北の国の王女
翌朝。
起き出した亜里沙に、真っ先に調子を尋ねたのは、この日はソフィーではなかった。
『アリサ、体調はどうだ?』
「うん……」
言いかけてハッとする。
寝起きの頭で、つい何事もなかったように受け入れる所だった。
(悪くない……良くもないけど)
精一杯不満げに念じてみたが、ニーズはそれを無視した。
『そうか……何かおかしな事を感じたらすぐに言え。我でなくてもいい』
亜里沙の中に居座る限り、誰に言ったとしてもニーズに言ったのと同じ事になるだろう、という嫌味は飲み込んだ。
ただ亜里沙を心配する気持ちが伝わってきて複雑な心境だった。
(……分かった、気を付ける)
翔の為にも協力しようと自分から言ったのだから、この苦い思いも飲み込んでいくしかないのだ。
すぐにソフィーが亜里沙の体調を確認しに来たので慌てて笑顔で答えた。
貼り付けたようになってしまっただろうが、何も聞かずにいてくれた。
ソフィーもまだ本調子ではなさそうだが、懸命にいつも通りに振る舞おうとしている。
少しして、翔が亜里沙の部屋にやって来た。
挨拶もぎこちなく、特にソフィーを見るとばつが悪そうだ。だがそれは亜里沙も同じだった。
食事を囲んだ時、ソフィーが突然舌足らずに「いただきます」と言って、重かった空気が変わった。
亜里沙は何事かと目を丸くしたが、翔が微かに笑みを浮かべたのを見て、それが日本語だったのだと理解した。
少しずつ他愛のない会話を交わしながら、三人は朝食をいただいた。
その後少しして、亜里沙を訪ねて来た人物が原因でちょっとした騒動が起こった。
やって来たのは知らない女性だ。
亜里沙はその、廊下にいるであろう女性からいきなり声をかけられた。
「来訪者様。アリサ様。出ていらしてください」
ドアの存在もそこを守ってくれている騎士の存在も丸無視だ。
ビクトルが女性に何やら言い返している。が、女性が言ったようには、はっきりとは聞こえない。
それだけこの謎の女性が、大きな声で亜里沙に直接話しかけて来たという事だった。
「あんなに声を張り上げて……」
ソフィーの顔が明らかに曇った。
翔が亜里沙に囁く。
「外国語で話してたね。聞き取れた?」
「えっ? 外国語?」
すると、廊下から、女性がビクトルや騎士たちを悪く言うような内容が聞こえてくる。
直接ではなく遠回しな言い方で、聞いていた亜里沙は気分が悪くなった。
「……聞き取れるよ。今も外国語?」
翔が心配そうにドアの方を見ながら「うん」と頷く。
「アリサ様、いらっしゃるのでしょう? 早く出ていらしてください。主が会いたいと申しております」
「え……」
亜里沙が困惑すると、とうとうソフィーが立ち上がった。
抑えてはいるようだが、ここまでの付き合いの中で何となく分かる。ソフィーは今激怒している。
一直線に部屋を横切ったソフィーはドアの前で亜里沙を振り返った。その表情は恐ろしく硬い。
「アリサ様。けして中には通しませんが、私が話をいたしますので開けてもよろしいでしょうか?」
「う、うん、いいよ」
そうして開けられたドアの向こうに、その人影が見えた。
仁王立ちしていてもソフィーは小柄なので、相手の表情までよく見える。
その女性は一見すると貴族のようだった。過度な装飾もなくドレスでもないのだが、かなり上等なものと分かる服を着ている、年若い美人だ。
ドアを開けたソフィーをつんとした顔で睨み下ろし、その後ろにいる亜里沙に目を向けると口を開いた。
「あなた様がアリサ様ですね。我が主が会いたいと申しております」
「あ」
「アンナ様」
亜里沙が何か言う前にソフィーが口を出した。
「突然おいでになって、部屋の外から公用語ではない言語で一方的に用件だけお話しになるのは、礼儀に欠けるのではないでしょうか」
アンナと呼ばれた女性は驚いたように目を見開いて再びソフィーを見下ろした。
「あなた……」
「今も違う言語で話してる……?」
亜里沙は小声で翔に聞いた。だが、答えたのはニーズだった。
