明治の帳 5
沼津兵学校での日々は、慶家にとって前世の記憶と現代の知識を擦り合わせる、極めて濃密な時間であった。
そしてその中で、隣の席に座る同期・古川宣誉という存在は、彼にとって非常に良き競争相手となっていた。
古川宣誉は、間違いなく賢き男であった。
何より慶家の目を引いたのは、宣誉の「絵の巧みさ」と、物事を平面的ではなく「立体的」に捉える空間把握の能力である。
図学や測量の授業において、宣誉が書き起こす陣地や砲台の図面は、ただ精密なだけではなく、実際の地形の高低差や死角までもが完璧に計算されていた。
その宣誉の横顔を見ながら、慶家は彼の奥底に眠る途方もない『縄張りの才』を見出していた。
(……素晴らしい才覚だ。築城と破却の理を、本能で理解しておる)
天下普請を指揮し、江戸城や名古屋城など数々の名城の縄張りを自ら検分してきた家康である。宣誉の図面を一目見ただけで、その異端な才能が手にとるように分かった。
もしこの男に城(要塞)の縄張りを託せば、彼は地の利を極限まで活かした難攻不落の城を築き上げるだろう。そして同時に、「この城を最も容易く落とすにはどう攻めるべきか」という破却の算段を、誰よりも冷酷に計算し尽くすに違いない。
近代戦における工兵・測量の将として、これほど頼もしい手駒はない。慶家は内心で、いずれこの男を自らの幕僚として引き抜くことを固く決意していた。
―――
逆に、宣誉にとって滝脇慶家という男は、多感な時分ということもあり、「絶対に負けたくはない」と強烈に意識させられる存在であった。
入学当初こそ「飛び級の賢い奴」程度の認識であったが、慶家の猛烈な追い上げと知識の吸収速度は、瞬く間に他の生徒たちをごぼう抜きにしていく凄まじいものであった。
宣誉を最も戦慄させたのは、慶家のその異様とも言える「日常」である。
のべつまくなしに、一に勉学、二に勉学、三に勉学。
息をするように書物を読み、数式を解き、異国の言葉を紙に書き殴る。かといって書物ばかりの青白き書生かと思えば全く違う。
早朝から夕暮れまで、重い銃を担いでの教練や駆け足など、身体造りを一切怠らない。泥にまみれて汗を流した後、再び机に向かって夜遅くまで勉学、勉学である。
(滝脇の奴……天才だと思っていたが、違う。あれは途轍もない執念の塊だ)
宣誉は、夜の自習室でランプの灯りを頼りに洋書を睨みつける慶家の背中を見て、ふと畏怖を覚えることがあった。
途方もない努力家が、たまたま天賦の才を持っている。あるいは、何か巨大な目的に取り憑かれた狂鬼なのではないか。そう錯覚するほどの気迫が、十三歳の少年から絶えず立ち昇っていたのだ。
特に、宣誉を含めた生徒たちのみならず、兵学校の師範たちをも舌を巻かせたのが、慶家の『野戦』における知見であった。
「滝脇。この起伏のある地形で一個中隊を展開させる場合、教本通りならば前方に散兵線を敷くが、お前ならどう動かす?」
演習場において師範から問われた際、慶家は迷うことなく、教本とは全く異なる流動的な兵の動かし方を黒板に図示した。
「私ならば、中隊を三つに割ります。一隊は散兵として正面から派手に撃ち合い、敵の目を引きつけます。その隙に、残る二隊をこの窪地と森の稜線に沿って這うように迂回させます。
敵が正面の散兵に気を取られ、前進して陣形が伸び切った瞬間に、側背面から十字火力を浴びせてすり潰します」
「な……っ、しかし、それでは正面の散兵隊が持たないぞ! 犠牲が大きすぎる!」
「持ちこたえさせます。これは『死に物狂いで耐えること』を前提とした囮です。戦において、無傷で勝とうなどという甘い考えは捨てるべきです。肉を切らせて、敵の骨を断つ。
教本通りの美しい横隊など、この泥濘と起伏のある日ノ本の野山では一瞬で瓦解します」
それは、机上の空論しか知らぬ素人の発想ではなかった。
数百、数千の兵が血肉を散らし、泥に塗れて殺し合う「戦場の摩擦と恐怖」を骨の髄まで知っている者だけが導き出せる、極めて実践的で血生臭い用兵術であった。
近代の兵器を用いながらも、その根本にあるのは戦国時代を生き抜いた大御所の生存戦略。これには、戊辰戦争を経験した教官たちでさえ反論できず、ただただ圧倒されるしかなかった。
―――
そして、慶家の「執念」は、語学の習得においても遺憾なく発揮されていた。
沼津兵学校では、英語やフランス語などの西洋語学が必須であったが、慶家はこれらの言語に対しても極めて貪欲に食らいついていった。
驚くべきことに、彼は『フランス歩兵操典』の分厚い原本を、入学から一年も経たずに自力で読み漁るまでに至っていたのである。
この異常なまでの語学の習得速度は、かつて父・清孝から受けていた教育が大きな土台となっていた。
尊王思想に傾倒しつつも蘭学に触れていた清孝は、静岡学問所時代に市之進(慶家)に対してオランダ語の基礎を叩き込んでいたのだ。
アルファベットという見慣れぬ記号と、横文字の羅列。
最初は戸惑った家康であったが、持ち前の明晰な頭脳でオランダ語の法則を理解すると、次にフランス語の教本を開いた際に、ある合理的な「結論」に辿り着いた。
(なんだ。文字の形も同じならば、言葉の並び(文法)も似通っておるではないか)
現代の言語学者からすれば「ゲルマン語派とロマンス語派の違いがある」と指摘されるところだが、日本語という全く異なる体系しか知らなかった江戸時代の家康から見れば、その程度の差異など微々たるものであった。
(文法や発音に若干の差異はあれど、基本的な部分では同じである。つまり、ヨーロッパの言葉など、所詮は地続きの『一つの地方言語(方言)』のようなものに過ぎぬ!)
