明治の帳 10
皇居・和田倉門外。
そこは、新政府が日本の近代陸軍を育成するために新設した「陸軍兵学寮」の所在地であった。
期待に胸を膨らませて東海道を踏破してきた若者たちであったが、彼らを待ち受けていた現実は、あまりにもお粗末なものであった。
「……は? 沼津からの編入組? 馬鹿な、そんな話は聞いておらんぞ。沼津の生徒をこちらで受け入れるのは、この年の暮れからだと決まっている。施設もまだ整っておらん。出直してこい!」
門番を務める新政府の兵士から、無情にも「門前払い」を食らってしまったのである。
新政府の官僚機構はまだ産声を上げたばかりであり、各省庁間の連携や現場への通達は杜撰を極めていた。
要するに、沼津から生徒を引き抜く決定だけが先走り、受け入れ側の東京(兵部省)の準備が全く追いついていなかったのだ。全員、上京するのが数ヶ月「早すぎた」のである。
「そ、そんな馬鹿な! 俺たちは地方から命がけで歩いてきたんだぞ!」
「時期が来るまで待てと言われても、帝都の旅籠に数ヶ月も滞在する金など、どこにもありはしない!」
慶家と共に東海道を歩いてきた四人の若者たちは、見知らぬ大都会のど真ん中で放り出され、完全に途方に暮れて青ざめていた。
しかし、その横で、滝脇慶家だけは微塵も動揺することなく、極めて無感動にその惨状を眺めていた。
(……ふん。所詮は立ち上がったばかりの泥縄の政府。役所の縄張り争いに現の字を抜かし、兵站や受け入れの段取りを等閑にするとは、予想通りのお粗末さよ)
天下の行政を二百六十年にわたって取り仕切ってきた家康からすれば、このような行政の手違いなど想定の範囲内であった。新政府の機能不全を予測していた慶家は、万が一江戸で宙に浮いた場合に「誰を頼るべきか」、事前に静岡で完璧な情報を仕込んでいたのである。
「おい、お前たち。帝都のど真ん中で無様に泣き言を喚くな。みっともない」
慶家が冷ややかに言い放つと、四人は縋るような目で彼を見た。
「た、滝脇……お前はどうするんだ!? 当てでもあるのか?」
「当然だ。戦において、次善の策(退路)を用意せずに敵地へ乗り込む阿呆はおらん。
……お前たち、行く当てがないなら私に付いてこい。まとめて厄介になれるよう、口を利いてやる」
慶家の言葉に、四人は地獄で仏に会ったような顔で何度も頷いた。
―――
慶家が四人の若者を引き連れて向かったのは、東京の中心部、ひときわ立派な門構えを持つ広大な屋敷であった。
地方から出てきたばかりの若者たちでなくとも、一目で「只者の家ではない」と分かる豪邸である。
「た、滝脇……ここは一体、どこの大名屋敷だ?」
「大名ではない。だが、今の新政府において、下手な大名よりも遥かに金と権力を持っている男の私邸だ」
新政府の金庫番である「大蔵省」において、若くして実質的な主導権を握っている官僚。
かつては一介の農民の出でありながら、幕末の動乱の中で一橋家(徳川慶喜)に仕え、その才覚を認められて幕臣にまで取り立てられた男。
慶喜の実弟・徳川昭武のお供として仏蘭西へ渡り、最先端の西洋経済と株式会社の仕組みを学び、帰国後は静岡藩の経済立て直しに尽力した、生粋の『慶喜の腹心』。
資金に圧倒的な余裕があり、旧幕臣の面倒見が良く、何より主君・慶喜への忠誠を未だに胸に抱き続けている男。
(……この帝都において、上様(慶喜)の息がかかったこのわしを、喜んで匿ってくれる金持ちなど、この男をおいて他にあるまい)
慶家は、その屋敷の表札を静かに見上げた。
