明治の帳 11
夜も更け、秋虫の音が響く渋沢邸の一室。
四人の若者たちが長旅の疲れと極度の緊張から、部屋の隅で泥のように眠りこける中、車座になった二人の怪物——大蔵省の中枢を担う渋沢栄一と、十三歳の少年・滝脇慶家(徳川家康)の対話は、いよいよ熱を帯びていた。
「——滝脇。お前さんは軍を語るが、そもそも大前提として問おう。三百年の長きにわたり、盤石の体制を誇った徳川幕府は、何故あのようにあっけなく崩壊したと思う?」
栄一は、試すような鋭い視線を少年に向けた。
普通の士族であれば、「黒船の来航による外圧」や「薩長土肥の謀略」、あるいは「幕府の軍事力の低下」と答えるだろう。
だが、慶家は卓上に置かれた湯呑みを見つめながら、極めて冷徹な声でその『真理』を口にした。
「……経済の破綻、です。より正確に言えば、『米本位制』という古き経済の仕組みが、時代の変化に耐えきれず自壊したのです」
「ほう……!」
栄一の目が、喜悦に大きく見開かれた。
慶家は、かつて自ら(家康)が構築した巨大なシステムの「欠陥」を、二百六十年の時を経て、まるで他人事のように解剖し始めた。
「徳川の開祖たる家康公が幕府を開いた折、その国力(経済)の基準を『石高』、つまり『米』に置きました。
米は誰もが食し、兵を養うための最も確実な現物です。一万石の領地があれば、二百五十人の兵を養える。この米を基軸とした経済(米本位制)は、戦国を終結させた最初の数十年間は、極めて見事に機能していました」
慶家の言葉に、栄一は何度も深く頷いた。
「その通りだ。乱世を治めるには、目に見える『食料(米)』で武士を縛り、土地に根付かせるのが一番合理的だった」
「ええ。ですが、泰平の世が長く続くにつれ、世の中の仕組みは変わりました」
慶家は、自らの子孫たちが陥った致命的な『罠』を語り始めた。
「戦がなくなり、街道が整備されると、物の行き来が盛んになり『商人』が力をつけました。彼らが動かすのは重くて嵩張る米ではなく、金と銀です。
経済の実権は、徐々に米から金銀(貨幣)へと移っていきました。……にもかかわらず、各藩や幕府は、己の国力を上げるためにひたすら『田畑の開墾(新田開発)』に執着したのです」
「八代将軍・吉宗公の『享保の改革』がまさにそれだな」と栄一が口を挟む。
「幕府の財政を立て直し、民を安心させるための名君の政策だったはずだが……皮肉な結果を生んだ」
「はい。致命的な副作用です」
慶家は、冷酷な経済の真理を突きつけた。
「米の収穫量が増えれば増えるほど、市場に米が溢れ返り、その希少性は失われます。
つまり、米の価値が暴落したのです。
武士の給金は『米』で支払われますから、彼らが生活のために米を売ろうとしても、二束三文にしかならない。一方で、金銀を基準とした他の物価は上がっていく。結果として、一生懸命に国を豊かにしようと米を作れば作るほど、武士は相対的に貧困へと転げ落ちていったのです」
(……なんと恐ろしい童だ)
栄一は、背筋に粟立つような悪寒と興奮を感じていた。
十三歳の少年が、幕府衰退のメカニズムを、軍事や政治の敗北としてではなく、需要と供給のバランス——「マクロ経済の構造的欠陥」として完璧に説明し切っているのだ。
「そして……その病に侵され、すでに金銀(貨幣)が実質的な本位となっていた幕末に、あの『開国』という致命的な事象が重なりました」
慶家の声が、一段と低く、重くなった。
「異国と日ノ本とでは、金と銀の交換比率が全く違っていた。結果、日ノ本の大量の『金』が、瞬く間に異国へと流出した。慌てた幕府は、金の含有量を極端に減らした悪貨(万延小判など)を大量に鋳造して誤魔化そうとしましたが……それが最後の引き金でした」
「ああ、凄まじい物価の高騰だ」
栄一が、当時の地獄のような経済状況を思い出し、苦々しい顔で言葉を継いだ。
「その通りです。貨幣の信用は地に落ち、物価は跳ね上がり、ただでさえ米価の下落で困窮していた武士や庶民の生活は完全に立ち行かなくなった。……幕府を倒したのは薩長の長州兵でもアームストロング砲でもない。制御不能となった『経済』そのものが、二百六十年の体制を一挙にへし折ったのです」
