明治の帳 8
沼津での屈辱的な視察を終え、逃げるように東京(江戸)へと帰還した兵部省の役人たちの胸中には、煮えくり返るような怒りと、正体の知れない薄気味悪さが渦巻いていた。
彼らにとって最大の問題は、「この事態を誰に、どう報告するか」であった。
「我々は十三歳の旧幕臣の小僧に論破され、勝海舟に嘲笑われました」などとバカ正直に報告すれば、己の無能を晒すだけでなく、薩長の威信に泥を塗ることになる。
だが、あの滝脇慶家という少年の異常な才覚と、彼が放った『天皇と大御宝(民)にのみ忠誠を誓う』という、極めて正論にして新政府の藩閥(薩長支配)を根底から否定する思想は、絶対に上に報告せねばならない「危険分子」のそれであった。
熟慮の末、役人たちはこの報告を、現在の新政府軍における実質的な最高責任者の一人である男に上げる決断を下した。
長州閥の巨頭であり、後に「日本陸軍の父」と呼ばれることになる冷徹なる軍政家——兵部大輔・山県有朋である。
―――
東京・兵部省の薄暗い執務室。
分厚い書類の山から顔を上げた山県有朋は、細く鋭い目で、直立不動で報告を行う役人たちを冷ややかに見据えていた。
「……なるほど。沼津の兵学校は、噂以上に洋算と測量において優れた教育を行っておる。それは良しとしよう。だが……」
山県は、手元の報告書をコツコツと指で叩いた。
「その、滝脇慶家という十三の童が問題であると? 慶喜から名を与えられた旧幕臣が、ジョミニの戦術論を否定し、あまつさえ我々兵部省の面々の前で『軍は薩長のものではない。天皇と民のものだ』と宣ったと、そう申すか」
「は、はい! 誠に不敬極まりない、しかし……恐ろしいほどに隙のない弁舌でございました。のみならず、勝海舟が横に控え、あの童をまるで『切り札』のように扱っておりました。このまま沼津を放置すれば、いずれ旧幕臣どもが天皇を奉じ、我々薩長を排除するための理論的支柱になりかねません!」
役人が必死に危険性を煽るのを聞きながら、山県は目を細め、深い思考の海へと沈んだ。
(……十三の童が、西洋軍学の『戦わざる勝利(戦略)』の欠如を指摘した、だと?)
山県は、単なる権力闘争に明け暮れる俗物ではない。彼自身、欧州を視察し、近代軍隊の恐ろしさと国家運営の難しさを痛感して帰国したばかりの、極めて優秀なリアリスト(現実主義者)である。
だからこそ、報告された慶家の言葉の「異常さ」と「正しさ」が、骨の髄まで理解できた。
(その童の言う通りだ。軍隊が藩に属していれば、国は割れる。天皇(国家)と民に直属する『国軍』でなければ、異国とは戦えん。……だが、それを我々薩長ではなく、滅びたはずの徳川の残党が、それも十三の小僧が一番正しく理解しているとは、何の冗談だ)
山県にとって最も恐ろしいのは、慶家が「幕府の復権」を望むような古臭い復古主義者ではないことであった。
慶家は、新政府の大義名分である『天皇』というカードを完璧に使いこなし、薩長の「藩閥による軍の私物化」という最大の急所を、論理という刃で正確に突き刺してきているのだ。
これほど完成された危険な「政治将校」の雛形を、山県は見たことがなかった。
「……山県様。如何なされますか。沼津に難癖をつけ、あの童ともども放逐いたしますか?」
役人の問いに、山県は冷たく鼻を鳴らした。
「馬鹿者。勝海舟が後ろ盾にいる状況で、下手な難癖をつければ火種が大きくなるだけだ。それに……あれほどの洋算と語学、そして戦略の俯瞰ができる才を、野に放つ手はない」
山県は立ち上がり、執務室の窓から東京の街を見下ろした。
彼の頭の中では、すでに沼津兵学校という「徳川の遺物」を完全に解体し、己の盤面へと吸収するための冷酷な計算が弾き出されていた。
「沼津兵学校は、兵部省(新政府)の直轄として丸ごと吸収する。そして、本校をここ東京に移し、『陸軍兵学寮』として再編するのだ」
