離別
亜里沙がドアを開けた時、ソフィーとイザベラは簡単な食事をしている所だった。
我に返った亜里沙は躊躇ったが、キーランが苦しんでいるなら遠慮している場合ではない。
「ごめん、どうしても中庭に出たいの」
切羽詰まっていたからか、亜里沙の顔を見たイザベラがすぐに立ち上がった。
「お供します」
ソフィーに見送られながら、部屋を出る。
亜里沙はまだ屋敷の構造を把握していなかったが、イザベラが案内してくれたので迷わずに済んだ。
中庭に出ると小走りになる。
見えて来た噴水の向こう側に、やはりキーランの姿があった。
「キーラン!」
駆け寄ると、項垂れていたキーランが顔を上げた。
「アリサ? どうしたの?」
眉間を寄せながらでも亜里沙の心配をする。亜里沙はそんなキーランの正面に立ち、顔を挟むように、手を寄せた。
一瞬イザベラが気になって目を上げるが、イザベラは少し離れた所に立ってくれている。
亜里沙はキーランに目を戻した。
「また聞こえてるんでしょ? いつから具合悪かったの?」
「……アリサ」
質問に答えず、キーランは戸惑うように名を呼んだ。
『この辺りに穢れの気配はない。強いて言うならあの商人の男だが……今は奴の侵食も活動状態ではないようだ』
(じゃあ何で苦しそうなの?)
間近で見たから分かる。この顔色の悪さは夜のせいではない。
『分からない……もしかしたらキーランは、我が思っていたよりも残響を感知する力が高いのかも知れない』
(それ……普段から結構きついって事じゃないの? そんなの、どうやって耐えてるの?)
『……コントロールしているのだろう。そんな事が出来るのかは分からないが……そうとしか考えられない。だからキーラン自身の不安定さがこうして影響を及ぼすのかも知れない』
それが本当なら、これまでの回復はキーラン自身によるものだという事だろう。亜里沙の行動は役に立っていなかったのではないか。
『だとしても、お前がした事でキーランが安定していたのは事実だろう。そう己を否定するな』
だが不安に駆られた亜里沙はキーランを問い詰めた。
「ねえ、もしかして、いつも無理してるんじゃないの?」
「それは……いつも声が聞こえているのか、聞いてる?」
キーランはどう言うべきか迷うようにした後、口を開いた。
「普段は大丈夫だよ。聞こえない」
言い切られた言葉に、安心しかけたが。
「聞かないようにしてるから」
「え……?」
亜里沙はショックを受けた。
聞かないようにしているのは、聞こえないのとは訳が違う。
それを聞こえない、と。大丈夫だと、軽々しく口にするキーランを信じられない気持ちで見つめる。
ニーズが唸るように言う。
『まさかそれ程とは……残響とは言え耳にし続けては無事でいられないはずだ。どうやってこれまで……』
亜里沙の胸が締め付けて、目に込み上げるものがある。
キーランはそんな亜里沙をじっと見つめていたが、やがて静かに亜里沙の名を呼んだ。
「……アリサは、僕が好き?」
亜里沙は目を見開いた。こんな時に何を聞いているのだろう。
「好きに決まってるよ……嫌いなら心配なんてしないじゃない」
「でもそれは、僕と同じ気持ちじゃないんだろ」
責めるような言い方に、亜里沙は息を止めた。
必死で考えを巡らせるが、それが恋であると考えるには違和感がある。
「わ……分からない……ただ、心配で……」
それはもう、否定と同じだと、亜里沙は気が付いた。
少なくとも今は、キーランと同じ気持ちを返せない。
「ごめん……」
小さく呟くと、キーランは自嘲するように息を吐いた。
何かを言わなければならない気がした時、キーランの両腕が亜里沙の背中に回って、強く捕まえられた。
「キーラン?」
驚いたのと姿勢の問題でキーランの耳から手が外れる。
キーランは亜里沙の胸に顔を擦り寄せた。
「え、な、何してるの?」
慌てて離れようとしたが、キーランがそれを止めた。
「少しだけ、このままでいて」
今再び、無性に人目が気になった。イザベラを見ると、彼女はほんの少し気まずそうに、視線を逸らしてくれている。
「……アリサの心臓の音がする」
亜里沙の緊張になどお構いなく、キーランが囁いた。この体勢を考えれば、それは当たり前の事だ。
特別な事を言われた訳ではないが落ち着かない。鼓動がうるさいのを自覚出来るので、亜里沙は居た堪れなかった。
「ご、ごめん……うるさいかな」
「うるさくない……この音は、ずっと聞いていられる」
そう言われては、抵抗するのも申し訳なくなる。
キーランがここにいたのは、もしかしたら噴水の音で誤魔化そうとしていたのではないかと、そんな風に思えた。
だが、亜里沙にも羞恥心の限界というものがある。
「あの、でも、ちょっと、これは。恥ずかし過ぎるというか」
しどろもどろに言うと、キーランの声が曇る。
「アリサはずるいよね」
一瞬、誤解を解かずに帰ろうとしている事を見抜かれたと思った。
だが、どうやら違うようだ。
しばらくして、キーランは亜里沙を腕に抱いたまま、顔を上げて亜里沙を見上げた。
「アリサの気持ちがどこに向いてても……僕を好きにならなくても、それでも、いいよ」