そこには、達筆な字でこう記されていた。
『大蔵大丞 渋沢 栄一』
「ごめん!」
慶家は、四人の若者を背後に従えたまま、一切の遠慮なく渋沢邸の門を叩いた。
「駿河より参った。滝脇 慶家と申す。……かつての主君、慶喜公よりその名を賜りし者である。家主の栄一殿に、お取次ぎを願いたい!」
後に「日本資本主義の父」と呼ばれ、日本中の経済を牛耳ることになる怪物・渋沢栄一。
そして、かつて日本中の武士を牛耳った狸爺・徳川家康(慶家)。
明治という新しい盤面を創り上げるための、金と軍事の異端児たちによる奇妙な同居生活が、今まさに始まろうとしていた。
―――
渋沢邸の出迎え
渋沢邸の立派な門をくぐり、玄関先で応対に出たのは、忙しなく立ち働く使用人たちと、奥から姿を現した二人の女性であった。
一人は、素朴ながらも芯の強さを感じさせる正妻の千代。
もう一人は、華やかで細やかな気配りを見せる妾(側室)である。
「……おや。書生さんたち、お困りのご様子ですね」
「主人は大蔵省に出向いておりますが、夜には戻ります。それまで、どうぞ奥でおくつろぎくださいな」
驚くべきことに、正妻と側室という、本来ならば火花を散らしてもおかしくない二人の間に、険悪な空気は微塵もなかった。それどころか、姉妹のように連携してテキパキと使用人たちに指示を出し、行き場を失っていた若者たちを温かく邸内へと迎え入れたのである。
(……ほう。正室と側室を同じ屋敷に住まわせ、これほど見事に上手く立ち回らせておるとは)
案内されながら、慶家は感心したように目を細めた。
前世において、正室・築山殿との間に凄惨な悲劇を経験し、その後も大奥(女の園)の嫉妬や権力闘争の厄介さを骨の髄まで知っている家康にとって、家庭内の『女の統制』がいかに至難の業であるかはよく分かっている。
(この屋敷の主、金勘定だけでなく、人の機微を操る事にも長けた相当な『やり手』と見える。……ますます頼もしいではないか)
慶家は、二人の妻に事情——四人の同行者に路銀がなく、東京での受け入れ態勢が整うまでの間、万が一の際は栄一を頼れと静岡で言われてきたこと——を説明し、当人が帰宅するまで客間で待たせてもらうこととなった。
通された客間は、大名屋敷と見紛うばかりの豪奢で立派な造りであった。
しかし、それをのんびりと見物するような余裕は、同行してきた四人の若者たちには全くなかった。
「お、おい滝脇……いくらなんでも、立派すぎる。俺たちのような田舎者が、こんな所に長居して良いのか……?」
「そ、粗相をしたら、大蔵省の役人に手討ちにされるのでは……っ」
四人は、見事な床の間や掛け軸にビクビクと視線を泳がせ、完全に『借りてきた猫』のように縮こまり、正座のまま身を硬くしていた。
そんな彼らを尻目に、慶家だけは一人、出された茶をズズッと美味そうに啜り、微動だにせず仏頂面で座り続けていた。
(手討ちなど、この御時世にあるはずがなかろう。それに、これしきの屋敷で縮み上がっていては、江戸城(皇居)に乗り込むことなど夢のまた夢ぞ)
―――
悪戯に時だけが過ぎ、日がすっかり落ちた頃。
屋敷の玄関が俄かに騒がしくなり、ドタバタとした活気のある足音が廊下を近づいてきた。
「おお、客人が来ていると聞いたぞ! 静岡からの若者だとか!」
襖が勢いよく開かれ、そこに姿を現したのは、小柄ながらも全身から尋常ではない精力を放つ、丸顔で鋭い眼光を持った男であった。
現在の大蔵省を実質的に牽引し、新政府の経済の心臓部を握る男——渋沢栄一その人である。