「丸ごと、東京へ……!?」
「そうだ。地方(沼津)で勝手な自治を許しているから、要らぬ思想が育つ。我々の膝元に引きずり込み、薩長の将校たちの監視下に置くのだ。使える技術(算術や測量)は徹底的に吸い上げ、旧幕臣の特権意識はへし折る」
山県は、振り返り、役人たちに氷のような視線を向けた。
「その滝脇慶家という童もだ。東京へ連れてこい。反抗するなら軍規で縛り上げ、徹底的に我々の色に染め直す。……それが出来ぬほどの怪物ならば、いっそ早い内に、合法的に『処分』するまでのこと」
合理と冷徹を極める軍政家・山県有朋。
彼は、滝脇慶家という存在を「国家の有用な歯車」にするか、あるいは「危険因子として排除」するか、自らの手元で直接見極める決断を下したのである。
―――
数日後。
この兵部省での決定は、政府首脳会議の場において、参議として名を連ねていたある男の耳にも入ることとなった。
「……沼津の兵学校を東京へ移し、滝脇慶家という生徒を直轄に置く、ごわすか」
ずんぐりとした巨体を持つその男——西郷隆盛は、山県の報告書を読みながら、一人静かに目を丸くしていた。
そして、周囲の政府高官たちが怪訝な顔をするのも構わず、腹の底から愉快そうに、くくく、と低い笑い声を漏らしたのである。
(山県の奴、あの童を自分の手で御せると思うておるのか。……恐ろしか事よ。あれは、飼い慣らせるような代物ではごわさんぞ)
西郷の脳裏に、駿府城で出会ったあの底知れぬ仏頂面の童が鮮明に蘇る。
己の命運を見透かし、江戸城無血開城を予言した、天の才。
(山県よ。おはんは、己が盤面を支配したつもりでおるのだろうが……本当の化け物は、おはんのその傲慢すらも利用して、新政府のド真ん中へ喰い込んでくる腹積もりに違いなか)
「……いよいよ、面白うなってきもしたな」
西郷の呟きは、誰の耳にも届くことなく、明治という激動の時代へ向けて密かに溶けていった。
山県有朋という強大な権力者が動いたことにより、皮肉にも慶家(家康)は、彼が最も望んでいた「新政府の中枢(中央の盤面)」への切符を、最速で手に入れることとなったのである。
―――
兵部省の高官たちによる、半ば粗探しとも言える沼津兵学校の視察が闌を迎えた頃。
明治政府は、次々と矢継ぎ早に国家の根幹を揺るがす決定を下していった。
その最たるものが、「沼津兵学校の兵部省管轄下への移行」である。
表向きは、散在する軍事教育機関を中央に統合し、より高度な国軍の育成を図るという大義名分であったが、その実態が「徳川の息がかかった軍事拠点の完全なる解体」であることは誰の目にも明らかであった。
同時に、この時期に断行された「廃藩置県」という歴史的大鉈により、旧幕府の受け皿として機能していた静岡藩は完全に解体され、静岡県が置かれることとなった。これにより、旧幕臣たちは独自の軍事力や自治権を永遠に剥奪され、軍事と政治から完全に切り離されるという決定的な敗北を突きつけられたのである。
反乱の芽を、徹底的に摘み取る。
薩長を中枢とする新政府のその冷徹なまでの手際に対し、滝脇慶家(旧名・市之進)は沼津の空を見上げながら、一人静かに冷笑を浮かべていた。
(……見事な手並みだ。権力を握った者が、旧体制の遺物をどう削ぎ落とすか。為政者としては満点の処手と言えよう。だが、少しばかり臆病が過ぎるな)
兵学校の管轄移行に伴い、沼津の教官や優秀な生徒たちは、新設される東京の「陸軍兵学寮」や「海軍兵学寮」へと強制的に引き抜かれていくこととなった。
その引き抜きの名簿の筆頭に近い位置に、滝脇慶家の名があった。
彼には、海軍ではなく「陸軍」への配属が極めて優先的かつ強引に決定されていた。
