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葵三つ葉  作者: 丸亀導師
明治の帳
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11/21

明治の帳 3

慶喜から「慶家」という名と、新たな目標を与えられた市之進——いや、滝脇慶家は、すぐさま行動を起こした。


新政府が創設するという「兵学校」の実態を詳しく知るため、父・清孝や静岡学問所の師範たちを捕まえては、徹底的に情報を引き出したのである。


結果として、二つの大きな道筋が見えてきた。


一つは、ここ駿河のすぐ東、同じく旧幕臣たちが中心となって創設したばかりの「沼津兵学校」である。西洋式の近代的な軍事教育を行う、国内最高峰の学び舎の一つだ。


そしてもう一つは、新政府が主導して西の都・大阪にこの十一月に設立するという「陸軍幼年学校」。こちらは、幼少期から純粋な新政府の将校を育成するための、言わば国家直轄の軍事機関であった。


(沼津で基礎と洋学を叩き込み、その後に中央の幼年学校、あるいは士官学校へと乗り込むのが筋骨だろうな)


道筋が定まった慶家は、その日から憑かれたように猛烈な勉学と教練に励み始めた。


語学、算術、測量術といった近代兵学の基礎をスポンジのように吸収し、同時に、成長期に入った自らの肉体を徹底的に鍛え上げる。かつて三河の野山を駆け回った泥臭い基礎体力作りを、洋式の体操(教練)と組み合わせて実践したのだ。


しかし。


その知識を深め、新政府の軍制の全容を俯瞰できるようになった時、慶家の中にある「強烈な違和感」が首をもたげた。


(……馬鹿な。どうして同じ国軍であるにも関わらず、『陸軍』と『海軍』で別々に幼年学校から教育を分けるのだ?)


近代軍備に関する書物を読み解くうちに判明した、新政府軍の組織形態。


彼らは、陸を征く「陸軍」と、海を征く「海軍」とで、採用の入り口から教育機関、果ては指揮系統に至るまで、完全に別々の組織として創り上げようとしていた。


前世において、天下という巨大な軍事機構を統べた大御所・徳川家康の目から見れば、それは「狂気の沙汰」としか思えなかった。


(日ノ本は、海に囲まれた島国ぞ。海からの補給線を絶たれれば陸軍はただの飢えた獣の群れとなり、逆に陸軍が港を確保できねば、海軍は帰る場所を失う。

陸と海は、手足のように一体となって動かねば全く意味を成さぬというのに!)


戦国時代でさえ、毛利の水軍や九鬼の鉄甲船は、陸の部隊と緊密に連携して初めてその威力を発揮したのだ。


それなのに、幼少期という最も思想が固まる時期から陸と海で兵を隔絶し、別々の誇りと戦術を刷り込めばどうなるか。


(これでは、まるで『対立』を煽っているようにしか見えぬではないか)


慶家は、分厚い組織図の写しを睨みつけながら、ギリリと奥歯を噛み締めた。


その答えは、彼がこれまでに集めた情報の中に、嫌というほど明確に示されていた。


陸軍の中心に座座しているのは「長州閥」。

海軍の主導権を握ろうとしているのは「薩摩閥」。


(……そういう事か。あの連中、倒幕という目的を果たした途端に、今度は新政府という小さな身内で『藩の縄張り争い』を始めおったのだ!)


異国の脅威に対抗するために、強固に統一された近代国家を創らねばならない時期に。


あろうことか新政府の首魁たちは、己の出身藩の権力を拡大し、相手を牽制するために、国家の軍隊を「陸」と「海」に分割して私物化しようとしている。


このまま陸海軍のセクショナリズムが固定化されれば、いずれ彼らは仮想敵国よりも、身内を出し抜くことばかりに心血を注ぐようになるだろう。


(ええい、どいつもこいつも! 己が築いた二百六十年の泰平に胡座をかいていた幕臣も大概だが、新政府の連中も輪をかけて近視眼的ではないか!)


慶家は、怒りのあまり手元の紙を握り潰した。

大局を見失い、派閥争いによって国力が内側から食い破られていく。


この歪な軍制こそが、いずれ日ノ本という国を、取り返しのつかない破滅——無謀な戦争と自滅の泥沼——へと引きずり込む最大の「病巣」になる。


天下を経営した家康の直感は、未来の太平洋戦争へと続く最悪のシナリオを、この時点で鋭く嗅ぎ取っていた。


(……この国軍の形は、根本から間違っている)


慶家は、荒くなった呼吸を静かに整え、夜の暗闇の中で己の小さな両手を見つめた。


軍に入るだけでは駄目だ。優秀な将校になるだけでも足りない。


この病を治療するためには、自分が陸軍という組織の「絶対的な頂点」に上り詰め、海軍との連携を強制できるだけの強大な権力を、その手で握り潰すように掌握せねばならないのだ。


