記憶
イザベラと共に部屋に帰って来た亜里沙は、もはや自分の一部のように感じられていた、首元の細いチェーンに指をかけた。
慎重に外して、手のひらに乗せる。
ロナンから贈られた、フロースのペンダントだ。
(私……ずっとこれ付けてた……)
残響を感知する力が強いと知らなかったとは言え、どんな時でも、寝る時でさえ外さなかった。
そして小さい物なら平気だという言葉に安心して、何も考えていなかった。
穢れがほとんど感じられない場所でさえ苦しむのだから、フロースが合わないキーランが、小さい物だから平気だなんて、そんなはずはないのだ。
『あまり自分を責めるな。話さなかったのはキーランだ』
(だけど、そんな事誰に話せるっていうの? ただでさえアストラムのせいで呪いを抱えているのに。弱点だらけじゃない!)
『それは……』
イザベラの遠慮がちな視線を感じる。
奥の部屋から出て来て見守るように立っているソフィーを、亜里沙は振り向いた。
「……ソフィー、これ、もう付けられない」
ソフィーはすぐにやって来て、亜里沙からペンダントを受け取った。
「でも、大事な物なの……持ち歩けないけど、保管できる?」
「はい、お任せください」
「この事、ロナンには言わないで……」
「ご安心ください。私もランドストル卿も他言いたしません」
それはもう分かっていた事だが、改めてソフィーにそう言ってもらえて、亜里沙は安心した。
ロナンからはずっと付けているよう言われた訳ではない。だが何故か後ろめたい気持ちが拭えなかったのだ。
ベッドに入った後、亜里沙はニーズがまだ起きている気配を確かめて、問いかけた。
(キーランのあの状態は、どうにかしてあげられないの?)
『……それは、難しい事だ』
(どうして? 何も方法がないの?)
しばらくニーズは迷った。やがて小さく呟く。
『まさか……セレネは……』
(セレネ……キーランのお母さん? どうしたの?)
だがニーズは、それきり黙ってしまった。
亜里沙が何度話しかけても答えず、「理に触れる事なのか」と問いただしても返事はない。
そもそも理に触れるなんて事があるのかも、もはや疑わしいのだが。
ニーズが何かを守ろうとしている事はしっかりと伝わってくるのに、その対象がキーランではない事も分かってしまう。亜里沙にはそれがどうしようもなく腹立たしかった。
セレネについては一度キーランに話を聞いた事があるが、神木の前でイドルになりかけていたという事しか覚えていないようだった。
穢れに強いはずのアストラムがそうまでなった原因は何だろう。それが分かれば、もしかしたら、そこから何かが見つかるかも知れない。
そんな事を強く思ったからだろうか。
気が付いたら亜里沙の意識は、深い深い暗闇の底に引きずり込まれるように落ちていた。
唸るような渦に体が弄ばれている感覚。
亜里沙は混乱しながら必死で息をした。
目が回り、激しい頭痛がして頭を抱える。
そのうち暗闇の中に浮かび上がる光景。
見えて来たのは、様々な人の顔だ。
最初は驚いたようにこちらを振り向いて、その驚愕の顔のまま闇に呑まれる姿──いや、あれは、呑まれたのではない。
引きずり込んだのだ。二つの世界を繋ぐ空間に。
次第に来訪者たちはこちらを認識できなくなった。
たまにこの姿が見える者もいたが、クルスが中に入ると、見えても見えなくても変わらない。一様にこちらを気にかけなくなった。
そして亜里沙は、来訪者たちの名前が分かる事に気が付いた。
この男はシゲル、近所の家の集まりに行くその道で。
この女はミスク、何かを察知し怯えて路地を逃げている時に。
ナオヤ、人のいなくなった駅のホームで。アミール、サヤ、グスタフ──
そしてこの女、キョウコがスマートホンを手に、「変な音がする」と通話相手に言いながら辺りを見回す。こちらを振り向いた時、やはりこれまでと同じように見開かれた目の、恐怖の表情のまま入り口に引きずり込まれる。
後悔と罪悪感と悲痛が絶え間なく襲って来て、声を上げたが、それはどこにも響かない。
だが、次に見えて来た少女には、不思議ととても見覚えがあった。
黒髪に黒の瞳。心配そうにこちらを覗き込んでくる。
何故かとても消耗が激しい。これ以上時間はかけられない。早く自分に触れてくれと、そう何度も呼びかける。
言葉を理解しているようではなかったが、導かれるように少女は抱きかかえてくれた。
安心してその腕に全てを委ねようとした時、誰かが叫んだ。
『アリサ!! それはお前の記憶ではない!!』
ハッとした亜里沙は辺りを見回した。
暗闇だ。どこを見ても、自分の体さえ見えない暗闇。
(ニーズ……ニーズ? どこ!?)