「え……?」
「きみが無事でいて、そしてまた僕に会いに来てくれるなら、同じ気持ちじゃなくても、耐えられる」
心臓が嫌な音を立てた。
あの時、ニーズが忠告してくれた時に、何故言わなかったのだろう。
後悔しても遅いが、今この時に告げるべき事ではなかった。
亜里沙は妙に口が渇いて、喉を鳴らした。
こんなに苦しそうに、縋るように見てくるキーランに、それでも、これ以上黙っている訳にはいかなかった。
亜里沙は意を決して口を開く。
「……会いに来ないよ」
キーランが目を見開いた。その目がすぐに、悲しげに揺れる。
「どうして? もう会いたくない?」
真実を話して余計な苦しみを与えるくらいなら、その方がいいだろうか。
「……そう。もう会いたくない。私は、帰ったら、もうこの世界の人とは会いたくない」
一瞬鋭い痛みが走る。これは亜里沙の感覚だ。
こんなに痛みを感じる嘘を吐いた事はない。
キーランが思わずといった様子で立ち上がった。
抱き締められていた姿勢がほどけて、両肩を掴まれる。
「……どうして」
見上げる形になったキーランの瞳には影が落ちて、そこにあるのは怒りではなく、絶望だった。
「だって」
これ以上見ていられなかった亜里沙は顔を伏せた。
「生きてきた世界が全然違うんだから、仕方ないでしょ」
これは真実だ。
「私の世界は、明日イドルに殺されるかもなんて心配しなくていい世界なの。自分が間違ったせいで人が大勢死んだらどうしようとか、そんな事考えなくていい世界なの。私は」
声が震えるのを押さえられない。
「ここに来る前は、ちっぽけな事でも本気で世界が終わるくらい悩んだり、ご飯が美味しかったら心配事も全部なかったみたいに幸せになったり、そんな生活してたんだよ? そんな生活に……戻りたいだけなの」
また苦いものが込み上げる。
そんな生活を、人生を、翔に取り戻して欲しいのだ。それがたとえ仮初であっても。
冷たい空気が耳を痛くする程、沈黙が続いた。
亜里沙はどうしてもキーランの顔を見る事が出来なかったが、やがて、キーランの手が亜里沙の肩から離される。
「そうか……アリサの世界は、安全なんだ」
それは、真実とは言えない。イドルはいなくても、理不尽な死は亜里沙の世界でも溢れているのだ。
実際に妹の茉利咲にもそれが降りかかっている。
それが亜里沙と翔にとっては、どこまでも遠かったというだけで。
「……そうだよ」
亜里沙は声を絞り出した。
すると、再び沈黙が訪れて、互いの呼吸音が聞こえてくる程辺りが静かになった時、キーランが小さく言った。
「……分かった」
亜里沙は恐る恐るキーランを見上げる。
そこにはもう絶望はなかったが、だが、キーランが今何を感じているのか読み取れない。
「側にいて欲しかったけど……でも、アリサが無事でいられるなら、その方がいい」
「キーラン……」
キーランはうっと、小さく唸って、まるで誤魔化すように噴水のへりに再び腰掛ける。
「少し考えたいから、アリサは先に戻って」
キーランは隠したいようだ。それでも亜里沙にはもう分かってしまった。
亜里沙はほんの少し躊躇った後、思い切ってキーランの頭を自分の胸に抱き寄せた。
息を呑む音がする。
キーランを襲う声が消えるなら、何でも利用しよう。せめてここを離れるまでは、そうしてあげたいと、亜里沙は心底から思った。
キーランは驚いたようだったが、抵抗する事もなかった。
「きみは……やっぱりずるいよ……」
そう囁かれた声は、今にも泣き出しそうだった。
しばらくそのままでいると、微かに荒かったキーランの呼吸が一定のゆっくりしたリズムになった。
「寝ちゃった……」
呟いて、顔を上げる。
そして今初めて、イザベラの他にも誰かいる事に気が付いた。
心臓がひっくり返る。咄嗟に足を踏ん張ったお陰でその姿勢を保つ事が出来た。
「ロナン……」
いつから居たのか、そこにはロナンが立っていた。
「アリサ様、お声がけせず申し訳ありません」
イザベラは小声で謝罪したが、ロナンは黙って亜里沙とキーランを見ている。
そして、呆れを含んだような息が静かに吐かれた。
「今回はキーランが引き下がってくれたようですが、もうあまり踏み込まないことです」
亜里沙はその冷たい言葉にむっとした。
だが、ロナンの表情を見ると心配が見え隠れしているようで、それはあっという間に亜里沙の頭を冷やした。
「……ごめんなさい」
「いいんですよ。これでも同じ離別を経験しているので、気持ちは分かるつもりです」
「あ……」
ロナンはそう言って亜里沙の側に歩み寄った。
「ロナンは……キョウコさんと」
「それはまた後ほどお話ししましょう」
ロナンは困ったように微笑むと、亜里沙に代わってキーランを支え、抱え上げた。
「重いんだよな……」
「伯爵、私が」
「いや、きみはアリサさんを連れて部屋に戻ってくれ」
イザベラが返事をすると、ロナンは亜里沙に「おやすみ」と言って先に屋敷へと戻った。
亜里沙はその背を見送って、自分の胸に手を当てた。
まだそこにキーランの温もりが、痛みと共に残っているかのようだった。




