泥水のリファクタリング(浄化のロジック)
翌朝。
いや、窓がない地下工房では、それが「翌朝」なのかすら定かではない。
ただ、身体に染み付いた社畜のバイオリズムが、無理やり俺の意識を浮上させただけだ。
全身の節々が悲鳴を上げている。
石畳の床に薄い布を敷いて寝るという行為は、
前世のデスマーチでデスクの下に潜り込んで寝るよりも、数倍過酷だった。
「……腰が、死ぬ」
前世で愛用していた、座るだけで姿勢を正してくれる高級オフィスチェア。
あの吸い付くようなメッシュの感触が、今や遠い神話のようだ。
しかし、嘆いても始まらない。
俺は重い体を引きずり、再び地下工房のデスクへと向かった。
ノルマは一日100枚。
昨日、俺は「リファクタリング(回路整理)」の手法を使えば、
他の職人よりも遥かに速く魔法陣を描けることに気づいた。
だが、ここで全力を見せるのは悪手だ。
(前世の教訓その1。仕事ができると分かれば、無限にタスクを積まれるだけだ……)
「定時」という概念が存在しないこの世界で、有能さを見せるのは自殺行為に等しい。
俺は「そこそこ手際が悪い新人」を装いつつ、頭の中では別の計算を始めていた。
どうすれば、この「泥水」の生活を少しでもマシにできるか。
「おい、新人。手元が止まっているぞ。筆を遊ばせる暇があるなら描け!」
親方の熊男が通り過ぎざまに、俺の机を荒っぽく叩く。
俺は「すみません、この曲線が難しくて……」と適当に誤魔化しながら、
手元の魔法陣に「隠しコード」を忍ばせた。
魔導灯の魔法陣は、本来、光を出すためのものだ。
だが、その回路構成は、魔力を物理的な現象に変換するプロセスそのもの。
(……ロジックは単純だ。光の波長を調整する部分をわずかに分岐させ、
不純物を魔力排斥する微細なフィルター回路を組み込めば……)
プログラムで言えば、メイン処理の裏で動く「バックグラウンド・タスク」のようなものだ。
そして、昼休憩。
配給されるのは、昨日と同様、カビの生えかけた黒パン一つ。
俺は再び廊下の端にある、あの「泥水の樽」の前に立った。
周囲に誰もいないことを確認し、
俺は自作の「試作型・浄水デバイス」を取り出した。
といっても、そこらへんに落ちていた木片に、
今朝の作業中に考案した濾過回路を刻んだだけの代物だ。
それを、樽の中にそっと浸す。
指先から、ほんのわずかな魔力を流し込んだ。
ジジッ、と小さな火花のようなものが散り、
樽の中の水が一瞬だけ、透き通るような青白さに光った。
(……頼むぞ。コンパイル・エラーはなしだ)
柄杓で、その水を掬い上げる。
見た目は、さっきまでの濁った水と大差ないように見える。
だが、鼻をつくあのカビ臭い臭いが、完全に消えていた。
俺は覚悟を決め、恐る恐る口に含んだ。
「……っ!!」
喉を通り抜ける、圧倒的な清涼感。
ただの水だ。
前世の日本なら、公園の蛇口からだって出るような、何の変哲もない水。
だが、今の俺にとっては。
不純物が取り除かれ、スッと身体に染み渡るこの液体は、
最高級のシャンパンよりも、五臓六腑に響く「至高の一杯」だった。
「ふぅ……。生き返る……」
思わず、震える声が漏れた。
泥水が、飲める水になった。
それだけで、絶望に塗りつぶされていた世界に、わずかな色彩が戻った気がした。
午後の作業中。
隣で作業していた同僚の青年——カイルが、筆を止めて項垂れていた。
「……もう無理だ。目が霞む。魔力が……足りない……」
彼は真面目すぎるのだ。
渡された手本を忠実に再現しようとするあまり、回路の無駄が多すぎる。
描くたびに、必要以上の魔力をドブに捨てているようなものだ。
俺は、自分のノルマを少しだけ彼の方へ寄せた。
「カイルさん、これ。僕、少し多めに描いちゃったんで」
「えっ、でも……お前、新人だろ? そんな余裕……」
「コツを掴んだんです。それより、これ……飲んでみてください」
俺はこっそり、さっき「浄化」しておいた水を入れた水筒を差し出した。
カイルは不審そうに一口飲み、次の瞬間、椅子から転げ落ちんばかりに目を見開いた。
「な、なんだこれ……! 喉が……喉が痛くない。
ただの水なのに、すごく……透き通ってる……」
「『足るを知る』ですよ、カイルさん。
不味い水で無理をして精度を落とすより、
美味い水を一杯飲んでからの方が、魔法陣のノリも良くなるはずです」
カイルは、憑き物が落ちたような顔で、再び筆を握った。
彼の中に、わずかな活力が戻ったのが分かった。
その日の夜。
俺はノルマの100枚をぴったり終わらせ、親方のチェックをパスした。
報酬は、銅貨3枚。
パンを買えば消えるような、涙が出るほどの端金だ。
それでも。
俺は工房の屋上に登り、夜風に吹かれながら、
自作の「浄水木片」で清めた水を口にした。
夜空には、前世の都会では決して見られなかったほど、
暴力的なまでに明るい星々が輝いている。
(椅子は硬い。飯は不味い。仕事はブラック。……でも)
一口の、美味い水がある。
それだけで。
それだけで、明日もまた、この地獄のような魔法陣描写を、
「自分なりのゲーム」として続けていける気がした。
「よし。次は……椅子のクッションだな」
俺は夜空に向かって、小さく、だが確かな足取りで、
異世界での「自分だけの聖域」を作り上げる決意を固めた。




