腰への慈悲(パッシブ・クッション)
水が美味くなった。
それだけで、午前中の作業効率は二十パーセント向上した。
身体の半分以上は水分でできている。
エンジニアにとって、良質な水分補給はもはや「メンテナンス」の一環だ。
しかし、午後になると。
別の「地獄」が俺の身体を侵食し始める。
「……ぐっ、腰が……割れる……」
前世、IT業界の荒波に揉まれていた頃。
俺は十五万円もする高級ワークチェアを愛用していた。
それは腰を優しく、かつ強固に包み込み、
十二時間の連続デスクワークすら「無」にする魔法の椅子だった。
翻って、現在の俺の座席。
ただの四角い木箱に、申し訳程度の背もたれがついた「拷問器具」だ。
クッション性など、概念すら存在しない。
座面は石のように硬く、座り続けるほどに坐骨が悲鳴を上げる。
腰から背中にかけて、じわじわと鈍い痛みが広がっていく。
周りを見渡せば、カイルを含む同僚たちは皆、
猫背を通り越して「つ」の字のように曲がった姿勢で筆を動かしている。
異世界の魔導具師の寿命が短いのは、魔力枯渇のせいじゃない。
間違いなく、重度の腰痛と、それに伴う血流障害のせいだ。
(……なんとかしなきゃ、死ぬ。魔王に殺される前に、ギックリ腰で再起不能になる)
俺は手元の魔法陣——『魔導灯の安定化回路』を見つめた。
これを描き終えなければ、今日のノルマは終わらない。
だが、俺のエンジニア魂が囁く。
「……空の領域が、まだ四箇所あるな」
魔法陣には、魔力の暴走を防ぐための「遊び」の部分がある。
いわゆる、予備のメモリ領域のようなものだ。
俺はそこに、極小の『重力反発』と『衝撃吸収』のコードを書き加えた。
本来は高価な防護シールドに使われる魔法だ。
だが、出力を零・零一パーセントまで極限まで絞り、
効果範囲を「座面から数センチ」に限定すれば、
俺の微々たる魔力でも十分に維持できる。
「よし……『パッシブ・クッション・パッチ』、適用」
俺は、描き終えたばかりの魔法陣——まだインクすら乾いていないそれを、
こっそりと自分の椅子の座面に貼り付けた。
そして、恐る恐る腰を下ろす。
「…………っ!!」
衝撃が走った。
硬い木の感触が消え、お尻がふわっと浮き上がるような感覚。
まるで、高級な低反発素材と空気の層に優しく支えられているようだ。
「ああ……これだ。これだよ……」
脊椎が、本来あるべきS字カーブを取り戻していく。
腰にかかっていた数トンの重圧(体感)が、
魔法の斥力によって霧散していく。
たった数センチの浮遊感。
だが、それが俺にとっては、天国への階段に等しかった。
「おい、佐藤。なんだか妙にニヤついてるな。手が止まってるぞ」
親方の熊男が通りかかる。
俺は反射的に背筋を伸ばし、
「いえ、腰の調子が良くて、集中力が上がっただけです!」
と、最高に爽やかな社畜スマイルで答えた。
「ふん、新人のくせに生意気な。……だが、確かに描くスピードが上がってるな。
終わったらさっさと帰れ。残業代は出さんからな」
「はい! 喜んで定時で上がらせていただきます!」
親方が去った後。
隣のカイルが顔を上げた。
彼の顔は、腰の痛みと疲労で土気色になっている。
「佐藤……お前、さっきから腰を浮かせてるのか? なんだか楽そうだな……」
俺は黙って、もう一枚の「パッチ」を描き、机の下で彼に手渡した。
「カイルさん。これ、椅子の座面に貼ってみてください。……『おまじない』です」
カイルは半信半疑でそれを受け取り、座面に敷いた。
数秒後。
彼の目から、ポロリと一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……腰が。僕の腰が……許された気がする……」
「ですよね。足るを知る、ですよ、カイルさん。
まずは自分の身体を労わらないと、良いコード(魔法陣)は書けません」
その日の定時。
俺は過去最高のコンディションで職場を後にした。
いつもなら這うようにして帰る道も、今日は足取りが軽い。
夕闇に包まれ始めた王都の路地裏。
俺は、昼間「浄化」しておいた美味い水を一口飲み、深く息を吐いた。
「水は清く、椅子は柔らかい。……これだけで、人生の幸福度の八割はカバーできるな」
残りの二割。
それは「美味いつまみ」と「酒」だ。
俺は、懐でチャリンと鳴る銅貨三枚の重みを確かめながら。
まだ見ぬ異世界の赤提灯を探して、軽やかに歩き出した。