慶家は、茶碗を置き、即座に居住まいを正した。
そして、事情を説明するや否や、有無を言わさずに深々と額を床に擦り付けるようにして平伏(土下座)したのである。
「駿河より参りました、滝脇慶家と申します。兵学寮の受け入れが整わず、路頭に迷うところでした。恥を忍んでお願い申し上げます。どうか、我々が兵学寮へ入るまでの間、この屋敷の軒下なりともお貸しいただけないでしょうか!」
「ひっ……! よ、よろしくお願いいたしまする!!」
慶家のあまりにも見事な、一寸の躊躇いもない平伏につられ、四人の若者たちも慌てて床に額を擦り付けた。
(恥などで腹は膨れぬ。金と権力を持つ者には、まずは徹底的に敬意を払って懐に潜り込むのが鉄則よ)
慶家は、畳に額を擦り付けながらも、極めて冷徹に計算していた。
一方の栄一は、いきなり平伏した少年たちに驚きつつも、その筆頭で頭を下げる少年の名を頭の中で反芻していた。
(滝脇、慶家……。旧静岡藩の伝手で、慶喜公の息がかかった童……)
栄一の鋭い目が、ギラリと光った。
彼は大蔵省の官僚であるが、政府の横の繋がりから、昨今の兵部省が『ある一件』でハチの巣をつついたような騒ぎになっていることを耳に挟んでいた。
曰く、沼津兵学校の視察において、薩長の高官たちを真っ向から論破し、天皇と民への忠誠を説いてみせた十三歳の旧幕臣がいる、と。
(なるほど。この目の前で額を擦り付けている童が、あの兵部省の連中を震え上がらせている『噂の小僧』というわけか。
……それにしても、見事な平伏だ。賢いだけの書生ならば、見栄を張って変に意地を張るものだが、この童は生き残るための『泥臭さ』を知っている)
栄一は、かつて一橋家に出仕するために、農民の身分から農兵を募って平身低頭しながら這い上がってきた自身の過去を、目の前の少年に重ね見ていた。
「……面を上げよ」
栄一は、羽織を脱ぎ捨てながら、ニヤリと挑戦的な笑みを浮かべた。
「旧幕臣のよしみ、そして大恩ある慶喜公の縁者の頼みとあらば、無下にはできん。お前さんたちの路銀と宿は、この俺が丸抱えで面倒を見てやろう」
「おおっ……!!」
四人の若者たちが歓喜の声を上げる中、慶家だけは表情を崩さず、「ありがたき幸せ」と短く応えた。
「だが、ただで飯を食わせるつもりはないぞ」
栄一は、ドカッと慶家たちの正面に胡座をかいた。
その目は、もはや哀れな書生に向ける同情の目ではなく、一人の対等な『論客』に向ける知烈な光を帯びていた。
「滝脇慶家、と言ったな。お前さん、兵部省の連中を随分とコケにしてくれたらしいじゃないか。軍のなんたるかを語るのは結構だが……俺は『金(経済)』を握る大蔵省の人間だ」
栄一は、扇子で床をピシャリと叩いた。
「軍だけが強ければ、国が豊かになるわけじゃあない。……どうだ。兵学寮の門が開くまでの間、この渋沢栄一を相手に、『この国の未来の形』について、ひとつ語り合ってみないか? お前さんの知恵が本物かどうか、この俺が値踏みしてやろう」
「……」
四人の若者たちが、大蔵省の重鎮が放つ圧倒的な気迫に気圧されて息を呑む中。
十三歳の少年——徳川家康は、ゆっくりと顔を上げ、かつて天下の経済を牛耳った覇王の凄みを微かに滲ませて、不敵に笑い返した。
「望むところです、大蔵大丞殿。……軍と金は、車の両輪。その真理、存分に語り合おうではありませんか」
明治政府の金庫番と、旧幕府の開祖。
偶然の運命が引き合わせた二人の怪物による、日本の未来を懸けた夜通しの『談合』が、今まさに幕を開けようとしていた。




