明治の帳 12
帝都・東京に新設されたばかりの兵部省では、連日、怒号と混乱が渦巻いていた。
陸軍兵学寮の開設遅延、地方の兵学校からの編入生に対する情報伝達の不備、そして受け入れ態勢(兵站と宿舎)の完全なる欠如。新政府という組織がいかに「泥縄式」で動いているかを示すような失態の山を、兵部省の役人たちは連日徹夜で虱潰しに処理し、火消しに追われていた。
そんな折、彼らの耳にある一つの報告が舞い込んできた。
「沼津から上京してきた『あの滝脇慶家』が、あろうことか大蔵省の渋沢栄一の邸宅に上がり込み、丁稚奉公のような真似をしている」という情報である。
報告を上げたのは、市中の動向を探る密偵か、あるいは大蔵省に出入りする下級役人であっただろう。相手が相手だけに、この事実は兵部省の内部に小さからぬ波紋を広げた。
「……渋沢栄一といえば、旧一橋家の家臣にして、徳川慶喜公の覚えめでたき男。そこに、慶喜から名を賜った『巾着(お気に入り)』の小僧が転がり込んでいるだと?」
「偶然にしては出来過ぎている。旧幕臣どもが夜な夜な顔を合わせ、良からぬ企て(反乱の密議)でもしているのではないか!」
薩長出身の強硬派の役人たちは、色めき立った。
彼らにとって、徳川の残党は常に「隙あらば新政府を転覆させようとしている」不穏分子に映る。しかも、片や大蔵省で金庫番を務めるやり手、片や沼津で教官たちを論破した神童である。警戒するなと言う方が無理な話であった。
しかし——。
「……阿呆らしい。ただの杞憂だ。騒ぎ立てるな」
兵部省の執務室で、その報告書を一瞥した山県有朋は、鼻で笑って冷たく言い放った。
「旧幕臣が密議を凝らす? 笑わせるな。そもそも、あの小僧たちが路頭に迷って渋沢の元へ転がり込んだのは、我々兵部省の『連絡の不備と受け入れの遅れ』が原因ではないか。
寝床をなくした書生が、同郷の伝手を頼って飯を食わせてもらう。極めて合理的な行動であり、そこに謀反の意図などあろうはずがない」
山県は極めて冷静なリアリストであった。
彼自身、兵学寮の準備不足という自らの組織の失態を正確に把握している。故に、部下たちの感情的な陰謀論を即座に切り捨てたのである。
とはいえ。
あの「滝脇慶家」という得体の知れない怪物を、渋沢栄一という経済の異端児が囲っているという状況は、山県にとっても微かな引っ掛かりを覚えさせるものであった。
(……一応、釘は刺しておくか)
―――
数日後。
太政官(政府の最高機関)の廊下ですれ違った折、山県有朋は、大蔵省から出てきた渋沢栄一を呼び止めた。
「渋沢殿。少しよろしいか」
「おお、これは兵部省の山県殿。大蔵省への予算の催促ならば、もう少し待っていただきたいが?」
「いや、金の話ではない」
山県は、周囲に人がいないことを確認すると、細い目をさらに眇めて探りを入れた。
「……貴殿の屋敷に、沼津からの『迷い子』が何人か転がり込んでいると耳にした。その中には、例の滝脇という童もいるそうだな。旧幕臣同士、昔語りにでも花を咲かせているのかと思いましてな」
それは、「妙な企てはしていないだろうな」という暗黙の牽制であった。
しかし、渋沢栄一の反応は、山県の予想を完全に裏切るものであった。
「はっはっはっは!! 昔語り? 冗談を言っちゃあいけねえ!」
栄一は、廊下に響き渡るような大声で腹を抱えて笑い出したのだ。
「山県殿、あんたら兵部省の連中は、とんでもない『宝の持ち腐れ』をしてくれたもんだ! あの滝脇という小僧、ただの書生じゃあないぞ。今、俺の屋敷で丁稚奉公をさせているんだがな……」
栄一は、嬉しくてたまらないといった様子で、身を乗り出して語り始めた。
「あいつ、大蔵省の複雑な帳簿を渡しても、ものの半日で仕組みを理解しちまった。
それどころか、『この予算の割り当てでは、冬場に兵の脚気が増えて兵站が滞るから、麦の買い付けに予算を回すべきだ』などと、大蔵省の役人顔負けの進言までしてきやがる!