「三河弁も尾張弁も、薩摩の訛りも、根本は同じ日ノ本の言葉である」という極めて乱暴だが実用的な解釈により、慶家はオランダ語の知識を足場にして、フランス語の単語と文法を強引に、しかし正確に脳内へと接続していったのである。
「おい、滝脇。お前、もうその仏蘭西語の兵学書を読み終えたのか? 俺なんかまだ辞書を引くのに四苦八苦しているというのに……」
休み時間、呆れ顔で話しかけてくる宣誉に対し、慶家はページをめくる手を止めずに仏頂面のまま答えた。
「言葉など、所詮は情報を伝達するための道具に過ぎん。道具の使い方にいちいち感心している暇があったら、その中に書かれている『兵站の計算式』を一つでも多く頭に叩き込むことだ、古川」
「……相変わらず、可愛げのない奴だぜ」
宣誉は肩をすくめながらも、負けじと自分の机に戻り、洋算の教科書を開いた。
一に勉学、二に勉学。
互いに負けじと火花を散らす若き俊英たち。彼らがこの沼津の地で吸収した最先端の軍学と、慶家(家康)の持つ前世の恐るべき実戦経験が完全に融合した時、明治の新政府軍を根底から揺るがす「怪物」が誕生することは、もはや誰の目にも明らかであった。
沼津兵学校の図書室には、旧幕府が莫大な資金を投じて欧州から買い集めた、あるいは翻訳させた兵学書の山が築かれていた。
その中に、慶家がとりわけ興味を惹かれ、幾度も読み返した一冊の書物があった。
スイス出身の軍人にして軍学者、アントニ・アンリ・ジョミニが著した『戦争術概論』である。
後の世において、プロイセンのクラウゼヴィッツが著した『戦争論』と双璧を成し、近代軍事学の基礎を築いたとされる名著。
クラウゼヴィッツが「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」と哲学的に定義したのに対し、ジョミニは「戦争とは科学であり、誰がやっても勝てる普遍的な原則が存在する」と定義した。
ジョミニはその著書の中で、戦争という巨大な混沌を、見事なまでに幾何学的かつ論理的な形へと分類してみせた。
* 軍事政策(戦争の目的と国家の関与)
* 戦略(戦場に至るまでの軍の運用)
* 大戦術(主戦場における軍の機動)
* 軍隊の結集(兵站、ロジスティクス、部隊の移動)
* 小戦術(実際の戦闘における各部隊の戦闘法)
そして、これらを貫く『一つの根本原則』として、「自軍の主力を、敵の弱点(決定点)に集中させること」を挙げた。その手段として、敵の部隊を分断して各個撃破する『内線作戦』と、敵を外側から包囲して殲滅する『外線作戦』の優劣を、精緻な幾何学図形を用いて論理的に証明してみせたのである。
(……見事だ。実に見事な論理の構築である)
慶家は、各国の歩兵操典とジョミニの理論を照らし合わせながら、内心で深く感嘆していた。
戦国時代、武田信玄や上杉謙信といった天才たちが「勘」と「経験」によって行っていた軍の機動や陣形(鶴翼や魚鱗)の真理を、西洋の人間は万人が理解できる『科学』として体系化してしまったのだ。
これならば、天才でなくとも、一定の教育を受けた凡人(将校)の集団によって、極めて強固で合理的な軍隊を運用できる。西洋の軍隊が強いわけである。
しかし——。
幾度も読み解き、その理論の底の底まで咀嚼し尽くした時、大御所・徳川家康の魂は、この完璧に見える西洋の「科学」に、ある致命的な『歪み』を見出していた。
―――
ある日の午後。
兵学校の教室にて、師範(教官)と生徒たちが集まり、一つの書物について議論を交わす『会読』の時間が設けられていた。
議題は、まさにジョミニの『戦争術概論』であった。
「ジョミニの説く『内線作戦』こそ、兵力に劣る軍が勝つための唯一の真理である。敵が分進合撃を図る前に、その中央に陣取り、右を叩き、すぐさま返して左を叩く。なんと合理的で美しい戦理か!」
師範の一人が、黒板に白墨で図を描きながら熱弁を振るう。古川宣誉をはじめとする生徒たちも、欧米の先進的で科学的な戦術論に目を輝かせ、盛んに頷いていた。
刀や槍の個人的な武勇ではなく、数式と幾何学で勝利を計算できる。それは、新しい時代の軍人を目指す若者たちにとって、魔法のような真理に思えたのだ。
しかし、白熱する議論の中、ただ一人。
慶家だけが、腕を組み、いつもの仏頂面で黙然と前を見据えていた。
「どうした滝脇。お前もこのジョミニの理論の完璧さには、流石に言葉もないか?」
