知られざる訪れ
ニーズの力が亜里沙を通して流れた後、それが途切れると、翔がそっと亜里沙を離した。
亜里沙は不安になったが、目が合った翔はとても落ち着いているように見える。
「翔くん……」
「……そんな顔しないで」
翔は亜里沙を励ますように微笑んだ。
「考えてみたんだ……何度も。もし俺があのまま元の世界にいて……ここに連れて来られなかったとしたら、ずっと無事で生き続けられたのかなって」
翔は眉尻を下げて苦笑する。
「でも、そんな保証なんてどこにもなかったって答えに辿り着くんだ、何度考えても。何度考えても、こうならなかった未来なんか、上手く想像出来なくて……ただ、やり切れなくて苦しいだけで」
亜里沙の目から、静かに涙がこぼれ落ちる。
「全部、俺たちを巻き込んだこの世界の仕組みとか、女神やニーズのせいだって……ただ責めて、ただ憎む事なら簡単に出来る。でもそうすると、俺が全部壊れてしまうんじゃないかって気がして、怖いんだ」
翔の声が微かに揺れる。
「だったら、どんなに理不尽に感じても、これには何か意味があると思いたい。俺の体が、本当は今どうなっていたとしても……少なくとも、こうして生きてはいる……だから、これで良かったんだって思う事にするよ」
亜里沙は何も言えず、ただ翔を見つめた。
「俺は、この世界を救いたいとか、あんまりそういう気持ちは強くないけど。きみを助けたいから、それに集中する事にする。それでもいいかな?」
そう問われて、亜里沙の目に再び涙が込み上げた。
手の甲で目を拭って、大きく頷く。
亜里沙と翔は再び最初のようにそれぞれの位置で座ると、ルチアとの先程の会話について話をした。
翔は大まかな話の流れは聞き取っていたが、亜里沙が必死で思い出した全てを語って聞かせると、難しい顔になった。
「今回は亜里沙ちゃんが来たからイドルをどうにかしたけど、今後はもう何もする気がないって事なのかな……子孫はどうするんだろう」
「旦那さんの子孫の人はパーシヴァル様が保護してるって言ってたよね」
「それって人質って意味だよ」
「あ、そっか……」
「聖王の口振りだと、自分はもうすぐ死ぬって思ってそうだけど……生きてる内は守りたいものも、自分が死んだ後の事は気にならないタイプの人みたいだね」
「うん……それか、もう疲れちゃってるのかも知れない」
ほんの少し翔の眉間が寄った。
「この世界の穢れに対抗できる人が減ると亜里沙ちゃんの負担が大きくなるし、俺はもう少し耐えて貰いたいって思うよ」
「そうだね……もしかしたらもう少し歩み寄れるかも知れない。今度話す時に聖王様に話してみる」
翔は頷いた。
「あまりああいう人と関わって欲しくないけど、多分会う事は避けられないし、だったらこっちもその機会を利用しよう。だけど充分注意して」
「うん……」
「それからまだ気になる事があるんだけど、ニーズ、起きてる?」
翔の声がほんの少しぎこちない。ニーズが小さく、ああ、と答える。
「九年前、聖王が女神の一部を奪った時、何も問題は起きなかったの?」
亜里沙は小さく唇を噛んだ。関係ないと分かっているのにいちいち茉利咲が死んだ事を考えてしまう。
「九年前って言ったら、キョウコさんが帰った年だと思うんだけど」
『ああ……確かに、あの時、母はひどく苦しんだ。これまでにない程の苦しみようで、突然の事で理由が分からなかった。母に問いかけてみたが、我の言葉に答えてくれなくなってから久しいし、その時もやはり返事はなく、ずっと分からないままだったのだが』
あの女、とニーズが怒りを込めて呟く。
『……幸いと言うべきか……その時にはもう帰ってしまっていたが、キョウコのお陰で穢れは落ち着いていたし、イドルが増加するなどの問題は起きなかった……ただ……』
ニーズがひどく迷って、やがて意を決したように続ける。
『母の苦しみは突然おさまった。それから、ひと月くらい経った頃、王都の辺りで嫌な気配がした』
「嫌な気配?」
『ああ……来訪者があの世界との繋がりがある状態で完全に死してしまうと、崩壊が始まると話したな。あれを感じたのだ』
「……どういう事?」
翔が眉を顰める。
『王都の路地の片隅、水路に、人目に付かない場所に落ちたような状態で……穢れに包まれ崩壊を始めた体があった。我はすぐにあちらの世界へ送り返した……それが誰かも分からなかったが、痕跡を辿って元の時空間に現れたはずだ』
「死んだ状態で、か……」
翔が呟くと、ニーズは小さく肯定する。
「キョウコさんの後に他に来訪者がいたの? キョウコさんの次は俺たちだと思ったけど」
『いや、恐らく誰も……あの女も、王都の王族も、知らなかったのではないかと思う。王都に新しい来訪者を迎えたような気配がなかった』
「え? ニーズが連れて来てるんでしょ?」
亜里沙が口を挟むと、ニーズの語気が弱まった。
『そうだが……その者は、我が連れて来たのではない』
「という事は、女神が連れて来たって思ってる?」
亜里沙は息を呑んだ。そう言えば世界を繋げられるのは、ニーズだけではないのだ。
『そうだ。その者は、母が……何故そんな事をしたのかは分からないが、苦しんだ末にやってしまったのだと我は思っている』
「どうして女神が連れて来たって分かったの? ニーズは、俺を連れて来た事も忘れてるじゃないか」