兵部省の視察において、ジョミニの戦術論を否定し、新政府の軍私物化を論理で突き刺したあの旧幕臣の神童。長州閥の巨頭・山県有朋をはじめとする陸軍首脳部は、慶家という異物を地方で燻らせて勝手な思想を広められることを極度に恐れたのである。
故に、自らの膝元である東京(江戸)の陸軍中枢に引きずり込み、幾重にも監視の網の目を張り巡らせて飼い殺すか、あわよくばその才能だけを吸い尽くしてやろうという腹積もりであった。
軍が、自分を名指しで中央へ呼び寄せようとしている。
その事実を知った時、慶家の胸中に湧き上がったのは恐怖でも怒りでもなく、身震いするほどの「歓喜」であった。
(飛んで火に入る夏の虫とは、まさにこの事よ。わしを監視下に置くということは、わしからも貴様らの内情が丸見えになるということだ。……中央の盤面、喜んで乗ってやろうではないか)
東京の陸軍兵学寮へ赴く前に、慶家には僅かな帰省の時間が与えられた。
彼は荷物をまとめ、同期の古川宣誉らとしばしの別れを交わした後、東海道を西へ戻り、家族の待つ静岡の実家へと足を向けた。
―――
「……そうか。いよいよ、江戸……いや、東京へ行くのだな」
滝脇家の質素な居間。
父・清孝は、正座して出立の報告をする息子の顔を、どこか眩しいものを見るような、それでいて深い憂いを帯びた瞳で見つめていた。
廃藩置県により静岡藩は消滅し、清孝もまた、武士としての身分や藩の庇護を完全に失い、一人の「士族」という名の平民に近い存在となっていた。もはや徳川の世は、名実ともに完全に終わったのだという虚脱感が、清孝の背中を僅かに小さく見せていた。
「はい、父上。沼津の学校は事実上の解体。私は兵部省の命により、帝都・東京の陸軍兵学校へと編入されることと相成りました」
「お前が兵部省の役人を論破したという噂は、私の耳にも届いている。痛快ではあるが……それ故に、向こうはお前を危険視し、手元に置いて監視する腹積もりなのだろう。
お前は、薩長にとっての『目の上のたんこぶ』として名指しされたのだぞ。命の危険すらあるやもしれん」
清孝の言葉には、父親としての切実な懸念が滲んでいた。
しかし、慶家はいつもの仏頂面を僅かに緩め、不敵な笑みを浮かべた。
「ご案じには及びませぬ。名指しで引き抜かれるということは、彼らが私を恐れているという何よりの証左。恐れを抱く者は、盤面において最も動かしやすい駒となります」
「市之進……いや、慶家。お前という奴は……」
「軍の懐深くに潜り込み、彼らの血肉(知識と権力)を喰らって、私は新しき日ノ本の軍の中枢を掌握します。
それが、薩長のお山の大将どもの私物化を防ぎ、この国を真に守る唯一の道。……父上、ご安心くだされ。私は、決して負ける戦は致しませぬ」
その姿は、十三歳の少年でありながら、かつて天下の覇権を握り、数々の謀略と戦を潜り抜けてきた大御所そのものの威風を放っていた。
清孝は、もはや己の理解の及ばぬ高みへと登ろうとしている息子の姿に圧倒され、ただ深く、深く頷くことしかできなかった。
「……分かった。お前の往く道、もはや私が口を挟む次元にはないのだろう。だが、これだけは忘れるな。お前は滝脇の、そして徳川の誉れだ。どうか、無事に生き抜いてくれ」
「はっ。必ずや」
慶家が深く頭を下げた、その時である。
「あにさま!!」
バタバタと廊下を走る足音が聞こえたかと思うと、勢いよく襖が開け放たれた。
そこに立っていたのは、数えで十二になり、背丈も少し伸びてすっかり少女らしい顔つきになった妹の、松であった。
松の顔を見るや否や、先程まで天下の覇権を語り、冷徹な大御所の威風を放っていた慶家の顔の筋肉が、だらしなくピクピクと引きつり始めた。
(い、いかん。この顔を見ると、どうしても孫を可愛がっていた前世の記憶が……っ)
必死に軍人としての威厳を保とうとする慶家であったが、松がツタツタと近寄り、その袖をきゅっと掴んで上目遣いで見つめてくると、もはや抗うことは不可能であった。