「……面白い。ならば、その泥沼の権力闘争、このわしが真っ向から受けて立ってやろうではないか」


十三歳の少年の顔に浮かんだのは、怒りではなく、底知れぬ凄みを持った『狸爺』の冷笑であった。


長州だの、薩摩だのといった小童こわっぱどもの縄張り争いなど、天下の簒奪を成し遂げた大御所に言わせれば児戯に等しい。


滝脇慶家は、その歪な形をした「明治の軍隊」という巨大な魔物を内側から喰い破るため、沼津の地から、いよいよその老獪極まる牙を研ぎ澄まし始めた。


薩長閥が牛耳る新政府軍の内部へ潜り込み、その歪な組織を内側から掌握して陸海軍の対立を叩き潰す。


十三歳の少年の胸に秘められた、大御所・徳川家康としての壮大かつ冷酷な野望。


―――


だが、いざ沼津兵学校、ひいては幼年学校への入校を目指して動き出そうとした矢先、慶家(市之進)の前に思わぬ「最大の壁」が立ちはだかった。


それは、旧幕臣の出であるという政治的な出自の壁でもなければ、薩長の嫌がらせでもない。


数えで十一歳になる妹の、松である。


「……あにさま。また、むずかしい顔をしてご本ばかり読んでいます」


日が傾きかけた縁側で、兵学書を読み耽っていた慶家の袖を、小さな手がきゅっと引っ張った。


見下ろせば、少し背が伸び、顔立ちも少女らしくなってきた妹が、頬をぷうと膨らませてこちらを睨んでいる。


慶喜から「慶家」という立派な名を授かってはいたが、松にとって彼はいつまでも、優しくて頼りになる「市之進あにさま」であった。


自我がはっきりと芽生え始めた松は、最近では時折、小生意気な口を利いたり、我儘を言ったりするようになっていた。とはいえ、決して愚鈍なわけではない。


兄のような「神童」とまではいかないものの、父・清孝から与えられた手習いや書物を懸命に読み解き、しっかりと勉学に励んでいる。その生真面目さは、間違いなく滝脇の血——ひいては三河武士の血筋ゆえだろう。


だからこそ、松は勘付いていた。

大好きな兄が、ここ最近、遠く離れた別の場所へ行こうと準備をしていることに。


「……沼津というところへ、行ってしまわれるのですよね。そのあとは、大坂? いつお帰りになるのですか?」


「軍の学校に入れば、全寮制だ。盆や正月には帰れるだろうが……今までのように毎日顔を合わせることはできなくなるな」


慶家が努めて冷静に、突き放すように言うと、松の大きな瞳にじわりと涙が滲んだ。


「……いやです」


「松、これはお国のため、そして我が滝脇の家のためだ。聞き分けなさい」


「いやです! あにさまがいなくなったら、誰が私に算術を教えてくれるのですか! 誰が、父上の長話から助けてくれるのですか!」


松はぽろぽろと涙をこぼしながら、慶家の腕にすがりつき、顔を押し付けてわあわあと泣き始めた。


(……ええい、これだから子供という奴は!)


内心で舌打ちをしつつも、慶家の身体は、すがりついてくる妹を振り払うことがどうしてもできなかった。

それどころか、あろうことか彼の厳格な顔の筋肉が、だらしなく緩みそうになるのを必死に堪えている始末である。


慶家——徳川家康の、最大の「弱点」がそこにあった。


前世において、家康は最初の嫡男である信康や、長女の亀姫、そして初孫たちに対しては、戦国という苛烈な時代背景もあって非常に厳しく接していた。政治の道具として非情な扱いをしたことも一度や二度ではない。


しかし、天下が定まり、晩年になってから生まれた末の息子たち(義直、頼宣、頼房)や、その下の孫たちに対しては、周囲が呆れるほどに甘やかし、溺愛し、目の中に入れても痛くないほどに可愛がったのだ。


老境に入った人間の常と言えばそれまでだが、家康には「末っ子や小さな孫にはめっぽう甘い」という、どうしようもないお爺ちゃん気質が魂の根底に刻み込まれていたのである。


(駄目だ……この小さな頭を撫でてやりたくて仕方がない。泣き顔を見ていると、胸が締め付けられるように痛いではないか!)


天下の権力闘争や薩長閥の解体などという血生臭い野望が、松の涙の前にガラガラと崩れ去っていく。


十三歳の少年の皮を被った老練なタヌキ親父は、必死に「武士としての威厳」を保とうと身を固くしていたが、やがて小さく、観念したようなため息を吐いた。


「……泣くな、松。ほれ」


慶家は、懐から大切に包んでいた小さな紙包みを取り出し、松の手に握らせた。

中に入っているのは、静岡の市中で売られていた金平糖こんぺいとうである。なけなしの小遣いをはたいて、こっそりと買っておいたものだ。


「こ、こんぺいとう……」


「大声で泣くと、せっかくの可愛らしい顔が台無しだぞ。沼津に行っても、お前のために必ずお土産を買って帰ってきてやる。新しい洋式の算術書もな。だから、留守の間は母上と父上を頼むぞ」


慶家は、結局我慢しきれずに、松の柔らかな髪を大きな手つきで優しく、何度も撫でた。

その手つきは、十三歳の少年のものというよりも、孫を慈しむ好々爺のそれであった。


「……ほんとうに? お土産、買ってきてくれますか?」


「ああ。武士に二言はない。いや、あにさまが必ず約束する」


松は涙で濡れた顔を上げ、金平糖を一粒口に放り込むと、ようやくふにゃりと嬉しそうな笑みを浮かべた。


(……やれやれ。大の男が、童一人に振り回されるとはな)


甘える妹の背中をポンポンと叩きながら、慶家は苦笑した。


しかし、この温かな日常、家族の笑顔こそが、かつて自分が血みどろになってまで守りたかった「泰平」の正体であったはずだ。


(この子らが生きる日ノ本を、薩長のお山の大将どもの私物にはさせん。そして、異国の連中の靴で踏み荒らさせもせん)


泣き虫で我がままな、愛すべき「孫」のような妹。


彼女の未来を守り抜くためならば、軍の派閥闘争という名の泥沼など、いくらでも泳ぎ切ってやろう。


金平糖をかじる妹の頭を撫でながら、滝脇慶家は再び、その瞳に静かな、しかし決して揺るがぬ決意の炎を灯したのである。


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