(……わしが創り上げた構造は、あの時代においては完璧であった。だが、子孫たちは泰平という温床に胡座をかき、構造の更新を怠った。経済の形が変わったのに、武士の矜持という『見栄』にとらわれ、商人を下に見続けた結果が、あの惨めな崩壊よ)
慶家の胸中には、自らの血肉を分けた幕府という存在への、愛憎入り交じる痛烈な自己批判があった。
だからこそ、新しい時代では決して同じ轍を踏むわけにはいかないのだ。
「……恐れ入った。完敗だ、滝脇慶家」
深い沈黙の後、渋沢栄一はふうっと長く息を吐き出し、ポンと膝を打った。
その顔には、年端もいかない少年に対する侮りなど微塵もなく、己と肩を並べる知己を見つけた強烈な歓喜が浮かんでいた。
「お前さんの言う通りだ。これからの国造りは、軍艦を買い、大砲を並べるだけでは駄目だ。
金だ。
株式会社という仕組みを使い、民間の『商い』の力を束ねて巨大な資本(金銀)を動かし、国の血流を太くしなければ、日ノ本はいずれ異国に経済から喰い殺される」
栄一は、身を乗り出し、ギラギラと燃える目で慶家を見据えた。
「俺は、そのために大蔵省にいる。だが、いずれは官を辞し、民間に下ってこの国に無数の『会社』を創るつもりだ。
……滝脇。お前さんは、軍に行け。そして、薩長の連中が身内で喧嘩して無駄な戦(出費)を起こさぬよう、軍の『財布の紐』を内側から締め上げるバケモノになってみせろ」
「ええ。そのつもりです」
慶家は、夜明けが近づく窓の外を見つめながら、不敵に笑い返した。
「兵站を無視した軍事など、ただの暴力。経済を知らぬ軍隊は、国を滅ぼす寄生虫に過ぎません。
……栄一殿が金でこの国の土台を創るなら、私は軍という巨大な組織を、国家経営のための『合理的な矛と盾』に造り変えてみせましょう」
明治という新しい夜明けの直前。
未来の日本資本主義の父となる男と、かつて日本のシステムそのものを創り上げた大御所。
互いの領域——『経済』と『軍事』の両輪で、この新国家を支え、そして牛耳るという途方もない密約が、この夜、ひっそりと結ばれたのである。
―――
渋沢栄一の広大な屋敷に身を寄せることとなった滝脇慶家(徳川家康)と、彼に付き従う形となった四人の若者たち。
陸軍兵学寮の受け入れ態勢が整うまでの数ヶ月間、ただ屋敷で飯を食らい、日がな一日暇を潰すようなことを、大御所・家康の魂を持つ少年が許すはずもなかった。
「お前たち。栄一殿の御厚意に甘え、畳の上で欠伸をしている暇があるのなら、少しでも己の血肉となるべく身体と頭を動かせ」
慶家の一声により、彼らは渋沢邸における「居候」としての労働——栄一の仕事の手伝いを強制的に開始することとなった。
もちろん、国家の機密や重要な政策立案といった中枢の仕事に関われるはずもない。彼らに与えられたのは、邸内の小間使いのような雑務から、大蔵省から持ち込まれる膨大な書類の運搬といった体力勝負の仕事、さらには簡単な帳簿の計算(算術)の手伝いなどであった。
「うう……っ、まさか帝都に来てまで、毎日のように重い書類の束を担いで走らされるとは……」
「俺たちは、軍人になるために上京してきたんだぞ。なんで大蔵省の役人の手代みたいな真似をせにゃならんのだ」
重い荷物を運び終え、額の汗を拭いながら愚痴をこぼす若者たち。
彼らにとって、軍人(武士)とは華々しく戦場で銃を構え、部隊を指揮する存在であるという憧れが強かった。それゆえに、裏方の経理や事務作業ばかりをやらされる現状に、不満が漏れるのも無理はない。
しかし、その言葉を耳にした慶家は、分厚い帳簿から目を上げることなく、冷ややかな声で彼らを一刀両断に切り捨てた。
「馬鹿者どもが。その『軍人たるもの、戦うのが本分だ』などという古臭い見栄こそが、幕府を滅ぼし、武士という身分を終わらせた元凶だと何故気付かぬ」
「た、滝脇……っ」
慶家は、筆を置き、彼らを鋭く見据えた。
「『働かざる者食うべからず』だ。そして、ここで言う『働き』とは、単に敵を殺すことではない。軍事ばかりを学び、経理や兵站、あるいは民草の暮らしを知らぬ者が、どうして兵を統率できるというのだ?」
