セレネ
「セレネは九年前に、穢れが原因で命を落とした」
亜里沙は黙って頷く。
穢れに強いはずのアストラムであったセレネが、穢れを受ける程の何かをしたせいでイドルになりかけ、そしてそれを浄化したのがキーランだ。
「そしてそれは、あの女……聖王が、母の一部を奪ったせいで母がひどく苦しんだあの時に、起こった事だった」
「え……?」
「我は、あの女から話を聞いて、そしてキーランの感知能力が高いと気付いて、今、ようやくセレネがした事の真の理由が分かったのだ」
「セレネさんは、何をしたの?」
ニーズの瞳が悲しみに染まった。
「……母の苦しみが突然落ち着いた、そのすぐ後。我はカンドルヴィアの神木に、強い穢れに似た気配があるのを感じて様子を見に行った」
「穢れ……イドルになりかけたセレネさん?」
「いや、穢れに似た気配は、神木から出ていたものだ。セレネがイドルになりかけた時は……我は母の苦しみの方に集中していたから、気付けなかった」
目を伏せると白く長いまつ毛が頬に影を作る。
ニーズの重い息が吐き出される。
「我が感じたのは、神木となった四人の弟妹の魂が、無惨にも引き裂かれた痕跡だった。そしてそんな事が出来るのは」
亜里沙は目を見開いた。悪寒で背筋が震える。
だからセレネは穢れたのか。
「この時は、セレネが穢れで死んだ事を知り、魂を引き裂いたのがセレネだという事が分かっただけで、何故そうしたのかが分からなかった。ただ、心当たりはあった」
一息置いて、ニーズは小さく言った。
「セレネは、アストラムや……母を心の底から憎んでいたのだ」
「え……どうして?」
「初めからそうだったのではない。だがセレネはあの男……カンドルヴィアの王と出会って、そしてキーランを産んでから変わってしまったように思う。我は何度か、セレネの声を拾っている」
「声? まさか、祈りの?」
ああ、とニーズが静かに頷く。
「それはいずれも、アストラムを生み出した母を、イーリスを呪う声だった。祈られた事は」
──イーリスを、殺して欲しい。
ニーズが言葉に迷って口を閉ざしても、亜里沙にはそれが伝わった。
「そんな事が実現する訳がない。たとえ我がまだ何も欠けていない完全体でも、我を生み出した存在を殺す程の力はない。招き入れられれば、一部を削る事くらいは出来たかも知れないが……あの女がやったように」
「不死じゃないニーズなら、そこで消えてしまうかも知れない……」
そうだ、とニーズ。
「……我は、セレネのそんな想いを信じたくはなかった。それに、その後母が連れて来たあの人間の事もあったから、そのまま……それ以上を知ろうとしないまま、目を背けた」
「それが、キーランと関係していたってこと?」
ニーズは小さく頷く。
「今思えば、あれ程までに感知能力が高いのだ。自分の一部を奪われた苦しみは尋常ではないだろう。それ程の苦しみなら、もしかしたらキーランも、その時ばかりは直接母の声を聞いたかも知れない」
亜里沙は記憶で感じた、あの世界ごと割れてしまいそうな声を思い出した。記憶ででも身の危険を感じた。
もしあんなものを直接聞いていたら、いつかニーズが言っていたように、死んでしまってもおかしくないのではないか。
「でも、キーランは、無事だった……」
「それは恐らく、セレネが神木から引き抜いた魂でキーランを補ったからだ」
「おぎなっ……た……?」
それは、拒絶を覚えるくらいに恐ろしい響きだ。
震えを抑えるためにぐっと拳を握り締める。
「キーランは幼い頃とても脆かった。だからだろう、セレネがアストラムや母を恨んでしまったのは。だが神木の魂を引き裂いた事は怒りではなく守るためだったと考えれば、その後キーランが強くなったのも頷ける。だが……感知能力を覆い隠すまでは、出来なかったようだ」
「その能力は、消したり弱めたりは出来ないってこと?」