しかしニーズの返事はない。
亜里沙が途方に暮れた時、まるで地割れ、いや、世界が割れるかのような声がした。
その声は頭ごと貫くように響き、亜里沙は激しい痛みと苦しみで訳も分からず叫んだ。
亜里沙の叫び声など、この声のもとではいとも簡単にかき消される。
──ああ、何故、いつもこんなに悲しんでいるのだろう。
あなたの最初の子がこんなにも訴えかけて、慰めようとしているのに、あなたの目には父しか映らないのか。
その、失望と深い悲しみの中で意識が途切れかけ、危険を感じた亜里沙は咄嗟に走り出した。
暗闇の中を、足が動いているかも分からないが、走って走って──逃げた。
すると今度は、あの巨大な声の代わりに何かがささめくような音が聞こえてくる。
『……今更……戻っても……おれには……』
『……違うの、一度……戻らないと……また帰って……』
それは無数の、悲痛な声たちだった。
やりきれない怒りや、茫然自失、離別への苦しみ。
亜里沙には何故か、これらの想いが誰の声なのか、聞き分ける事が出来る。
(やだ、やだ……! 聞きたくない!)
亜里沙は必死で逃げ続けた。
そして、やがて限界を感じた亜里沙は、ぐっと目を閉じた。覚醒する事を期待してその目を開いた時。
亜里沙は、薄暗い路地にいた。
(どこ……?)
辺りを見回す。王都の一角のようだが人通りはなく、もう間もなく夜だ。
(この気配……強い穢れが、いや、それ以上にもっと危険なものが近くにある)
何故それが分かるのかも省みず、亜里沙は少し先まで足を伸ばした。
すぐに現れた水路。路地の突き当たりで薄暗いそこに、橋の下に吸い込まれるように続く水路の、橋のアーチで影になった場所。
覗き込むと、アーチの足元にそれはあった。
石造りで段のようになった部分に座り込むように、その半分が水に浸かった、真っ黒に塗り潰されたような塊が見えた。
(これ……人の体?)
その体はもう死んでいて、そして、向こうの世界との繋がりが切れていないために崩壊しようとしている。
体の周囲に穢れが広がって巣になりかけていて、それと同化しかけているため、その体がどんな人なのかも見えて来ない。その穢れに混じって、クルスなどではない、女神が直接与えた力の気配がする。
(ひどい……可哀想に)
せめて向こうの世界でこの穢れの部分が消えてくれれば元の体に近付くだろうが、確かめた事がないから分からない。
悲しみで胸が潰れそうだ。
その体に腕を伸ばした時、その手を突然誰かに掴まれた。
『アリサ……戻って来てくれ……!!』
そうして気が付くと、目の前にニーズがいた。
「…………え?」
何が起こったのか分からず目を泳がせる。
亜里沙はニーズの意識の中、あの白い空間にいた。
どうやら仰向けに倒れたのをニーズに抱き起こされているような姿勢だ。
伸ばした手をニーズの手が握っている。
一瞬強い目眩と頭痛を感じて顔が歪んだ。
「アリサ……良かった……」
弱々しい声に、その顔を見上げると、ニーズの目からは涙がとめどなく溢れている。
亜里沙は驚いてニーズの顔に見入った。
そのうち自分が泣いている感覚がして、握られていない手で顔に触れたが、その頰は湿っているどころか少しかさついている。意識の中だから定かではないが。
「……何で泣いてるの? 何が起こったの?」
「我の記憶を……お前が……」
最後まで言葉にならず、ニーズは亜里沙を抱き寄せた。ニーズの顔は見えなくなり、少しひんやりするような、温かいような、不思議な感覚に包まれる。
「ニーズ?」
「我は……お前が、愛おしい……」
涙ながらに震える声が、そう告げる。
唐突な告白だったが、本人が一番それに戸惑いを感じているのが分かる。
「お前まで失ったら……我は……」
後は言葉にならなかった。
だが亜里沙には痛い程に全てが伝わってきた。
恐らく亜里沙が強く望んでしまったため、とうとう記憶の一部を共有してしまい、亜里沙の精神が危なかったこと。
そして亜里沙を失うと思った時にニーズがどれだけ恐怖を覚えたのかも。
そこにあったものは、ニーズが自らの弟妹たち、母であるイーリスや去ってしまった父に向けているような、あるいはそれをも超える、強い親愛の情。
そして、それがもたらす孤独感だった。
ニーズが泣き止み落ち着きを取り戻すまで、亜里沙は幼子をあやすように背中を優しくさすった。
落ち着いたニーズは亜里沙を離し、気落ちしたように顔を伏せている。そこには大いに気まずさも含まれるだろう。
今ニーズは胡座をかいて座っていて、亜里沙はその正面に正座を崩して座っている。
「こんな事になるなら、あの時隠さず聞かせてやるべきだった」
「ごめん……どうしても、キーランを助ける手掛かりが欲しくて」
だが見えた記憶はほとんど来訪者のものばかりだった。それだけニーズがこの記憶に囚われているという事だろうか。
ほんの少し哀れに思った時、ニーズが静かに息を吐いた。
「……してきた行いに、これ以上言い訳はしない。お前がそれを哀れに思う必要はない」
そう言って、ニーズは亜里沙をまっすぐに見た。
「セレネの事を話そう……セレネが何故死んでしまったのか。そして、セレネは……命をかけて何をしたかったのか、今やっと我にも分かったのだ」