他の居候の書生どもまで見事に統率して、今やうちの屋敷の『裏の差配役』みたいな顔をしてふんぞり返ってやがるよ!」
「な……っ」
山県は、絶句した。
「軍人になりたいって言うから、俺が大蔵省か民間に引き抜いてやろうかって誘ったんだが、見事に振られちまってね。いやぁ、惜しい! 全く惜しい!
山県殿、あんな化け物を兵学寮で飼い殺しにするくらいなら、いっそ大蔵省に丸ごと引き取らせてくれねえか?」
栄一は本気で悔しそうに、しかし心底楽しそうにそう言い放ち、カラカラと笑いながら去っていった。
取り残された山県有朋は、冷たい石造りの廊下で、一人立ち尽くしていた。
(……帳簿を読み解き、予算から兵站を逆算する。兵部省の将校ですら碌にできぬ『軍政の基礎』を、あの小僧は今、大蔵省のド真ん中で渋沢から直接吸収しているというのか……!)
山県の背筋を、強烈な悪寒が這い上がった。
武士の世が終わり、これからの軍隊には「算盤」が不可欠になる。それを誰よりも理解している山県だからこそ、渋沢栄一という男が放った言葉の重みが、痛いほどに理解できた。
あの渋沢栄一が、機嫌よく、そして心底から惚れ込んだように才能を絶賛する男。
滝脇慶家は、単にジョミニの戦術を批判するだけの「口の達者な秀才」ではなかったのだ。
(反乱の企てなど、確かに杞憂であった。……だが、もっと恐ろしい事態だ)
山県は、ギリッと奥歯を噛み締めた。
(あの童、兵学寮の門が開くまでのこの数ヶ月で……ただの軍人から、国家の経済(土台)をも理解する『完全な為政者』へと進化しようとしている)
「……滝脇慶家」
山県は、その名を憎々しげに、しかし明確な『畏怖』を込めて呟いた。
軍の中枢を牛耳ろうとする長州の冷徹なる巨頭は、ここに至り、一人の十三歳の少年を、新政府の行く末を左右する「最大級の標的」として、改めて深く、深く認識させられたのである。
―――
渋沢邸での奇妙な同居生活も、いよいよ闌を迎えていた。
この頃、慶家は数え15,現代で14歳となっていた。
年が明け、季節が巡り、ようやく兵部省から「陸軍兵学寮の学寮(宿舎)および受け入れの準備が整った」という正式な通達が届いたのである。慶家たちはいよいよ渋沢の家から荷を出し、本来の目的地である皇居前の兵学寮へと移動する時期に差し掛かっていた。
この数ヶ月の間に、慶家と共に転がり込んできた四人の若者たちは、見違えるように成長していた。
初めは借りてきた猫のように怯え、帳簿の数字に目を回していた彼らであったが、元より地方の兵学校に選抜されるほどの「秀才」たちである。慶家の容赦ない叱咤と、大蔵省という実務の荒波に揉まれた結果、今では渋沢の持ち帰る膨大な書類をテキパキと整理し、書生として立派に実務を消化できるほどに鍛え上げられていた。
「いやぁ、いざ別れとなると惜しいもんだ。お前さんたちが抜けると、うちの書斎が回らなくなっちまうよ」
出立の前夜。
労いの酒を酌み交わしながら、渋沢栄一は冗談めかして笑ったが、その眉間にはどこか拭いきれない深い疲労と、重い「悩み」の皺が刻まれていた。
この時期、大蔵省の実務を牽引する渋沢は、新政府が抱える最大の難題——「税制の抜本的改革」の構想に着手したばかりであった。
後に『地租改正』と呼ばれることになるこの大改革。土地の価値(地価)を定め、そこから一定の税率で金銭を納めさせるという近代国家に不可欠な制度である。
渋沢自身、この改革の必要性には大いに納得し、乗り気であった。
しかし、彼を深く悩ませていたのは、その「税率」であった。
新政府の官僚たちの多くは、江戸時代末期の過酷な年貢率をそのまま新制度の税率に転用し、さらにあらゆる物品に新たな税を課そうと目論んでいた。
理由は単純である。「歳出(政府の支出)を絶対に減らしたくないから」だ。
軍備の拡張、近代化のためのインフラ整備、そして何より、膨大な数に上る不平士族たちへの秩禄(給与)の支払い。
それらを賄うために、明治政府はどうしても「重税路線」を敷かざるを得ない、いや、敷こうとしていたのである。