「力が消える時は、どんな者でも皆同じだ。上手く扱えない事はあっても消えはしない。我のように魂だけとなって存在しない限り……それが消えるのは、死ぬ時だ」
死ぬ、と思わず口の中で繰り返す。
「力を保有する肉体が死ぬ時、力を保有する魂が削られる時、そういった時に、やっと弱まるか消える。だがキーランを、そうした状態にさせる訳にはいかない」
「……感知能力は、神木の魂のせいで強くなったんじゃなくて、元々持ってたものだよね? でも、今後その魂のせいでもっと苦しくなったりはしない?」
「確かに、そのせいで力が強まる可能性もあるが……だが、一度体に入った魂を取り出すのは……我でも難しい。ほぼ不可能だ」
亜里沙を見て、そして落ち込む。
「こうして、自分自身でさえお前の中から出て行けないというのに」
亜里沙は何と言葉をかければいいか分からなかった。ややあって、ニーズは「それに」と呟いた。
「今神木の魂を取り出せたとして、キーランがより危険になる可能性の方が高いだろう」
「そっか……」
亜里沙は座り直した両膝を抱えて顔を埋めた。
そんな状態のキーランを、置いて行かなければならない。
翔が言った、背負えないなら降ろすしかないという言葉が幾度となく頭を巡る。
それは半端な気持ちで口にした言葉ではなかった。
翔も帰る意思を固めたのだ。亜里沙と帰りたいと思ってくれたのだ。
「私は……それでも、やっぱり帰らなきゃ……」
口にしてみた言葉は刃のように心を抉った。
亜里沙の痛みを感じたのか、ニーズが近くに寄る気配がした。そしてニーズは、膝を抱える亜里沙をそっと包み込んだ。
「お前は帰るべきだ。我が必ずカケルと帰れるようにしてみせる」
亜里沙は違和感を覚えて、埋めた顔を上げた。
すぐ近くに、キーランと似た、だが瞳孔だけが違う瞳が亜里沙を見つめている。
「ニーズ……どうする気?」
「どうもしない」
訝しげな亜里沙を安心させるように、ニーズは微笑んだ。
「トランティアの穢れが落ち着き、少しずつ回復しているのを感じる。まだ入り口を開ける程ではないが、それが叶った後は、多少無理をしてでも必ず連れて帰ってやる……そして、カケルの命を、少しでも長く繋げるようにしてみせる」
「それ……ニーズは大丈夫なの……?」
亜里沙はとても複雑な気持ちで、ぎこちなく問いかける。
ニーズは、ああ、と頷いた。
「我はドラゴンだぞ。そう簡単に消えはしない」
大丈夫だ、と言って、ニーズはもう一度亜里沙を包むと亜里沙がしたように背中をさする。
亜里沙は何だかくすぐったくて身を捩った。
ニーズが離れると、ありがとうと呟く。
「でも、ほんとに、最初の頃からしたらすごい変わり様だよね、ニーズ……」
ニーズが気まずそうに小さく咳払いをする。
あの頃は話しかけても面倒そうで、そうでなければ眠そうだった。
ニーズは亜里沙に自分の名前を付けさせようとして、亜里沙は確か邪竜の名を付けたのだ。
「あれ、ニーズ……何だったっけ」
あれから沢山の事が起こり過ぎて、どうやら忘れてしまったみたいだ。
ニーズは亜里沙を見つめた。
「……そのうち、我の本当の名を教えよう」
「えっ? 忘れたんじゃないの?」
「覚えているよ」
ニーズはどこか寂しそうに微笑んだ。
「それを語るにはもっと話さなければならない事がある。だが、我にはまだその勇気が持てない。もう少し待っていてくれるか?」
亜里沙の許しを懇願するような目。
理に触れる事だとは言わず、勇気が持てないと言ったそれが、ニーズの本心なのだろう。
亜里沙は頷いた。
「でも、もう呼び慣れてるからニーズって言っちゃうかも」
「それでもいい。お前に呼ばれるなら」
人懐こい笑みを見せるニーズに、キーランの面影が見えるようだ。
アストラムの性質、とニーズが言ったことはでたらめではないのかも知れない。もっとも本人は、自分は違うと言い切っていたが。
心を許した者に対しての情のようなものが、とても深いのだろう。それはもしかしたら、ずっと夫を忘れられない女神の性質であるのかも知れない。