『それは……そうだが……その者から感じたのは、クルスが宿っていた気配ではなかった。あの気配は女神のものだ。女神の力の破片がその者の中にあったのは確かだ。そしてそれがあった理由は、その者を連れて来たのが母だからだ』
なるほど、と翔は小さくため息を吐いた。
「女神もニーズも聖王も……この世界の力がある存在って、本当にろくな事しないんだな」
ニーズが黙り込むと、翔は思案した。
「もしこの世界にずっと留まって帰らなかったら、あっちの世界だとどうなるのか気になってたんだ。でもニーズの言い方だと、元の世界に残す痕跡とやらは、永久に続くものじゃなさそうだね」
『ああ、いずれは途切れる。実際にそれを目にした訳ではないが、そのようになっている事は知っている。そしてそれには、個人差がある事も』
「目にしてない……じゃあ、どこか知らない時空間に投げ出された来訪者はいないんだね」
『ああ、そうだ』
「まあ、今考えるべき問題はそれじゃないけど……ニーズでも、聖王の命は奪えないんだよな? あの時妙な事をしていたみたいだけど」
『あれは……我はただ怒りを感じただけで、何かをした訳ではない……アリサを傷付けるつもりはなかった』
それに、とニーズは続ける。
『あれでは奴は死なない。我にも、もちろんアリサにも、奴は殺せない』
翔の目が再び亜里沙に向いた。
「じゃあやっぱり、今度聖王に会う時に穢れの事を相談しよう。俺には大した事は出来ないかも知れないけど……なるべく側にいる」
亜里沙はしっかり頷いてみせた。
「うん。大丈夫、ちゃんと気を付ける」
そして、亜里沙は翔の部屋を後にした。
翔をひとり残して戻る事がとても不安だったが、翔の落ち着いた表情を見て、亜里沙は我慢した。
部屋に戻ると、待っていたソフィーは何も聞かずにいてくれた。だがその顔を見ると、兄を失った悲しみの他にも、翔の事で心を痛めているのが分かる。
翔の事情は話せない。その代わりに亜里沙は、ソフィーの事も翔にしたように抱き締めて、「もう大丈夫だよ」と伝えた。
ソフィーは、やっと安心したように微笑んでいた。
その夜亜里沙は、ニーズの意識の中に呼ばれた。
だが亜里沙が目を開くと、目の前にいたニーズの困惑した様子から、無意識だったのだと分かる。
亜里沙は怒りなのか悲しみなのか分からない感情が渦巻いて、口を開くのが怖かった。
ただ黙って見つめると、ニーズはまるでひどく叱られた子供のように気落ちして、亜里沙の視線から逃げた。
いつかの時、こんな力を持ったなら神でなくてはいけなかったと嘆いたニーズが思い出される。
「お父さんの……神の言う事を疑いもせずに従って、それで沢山の人を死なせて」
ニーズの肩がびくりと揺れる。長身の男性の姿なのに、とても小さく弱々しく見える。
「ニーズがちゃんと神様なら、もっとマシな事が出来たのかな……」
「それは分からない……」
弱々しいニーズの声が答えた。
「だが……そうであれば良かったのにと、何度となく思っている」
亜里沙は唇を噛み締めた。
「……私、まだニーズの事許せない……でも翔くんの為にも力を貸して欲しいから、これまで通り協力していこう?」
「あ、ああ……だが……」
亜里沙に意見する事を、ニーズが心苦しく思っているのが伝わってくる。だが亜里沙は知らない振りをしてニーズの言葉を待った。
「出来る限りカケルに力を……魂を分け与えてもいいと思っているが、それを続けるといずれは、世界を繋ぐ事が難しくなるかも知れない」
亜里沙の胸に石のように重いものがのしかかった。
「…………意味、あるのかな」
「何だと……?」
「翔くんが生きて一緒に帰れないなら、それって意味あるのかな?」
亜里沙の顔を見たニーズの目に絶望のような色が浮かぶ。
「何を言っている……アリサ! 優先すべきはカケルではない! お前だ!」
亜里沙はカッとなってニーズを睨んだ。
「ニーズこそ何を言ってるの!? あんたにそんな事言う資格ないでしょ!!」
「ああ、そうだ! だがそれでも、何より大事なのはお前が無事に帰る事だろう! カケルもそれを望んでいるんじゃないのか!」
亜里沙は胸のうちに抱え切れない程の感情が渦巻いている事に気が付いた。その相容れない感情がぶつかり合って吐き気を覚える。苦しさで顔が歪んだが、それでもニーズの言った事が許せず言葉を吐き出した。
「翔くんの事を持ち出して来ないで……! ニーズが、それをしないで!」
「……アリサ」
だがニーズは聞いていなかった。慌てたように亜里沙に近付くと伸ばした手で亜里沙の両目を覆う。
「ちょっと、何」
「眠れ。これ以上こんな事を続けると次は感情ではなく記憶の共有が起こり得る。我の記憶をもしお前が見てしまったら、その精神ではとても耐えられない」
見下すような言葉だったが、ニーズが心底亜里沙を心配して気遣っているのが伝わってくる。
この世界に連れて来られた当初とは大違いだ。
そしてその変化に、本人が一番戸惑いを感じている事も、ついでのように伝わって来た。
亜里沙はまだ納得出来ていなかった。もっと言い返してやりたかったし、怒鳴りつけてやりたかった。
だがニーズの手に導かれるように、いつの間にか意識を手放していた。
そして翌朝目が覚めるまで、夢も見ずに泥のように眠ったのだった。