渋沢としては、この性急な重税路線に断固反対の立場であったが、大蔵省内でも孤立しがちであり、己の考えを真に理解し、議論できる相手に飢えていた。
「……なぁ、滝脇。お前さんは、どう思う?」
最後の夜、渋沢はついにその重い口を開き、国家の税制という最高機密に等しい悩みを、十四歳の少年に打ち明けた。
「政府の連中は、国を強くするために農民から限界まで搾り取ろうとしている。だが、俺は違うと思うんだ。……税が重すぎれば、国は根本から腐っちまう」
その言葉を聞いた慶家は、静かに手元の茶を啜り、そして、深く頷いた。
「……渋沢殿の懸念は、完全に正しい」
慶家は、かつて日本全土の税と土地を支配した「神君」としての冷徹な視座から、静かに語り始めた。
「後世の者たちは、私……いや、徳川家康という男が遺した『農民は生かさず殺さず』という言葉を、随分と都合よく曲解して歩かせているようですね」
「曲解、だと?」
「ええ。アレは、『ギリギリまで搾り取って餓死寸前で生かしておけ』などという野蛮な意味ではありません。
要するに、『その日食うに困るほど苦しくもなく、かといって怠惰を貪れるほど楽でもない。一生懸命に働けば、少しずつ暮らしが上向くという向上心を持てる程度の塩梅』という意味です」
慶家は、卓上に置かれた蝋燭の炎を見つめながら、戦国という地獄を思い起こしていた。
「政府の役人どもは分かっていない。
……過度な重税が何を招くか。
戦国を生き抜いた武将にとって、民を飢えさせるような重税は、即座に一揆を招き、領主たる己の首を物理的に刎ね飛ばされるという絶対的な『死』を意味していました。
民の働きと暮らしを適正に守ることこそが、為政者が己の首を繋ぐための常識であり、最大の処世術だったのです」
それを、机上の空論しか知らぬ新政府の青二才どもは、「国のため」という大義名分のもとに、紙の上の数字だけで民の生き血を啜ろうとしている。
「渋沢殿。歳入(税収)が減って予算が足りぬというのならば……歳出(支出)を減らせばよい。ただそれだけのことです」
慶家の言葉は、極めて単純でありながら、真理を突いていた。
「身の丈に合わぬ軍備を整え、無駄な役人を抱え込んだまま、そのツケを民草に押し付ける。そんな歪な国家運営を強行すれば、民の不満は必ず臨界点に達します。……血を流すのは農民だけではない。職を失った士族たちもまた、その不満を爆発させるでしょう」
慶家は、渋沢の目を真っ直ぐに見据えた。
「重税路線を突き進めば、いずれ必ず『内乱』が起きます。その反乱を鎮圧するために、政府は結局、得られた税収の何倍もの金(軍費)を失うことになる。……これほど愚かで、割に合わぬ計算はありません」
「……っ」
渋沢栄一は、息を呑んだ。
十四歳の少年の口から語られたのは、まさに渋沢自身が最も恐れ、憂いていた「最悪の未来予測」そのものであった。
数字の辻褄合わせに奔走する政府の高官たちが誰一人として見ようとしない『国が内側から破裂する音』を、この少年は完璧に聴き取っている。
「……お前さん、本当に底知れねえな」
渋沢は、深く息を吐き出し、天井を仰いだ。
「ああ、その通りだ。俺が懸念していたのは、まさにそれなんだ。無理な税は民を殺し、国を割る。……だが、俺はその内乱の火種を、金と制度の力で必ず食い止めてみせる。この大蔵省から、な」
「頼もしい限りです。ならば私は、万が一その火種が弾けた時、軍が民を無闇に殺さず、かつ自滅せぬよう、内側から手綱を握り潰す準備をしておきましょう」
二人の怪物は、互いの覚悟を確かめ合うように、ニヤリと笑い合った。
翌朝。
四人の若者たちと共に、真新しい軍服に身を包んだ滝脇慶家が渋沢邸の門前に立っていた。
「渋沢殿。数ヶ月の間、大変世話になり申した。この御恩は、いずれ必ず」
「おう。陸軍兵学寮の連中に、しこたま大蔵省の流儀を叩き込んでやれ。……お前さんの往く道が、良き国に繋がっていることを祈ってるぜ」
かつての天下人と、未来の資本主義の父。
短くも濃密な「共犯関係」を終え、滝脇慶家はついに、薩長が牛耳る新政府軍の心臓部——皇居前の『陸軍兵学寮』へと、その重い足を踏み出したのである。