翌朝、気が付いたら眠っていた亜里沙はほんの少しの疲労を感じながら起き上がった。
最近不定期だった例の体操をして無理に体を動かす。
ニーズの話では、キーランが安定していれば「声を聞かないようにする」状態を維持出来るという事だった。
置いて行かなければならないのなら、それまでは出来るだけ力になってあげるしかない。
あの体勢は恥ずかしいが、それでキーランの苦しみが抑えられるなら、恥じ入っている場合ではなかった。
キーランの様子を心配した亜里沙だったが、朝食に呼ばれて翔たちとダイニングルームに行くと、ロナンとライアンに加えてキーランも既に着席していた。こちらを振り向いたその表情は落ち着いている。
「おはよう」
キーランが真っ先に挨拶をし、亜里沙も答える。皆それぞれに挨拶をして、朝食を囲んだ。
ロナンはしばらくはライアンに日程を管理され、自由に動けない、とため息混じりに言った。
「すみません、アリサさん。貴女とゆっくり語らいたかったのですが」
冗談なのか本気なのか分からない顔だ。
ダイニングルームを出ようとして呼び止められ、亜里沙とロナン、扉の近くに立つイザベラ以外は残っていない。
せっかく話す機会が出来たのだ。亜里沙はまたロナンとの間が拗れるのが嫌で、決めた事を報告することにした。
と言っても、キーランがどこまで話しているのか、そもそも内緒にしているのか、分からない。
「あの、昨夜はキーランの体調が悪くて、それで、助けてたんだけど」
迷った亜里沙は曖昧な言い方で誤魔化した。
「キーランって思ったより……体調を崩しやすいみたいだから、今後も助けてあげたいと思って」
「……またあんな風にキーランを抱き締めるんですか?」
呆れたような声色に亜里沙の表情も曇る。
「だって……」
「振り向いてもくれない好きな女が、弱る度にあんな事をしてきたら……私なら気が狂いそうですけどね」
亜里沙は驚いてロナンを見上げる。ロナンはいつも通りのようでいて、どこか皮肉めいた笑みを浮かべている。
「……ロナンって、大人げないって言われない?」
「さあ、どうでしょう。言われた事あったかな」
「あと、性格悪いって言われない?」
「それはよく言われます」
ご存知かと思いました、と微笑むと、ロナンはほんの少し声を落とした。
「……これまでにアリサさんには色々言ってきましたが、実は貴女を止める権利は、私にはないんですよ。残念な事に」
「あ……」
「お気付きではありませんでしたか?」
脅してくるわ迫ってくるわで苦悩させておいて、涼しい顔でそんな事を言うロナンに亜里沙は開いた口が塞がらない。
そんな亜里沙に苦笑して、ロナンは小さく息を吐く。
「キーランの事情は多少知っています。止める権利は私にはないので、アリサさんが思うようにしてあげてください。ただし」
「分かってる。帰らなきゃいけないって事は忘れない」
ロナンはそう言った亜里沙をほんの少し見つめた後、何故か一瞬寂しげな顔を見せた。
しかし次の瞬間にはいつも通りだったので見間違いかも知れない。
「私が言いたかったのは、単純に気を付けて欲しいという事です。キーランも男ですから。必ずイザベラの目の届く場所にいてください」
「あ、そっか、分かった」
羞恥で顔がほてる。
「キーランの体調については、私も気を付けて見ておくようにしましょう」
亜里沙がお礼を言うと、ロナンは亜里沙が好きな、いつもの穏やかな笑みを見せてくれた。
ダイニングルームを出ると、扉から少し離れた場所にキーランが壁にもたれて立っていた。
亜里沙を見てパッと顔が明るくなる。
「アリサ、庭園に行こう。今日は僕が案内してあげる」
本当なら北方の文字の勉強をしたかった。だが天気も良いし、昨夜の事もある。
亜里沙が応じると、背後でロナンの若干呆れたような声が、イザベラに「ふたりを頼む」と囁くのが聞こえた。