師範が、最も優秀な生徒である慶家に向かって、少し得意げに問いかけた。
慶家はゆっくりと腕を解き、静かに立ち上がった。
そして、教室中の視線が集まる中、透徹した、どこか冷ややかでさえある声で言い放った。
「西洋の術は、見事な戦場での戦い方を重視する傾向があるものの、其れ等全てに共通する『欠陥』が明確に存在します」
教室の空気が、一瞬にして凍りついた。
日本よりも遥かに科学技術が発展し、圧倒的な武力で世界を席巻している欧米列強。その軍事理論の最高峰に対して、十三歳の少年が「明確な欠陥がある」と断言したのだ。
「け、欠陥だと……? 滝脇、貴様、この完璧な幾何学的戦理のどこに欠陥があると言うのだ!」
師範が色をなして問い詰める。隣の席の古川も、信じられないものを見るような目で慶家を見上げた。
慶家は、少しも動じることなく、黒板に描かれたジョミニの戦術図を指差した。
「即ち、『戦わざる勝利』の欠如です」
「戦わざる……勝利?」
誰かの口から、間の抜けたような声が漏れた。
「はい」
慶家は、かつて日本全土を盤面として見下ろしていた天下人の瞳で、黒板の図形を——いや、西洋の軍事思想そのものを一刀両断に切り捨てた。
「ジョミニの理論は、極めて論理的で科学的です。決定的地点に兵力を集中させ、敵の主力を粉砕する。……ですが、それは『必ず戦場で血を流してぶつかり合うこと』を大前提としています」
慶家は、教室を見渡した。
「敵の主力を殲滅すれば、確かに勝てるでしょう。しかし、自軍も無傷では済みません。
莫大な火薬を消費し、多くの兵が死傷し、国庫は空になる。
西洋の戦術は『いかに上手く敵を殺すか』の科学には秀でていますが、『いかに血を流さずに敵を屈服させるか』という、国家運営における最上位の戦略がすっぽりと抜け落ちているのです」
「な、ならばどうしろと言うのだ! 戦争とは、軍をぶつけて勝敗を決するものであろう!」
「古来、我が国に伝わる孫子の兵法にはこうあります。『百戦百勝は善の善なる者に非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり』と」
慶家の脳裏に浮かぶのは、わずか数年前の出来事——すなわち、「江戸城無血開城」であった。
「戦術で敵を破る前に、外交という政策で敵の同盟を切り崩す。
兵站を絶ち、戦う前に敵を飢えさせる。あるいは、巨大な武力を示威行動として見せつけ、相手の戦意そのものをへし折る。
……ジョミニの言う『軍事政策』や『戦略』とは、いかに有利な戦場を作るかの準備に過ぎませんが、真の戦略とは『戦場そのものを起こさせない』ための盤面作りであるはずです」
慶家は、師範の目を見据え、一字一句に途方もない重みを持たせて言い切った。
「戦場で勝つのは、将軍の仕事です。ですが、我々がこれから創り上げる軍隊は、異国から日ノ本を守るためのもの。
ならば我々は、将軍の視座に留まらず、国家を背負う為政者の視座を持たねばなりません。
血を流して勝つ手段しか持たぬ軍隊は、いずれ必ず、国そのものを自滅させます。
それこそが、西洋の科学が抱える最大の盲点なのです」
絶対的な静寂が、教室を支配した。
誰も、言葉を発することができなかった。
師範たちは目を丸くし、半ば口を開けたまま硬直している。
彼らは、洋書を読み、西洋の戦術を暗記し、それを最新の学問として無邪気に信奉していた。だが、目の前の少年は、その西洋の最先端の学問を「国家の生存」という遥か高みから俯瞰し、その傲慢な力押し(武力偏重)の危うさを完璧に看破してみせたのだ。
(……この男は、一体何を見ているんだ?)
隣の席の古川宣誉は、背筋を這い上がるような強烈な悪寒と、身震いするほどの感嘆を同時に味わっていた。
自分たちは、戦争における『優れた駒の動かし方』を学ぼうとしている。
しかし、滝脇慶家という男だけは違う。
彼は、戦争という手段を用いて『国家をどう存続させるか』という、恐るべき帝王の学問をこの沼津の地で一人構築しようとしているのだ。
「……滝脇、お前という奴は……」
師範の一人が、ようやく絞り出すように呟いた声は、叱責ではなく、ただ純粋な畏怖に震えていた。
明治の新しい学び舎において、かつての天下人が欧米の軍事思想に突きつけた「異議」。
それは、西洋の模倣に過ぎなかった日本の軍事学が、初めて独自の「大戦略」の萌芽を見た、歴史的な瞬間であった。