「あにさま……お帰りなさいませ。沼津の学校がなくなって、今度はもっと遠い江戸へ行ってしまわれると聞きました。……本当なのですか?」
松の大きな瞳には、不安と寂しさがたっぷりと浮かんでいた。
慶家は小さく咳払いをし、努めて優しく、頭を撫でてやった。
「本当だ、松。だが、お前との約束は決して忘れてはおらんぞ」
慶家が風呂敷包みを解くと、中から出てきたのは、沼津の異人商人から買い付けた目新しい品々であった。
一つは、分厚いが挿絵が豊富に入った、西洋の最新の幾何学と算術の翻訳書。
そしてもう一つは、硝子の小瓶に詰められた、宝石のように色とりどりに輝く西洋の砂糖菓子であった。
「わあ……っ!」
松の顔が、一瞬にしてパァッと華やいだ。
先程までの寂しさはどこへやら、硝子の小瓶を両手で包み込むように持ち、キラキラと目を輝かせている。
「これ、ご本で読んだことがあります! 異国のお菓子で、どろっぷす、と言うのですよね! まるで水晶のようです……!」
「ああ。少しばかり値は張ったが、お前がしっかりと手習いや算術に励んでいると父上から聞いたからな。そのご褒美だ。ご本の方も、お前ならばいずれ一人で読み解けるようになるだろう」
「はいっ! ありがとうございます、あにさま!」
松は満面の笑みを浮かべ、大切そうに小瓶と本を胸に抱いた。
その屈託のない笑顔を見つめながら、慶家は内心で深い安堵の息を吐いていた。
(……良い笑顔だ。このような女子供が無邪気に笑い、異国の珍しい品を素直に喜べる。これこそが、わしが命を懸けて守るべき『泰平の世』の姿なのだ)
もし日ノ本が軍事的に遅れをとり、列強の植民地にでもなれば、この笑顔は真っ先に略奪と戦火に踏みにじられる。
薩長の藩閥争いに付き合っている暇はない。一刻も早く軍の中枢を掌握し、異国に喰われないための強固な国軍を創り上げねばならないのだ。
「松。今度江戸から帰る時は、もっと珍しい土産を持ってきてやろう。だから、留守の間は母上のお手伝いをし、父上を困らせるではないぞ」
「はい! あにさまも、江戸の悪い人たちに負けないでくださいね!」
童らしい純真な声援に、慶家はフッと笑みをこぼし、「負けるものか」と力強く頷いた。
―――
翌朝。
秋の高く澄んだ空気が、静岡の町を包み込んでいた。
身支度を完全に整え、学生服に身を包んだ慶家は、玄関先で家族に見送られていた。
「市之進……道中、気をつけるのだぞ」
母の菊が涙ぐみながら袖を引く。父の清孝は、黙って深く頷いた。
「それでは、行って参ります」
慶家が草鞋の紐を固く結び直し、顔を上げた時。
ふと、清孝が不思議そうな顔をして尋ねた。
「慶家よ。東海道の駅(停車場)はあちらだ。真っ直ぐ東京へ向かわないのか?」
慶家は、歩み出そうとした足を止め、振り返らずに静かに答えた。
「ええ。東京へ向かう前に、一つだけ……この地で『やるべき事』がありますゆえ」
そう言い残し、慶家は東の空——帝都・東京の方角へ背を向け、ゆっくりと歩き出した。
彼が見据え、向かおうとしている方角は、西。
深い木々に覆われ、かつて天下を統べた十五代将軍が、今は歴史の表舞台から降りて静かに余生を送っている地……駿府の方角であった。
己の裡に燻る決意。
そして、自らに「慶家」という途方もない重みを持つ名を与えた男への、一つのケジメ。
それを胸の内で確かなものとするための、彼自身の密やかな儀式。
誰に聞かせるでもなく、誰の許可を得るでもない。
ただ、過去の亡霊たる己自身と、時代を終わらせた男との間にだけ通じる、無言の交信のために。
秋風が、少年の学生服の裾を強く揺らす。
十三歳の老練なる大御所は、目前に迫る明治という巨大な軍政の嵐の中心へと乗り込むため、その鋭い牙を隠したまま、西の空へ向かって静かに、力強く歩みを進めていった。