『ああ。今あの娘たちが話しているのはあまり使われない北方の言葉だ。アルデスペランでは主にカンドルヴィアと同じ言語が使われているから、今では話す者もほとんどいないだろう』
ソフィーは顔をしかめるアンナに厳しく対応する。
「アリサ様に個人的な面会の申し出がある場合、王太子殿下、第二王子殿下、マクベルド伯爵のうちどなたにも許可を得ていない者は全て断るように、王太子殿下から仰せつかっております」
「わっ、私がお仕えしている方を知らないの!?」
「いいえ。私はアンナ様のお名前を申し上げましたよ。もちろん存じております」
「なっ、知りながらそんな態度を取るというの!? 無礼な!」
「どちらが無礼ですか。公用語をお使いにならなかったのも、来訪者様が全ての言語を理解なさっていて、私が理解しないと思われたからですよね? アリサ様から直接承諾を得るつもりで」
ソフィーに言い当てられたのか、アンナの顔に著しい焦りが浮かんだ。
翔の表情を見れば、ここまでずっと北方の言葉で話をしているのが分かる。
アンナはすぐに態度を取り繕うと、姿勢を正して威圧するようにソフィーを改めて見下ろした。
「お分かりなら話が早くてよろしいですね。我が主であれば許可など不要だと、王太子殿下も仰るでしょう。我が主をお待たせしてはなりません。あなたが侍女ならば早くアリサ様のお支度を」
「何を勝手な物言いを……!」
ソフィーの怒りが膨れ上がるのを感じた亜里沙は、咄嗟に口を挟んでいた。
「あの!」
我に返ったソフィーと、訝しげなアンナの視線が向けられる。
「えっと……パーシヴァル様の許可を得て来てください……じゃないと、私、どこにも行きません」
亜里沙は一瞬、自分は今どこの言語を話しているのか気になった。
アンナが「まあっ」と甲高い声を上げている。
「王女殿下に対して要求するのも無礼なのに、お、王太子殿下を名前で呼ぶなど……!」
『我は全ての言語を聞き分けられるが全てを話せる訳ではない。お前は今、いつものカンドルヴィアの言語で話していた』
アンナの憤慨した言葉をかき消すようにニーズが言ったので、亜里沙は返事をするタイミングを失ってしまった。
確かにどこの言語か気にしたが、そんな一瞬の些細な事が伝わってしまったのだろうか。
この共有する現象について、昨夜不穏な事を聞いたせいか、何となく落ち着かない。
(……そう言えば、最初私はニーズと話してる時はこの国の言葉で話してて、翔くんは聞き取れてなかったよね。今もそうなの?)
翔の方を見やると、困惑した目と視線が交わる。
『いや、カケルが我の言葉を聞くようになってからは、違う。お前たちと我だけで話す時は、お前もあの世界の言語を話している』
やはり全て日本語にしか聞こえないので、亜里沙にはいまいち実感がない話だ。
亜里沙がぼんやりしているように見えたせいか、アンナは憤慨しながら去ってしまった。
「アリサ様、申し訳ありません! つい腹が立って……アリサ様の侍女としてあるまじき振る舞いでした……」
それなら先程のアンナも似たようなものなのではないだろうか。
確か、王女殿下、と聞こえたが。
「あの人は、王女様の侍女なの?」
どこの、と聞こうとして、先にソフィーが答えてくれた。
「はい。アルデスペランのアストリド王女殿下です。現在こちらにご滞在中なのです」
「ここに……? すごく危ないのに、王女様がどうして……」
亜里沙は翔に先程のアンナとソフィーのやり取りを簡単に説明した。
翔が考え込むと、ソフィーがその王女について教えてくれた。
「アストリド王女殿下は、王太子殿下のご婚約者様なのです。こちらに滞在されている理由までは存じ上げませんが……」
「王太子の、婚約者って言った? そんな人が亜里沙ちゃんに何の用があるんだろう……さっきの侍女の態度だと良い話じゃなさそうだけど」
亜里沙もそれには同感だった。
「ソフィーのお陰で助かったね。これで引き下がってくれるといいけど」
だがこのアストリドは、その後すぐに「許可を得た」と言って、今度は自ら亜里沙の部屋を訪ねてやって来たのだった。




