽さ。
周囲はすべて秀吉の息のかかった大名で包囲され、一歩でも反逆の素振りを見せれば即座に首が飛ぶ、あの息の詰まるような絶望的な監視と圧力。
それに比べれば、営倉の鉄格子など、ただの鳥籠のようなものだ。
むしろ、慶家はこの状況を「極めて好都合」と解釈していた。
一介の生徒に過ぎない十三(数えで十五)の童が、長官室へ直談判に押し入り、陸軍の頭目である山県有朋を論破して動かしたのだ。これは、新政府軍の歴史において途方もなく大きな『第一歩』である。
そして同時に、山県がわざわざ監視を置くということは、彼が慶家を「無視できない危険な存在(特異点)」として明確に認識したという証左に他ならない。
(分かっている監視など、もはや監視ではない。ただ、相手が望む『強大な姿』を堂々と見せつけてやれば良いだけの話だ)
慶家は、計算を終えた書類を整えながら、外の監視者たちの気配を改めて分析した。
(足音の消し方、視線の配り方、気配の断ち方……どれをとっても三流以下だ。
新政府は、正規軍の調練には熱心だが、裏の『目と耳』を育てることにはひどく無頓着と見える)
かつて、徳川家康という男は、情報の価値を誰よりも重んじていた。
伊賀や甲賀の忍びを取り立て、全国に『公儀隠密』と呼ばれる強固な諜報網を張り巡らせた。
大名の謀反の兆し、世間の噂、物価の変動。
あらゆる情報を居ながらにして吸い上げるそのシステムこそが、二百六十年の泰平を支えた真の心臓部であった。
それに比べ、眼の外でコソコソと様子を窺っている新政府の監視の、なんと稚拙で劣っていることか。
(これでは駄目だ。軍を創り、金を集めるだけでは国家は動かせん。人の腹の底を探り、敵の謀略を未然に防ぐ『影の網』が不可欠だ)
鉄格子の隙間から差し込む一条の月光を浴びながら、慶家は静かに、しかし鋼のように硬い決意を固めていた。
陸軍という表の組織を掌握すると同時に、もう一つ。
この近代国家の裏側を這い回る、新たなる『公儀隠密(インテリジェンス機関)』を、自らの手で一から再編し、創り上げねばならない、と。
「……さて。宿題は終わったぞ、山県大輔殿。次の一手は、貴様が打つ番だ」
慶家は、完璧に仕上げられた陸軍兵站の再編計画書を机の中央にドンと置き、冷たい板の間に寝転がると、そのまま高いびきをかいて深い眠りへと落ちていった。
監視の者たちがその度肝を抜くほどの図太さに戦慄し、慌てて報告に走ったのは、言うまでもないことであった。




