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異世界ブラックギルドの窓際魔導具師 〜徹夜明けのポーションは、エナドリよりも五臓六腑に染み渡る〜  作者: よはく


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異世界ブラックギルドの夜明けは、泥の味がする

「——おい、起きろ。死んでる暇があったら魔法陣を一枚でも多く描け」


鼓膜に突き刺さる怒声。

それから、背中に感じる硬い石の床の感触。


俺、佐藤さとうは、重い瞼をゆっくりと持ち上げた。


視界に飛び込んできたのは、見慣れたオフィスの白い天井ではない。

黒ずんだ石造りの天井と、蜘蛛の巣が張った太い梁。


そして、部屋中に充満する、鼻をつく臭い。

焦げた魔石のすすと、長年積み重なった埃。

そこに、大勢の男たちが放つ、垢じみた汗の臭いが混ざり合っている。


「……ここは?」


体を起こそうとして、全身を走る激痛に呻いた。

筋肉痛なんてレベルじゃない。

骨の髄まできしむような倦怠感。

まるで、体内の全エネルギーを根こそぎ吸い取られたような感覚だ。


「ボサッとするな! 納期は明日なんだぞ!」


怒鳴り散らしているのは、熊のような体格をした男だ。

脂ぎった顔に、無造作に伸ばされた髭。

中世ヨーロッパの労働者が着るような、薄汚れた粗末な服を纏っている。


だが、その「目」だけは、俺の記憶に深く刻まれていた。


前世で俺を散々使い潰した、あのブラック企業の部長と同じ目だ。

部下の健康よりも、進捗グラフの数字にしか興味がない、追い詰められた人間のそれ。


(そうだ……俺は……)


記憶の断片が、急流のように繋がっていく。


深夜3時。

終わらないデバッグ。

終わらないテスト。

鳴り止まないサーバー落ちの警報アラート


空になったエナジードリンクの缶が、デスクの上に並んでいた。

心臓のあたりが急に熱くなって、視界が歪んで。

それから、ブラックアウトした。


(死んだのか。俺。……で、ここは異世界、か?)


ラノベでよくある展開だ。

過労死からの異世界転生。

ということは、俺にも何か最強のチート能力が授けられているのか。


世界を救う聖剣か。

万物を焼き尽くす魔法か。


俺は慌てて自分の体を確認した。

しかし、そこに映ったのは、ボロボロのチュニックを着た、ガリガリに痩せた青年の体だった。


頭の中にステータス画面が出るわけでもない。

不思議な力が溢れてくる感覚もない。


「チートは……なし、か……」


呆然と呟いた俺の頭上に、熊男——この工房の親方が、紙の束を叩きつけた。


「いいか、新人。お前は今日からここで、魔導灯マジックランタン用の魔法陣を描くんだ。

 一日100枚。できなきゃ飯抜きだ。分かったらさっさと座れ!」


叩きつけられた紙には、複雑怪奇な幾何学模様が描かれていた。

中心に魔石を置くための核があり、そこから無数の「線」が四方八方に伸びている。


本来なら、これを理解するだけでも数年はかかるだろう。

だが、俺の脳は、この模様を別のものとして認識していた。


前世で、気が遠くなるほど複雑なスパゲッティ・プログラムと格闘してきた経験。

それが、異世界の技術と奇妙にリンクする。


(……待てよ。この魔法陣の構造……)


不思議なことに、その複雑な模様が、俺の目には「論理回路」のように見えた。


ここが始点で。

ここに魔力を流すと、この条件分岐を通って。

ここで演算が行われて、最後に「発光」という現象が出力アウトプットされる。


「……汚いコード(魔法陣)だな」


職業病だろうか。

絶望的な状況だというのに、俺の手は自然と、そばにあったスタイラスを握っていた。


「ほう、やる気になったか。ならさっさと描け! 無駄口を叩く時間はねえぞ!」


親方が去っていく。

俺は深いため息をつき、ひび割れた木の机に向かった。


——それから、どれほどの時間が経っただろうか。


窓のない地下の工房では、時間の感覚が狂う。

唯一の明かりは、壁に掛けられた質の悪い魔導灯だけだ。


周りの職人たちは、ゾンビのような顔で、必死に筆を動かしている。

彼らは魔法陣を「呪文」として丸暗記して描いているようだった。

だから、一筆でも間違えれば最初からやり直し。

極度の緊張とプレッシャーで、彼らの神経は摩耗しきっている。


だが、俺は「構造」として理解していた。


余計な線を削ぎ落とす。

最短ルートで魔力が流れるように、回路を修正する。


前世のSE時代に培った「リファクタリング」の技術。

それが、異世界の魔法陣描写で、奇跡的に噛み合っていた。


カリカリ、カリカリ。


俺の筆は、淀みなく進む。

周りが1枚描く間に、俺は3枚を描き上げていた。


これなら、100枚のノルマもなんとかなりそうだ。

ひとまずの「生存」は確保できる。


だが、問題はそこじゃなかった。


(喉が……渇いた……)


極限の集中は、体内の水分を奪う。

SE時代、俺はどれほど忙しくても、水分補給だけは欠かさなかった。

水分が不足すれば脳の処理速度が落ちる。

それはエンジニアにとって、死を意味するからだ。


俺は筆を置き、おずおずと近くの先輩職人に声をかけた。


「あの、すみません。水はどこに……?」


先輩は、目の下に濃いクマを作った顔を上げ、憐れむような目で俺を見た。


「……新人は、廊下の端にある樽の水だ。まあ、期待はするなよ」


期待?

水に期待も何もないだろう。


俺はふらつく足で廊下に出た。

そこにあったのは、苔が生えかけた、いつから置かれているのかも分からない古びた木樽だった。


蓋を開けると、中には濁った、鉄錆のような臭いがする水が入っていた。


「……嘘だろ」


これを飲めというのか。


前世では、ボタン一つで美味しい天然水や、冷えた炭酸飲料が飲めた。

今の俺が求めているのは、そんな贅沢じゃない。

ただの、清潔な水だ。


(足るを、知る……か)


前世の俺は、恵まれすぎていた。

蛇口を捻れば水が出る。

そんな当たり前のことが、この世界では「特権」ですらない。


この濁った水が、今の俺の全財産。

これがなければ、俺は明日を待たずに干からびて死ぬ。


俺は覚悟を決め、木製の柄杓で水を掬い、口に運んだ。


「……っ!」


不味い。

泥の味。

鼻に抜けるカビの臭い。


喉を通り過ぎる時、ザラリとした砂の感触が舌に残った。

胃に落ちた液体が、不協和音を奏でるように重くのしかかる。


それでも。

俺の体はその水分を求めていた。

胃に落ちた泥水が、辛うじて俺の命を繋ぎ止める。


(……生きなきゃ。ここで、生きていかなきゃならない)


勇者になって魔王を倒す?

聖女に囲まれてハーレムを作る?


そんな夢のような話、今の俺にはどうでもいい。


今の俺の目標は。

このクソみたいな職場で、ノルマをこなし、生き延びること。

そしていつか——この泥水じゃなく、普通の水を飲めるようになることだ。


俺は口元を拭い、再び地下の工房へと戻った。

死んだような顔で筆を動かす職人たちの中に交じり、俺もまた、一本の筆となった。


異世界転生。


それは、きらびやかな冒険の始まりではない。

泥水を飲んで、明日のために筆を動かす。

新しい「社畜生活」の始まりだった。

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