大御所・家康の言葉には、戦国という地獄を生き抜いてきた者だけが持つ、絶対的なリアリズム(現実主義)の重みがあった。
「いくさにおいて、兵を動かすのは『気合』ではない。兵に食わせる米があり、弾薬を運ぶ牛馬があり、それを賄うだけの金(予算)があって初めて、軍は機能する。
その計算ができない将校など、いざ戦場に出れば兵を飢えさせ、無駄死にさせるだけの『役立たずの穀潰し』に他ならん!」
慶家の激しい叱責に、若者たちは雷に打たれたように押し黙った。
「戦国の世であれば、算術や兵站を知らぬ者など、鉄砲の弾除けとなる足軽程度にしか居場所はなかった。ましてや、今の近代戦において、補給の計算一つできぬ者に部隊を任せる阿呆はどこにもおらん。
……お前たちは今、大蔵省(国家の財布)の底辺で、その最も重要な『金と物の流れ』を実地で学ばせてもらっているのだ。不満を口にする暇があるなら、帳簿の一つでも多く頭に叩き込め!」
その怒迫に圧倒され、若者たちは「は、はいっ!」と慌てて姿勢を正し、それぞれの持ち場へと飛んでいった。
―――
その日の夜。
仕事を終えて帰宅した渋沢栄一は、慶家の徹底した「軍人(あるいは官僚)としての基礎教育」の成果を目の当たりにし、腹を抱えて笑った。
「はっはっは! 滝脇、お前さん、すっかりあいつらの『司令官』気取りじゃないか。大蔵省の下っ端役人よりも、よっぽど手際よく書類をさばいてくれるんで、こっちも助かってるぜ」
「当然の務めを果たしているまでです。栄一殿の御厚意に報いるには、これでもまだ足りませぬ」
慶家は、恭しく頭を下げた。
栄一は、そんな十三歳の少年を、ひどく面白そうな、そして畏敬の念すら混じった目で見つめていた。
(この童……本当に十三か? 人を使う手腕、飴と鞭の使い分け、そして何より『実学(金と物の流れ)』を最も重視するその冷徹な視座。
……まるで、酸いも甘いも噛み分けた老練な大名か、国を統べる宰相を相手にしているようだ)
栄一自身も、一橋家に仕えていた時代に、農兵を組織して訓練し、同時に藩の財政を立て直すという泥臭い実務を経験している。だからこそ、慶家がただの頭でっかちな秀才ではなく、地に足の着いた「真の戦略家」であることが痛いほどによく分かった。
「……なぁ、滝脇」
栄一は、少し真面目な顔になり、声を潜めた。
「お前さん、本当に軍に行くのか? 今ならまだ間に合う。俺が口を利いて、大蔵省か、あるいはこれから俺が創ろうとしている新しい『会社(民間事業)』の方に引っ張ってやってもいいんだぞ。お前さんのその頭脳があれば、この国の経済を牛耳るのも夢じゃない」
それは、未来の資本主義の父からの、この上ない破格の引き抜き(スカウト)であった。
しかし、慶家は一瞬の躊躇もなく、静かに首を振った。
「お心遣い、痛み入ります。ですが……経済という『土台』を創るのは、栄一殿にお任せします」
慶家は、東京の夜空——その向こうに広がる、列強がひしめく世界という巨大な盤面を見据えた。
「私が大蔵省や民間に身を置けば、確かに金は稼げるでしょう。
しかし、薩長が牛耳る歪な軍部を放置すれば、彼らはいずれ『己の武力を証明するため』だけに、無謀な外征(戦争)を起こし、栄一殿が築き上げた経済(土台)を根こそぎ食いつぶしてしまう。
……それを防ぐためには、誰かが軍のド真ん中に潜り込み、彼らの手綱(兵站と人事)を握り潰す必要があります」
慶家は、仏頂面のまま、不敵に笑った。
「それに、私は根っからの貧乏性でして。戦場で泥を啜りながら陣形を組む『縄張り』の方が、性に合っているのです」
栄一は、あっけにとられたように慶家を見つめ、やがて腹の底から愉快そうに声を上げて笑った。
「そうか。こりゃあ、俺が振られた形だな。……良かろう。ならば、お前さんは軍で、俺は民間で、それぞれ薩長の連中に一泡吹かせてやろうじゃねえか」
居候という名の、最高の実務研修。
兵学寮の門が開くまでの間、滝脇慶家は渋沢栄一という最高峰の『実務家』の元で、近代国家の血流(経済と兵站)の仕組みを完全に己の血肉へと変えていったのである。
来るべき中央の盤面で、新政府の軍部を内側から支配する、恐るべき「怪物」が静かに牙を研ぎ澄ませていた。




