生死の狭間
ルチアの部屋を出た後、パーシヴァルはついて来るよう言うとその場を離れた。廊下に並ぶ司祭からも見えなくなった所で、ふたりの騎士に命じて、廊下の突き当たりにある少し大きめの窓の側に立つ。
騎士は離れた位置でそれを守るように立ち、亜里沙たちはパーシヴァルの側に移動した。
「さて、困った事になったな」
パーシヴァルは言葉とは裏腹に淡々とした様子で呟いた。
「どうやら私は、あの方に対して唯一有効だった手札を使ってしまったようだ」
「他には残っていないのですか?」
「あの方はこの世界も自国も、自分の命すら、投げ出してしまわれた。こうなったら残ったカードにも、もう意味はない。プレストの系譜であるご婦人もイドルの害により天涯孤独の身だし、これ以上盾に取る事は難しいだろう」
パーシヴァルは亜里沙を見た。
「聖王はああ言っていたが、本当にきみに心当たりはないのか?」
ルチアの死について、だろうか。そんなものに心当たりなどあるはずがなかった。
黙っているが、ニーズでさえ知らない様子だ。今も困惑する気配を感じる。
「ありません……私、誰も殺したりしません!」
パーシヴァルは亜里沙を見たまま何か考えているようだ。
「アリサ、分かっているから落ち着け」
エドワードが宥めるように言った。
パーシヴァルは一瞬エドワードを見やると、再び亜里沙に目線を戻した。
「きみの中には何か高次の存在がいるようだが」
パーシヴァルがそう言った時、エドワードの表情が僅かに強張った。
「ニーズ、だったかな? それが関与している可能性はないのかい?」
「あ、いえ……ニーズも、知らないみたいです……」
どこまで話していいのか分からず、翔を見る。翔は小さく首を横に振る。
パーシヴァルはその様子をじっと見ているようで、居た堪れなかった亜里沙は目線を下にやった。
「今の所は、きみやその存在が直接何かをすると言う訳ではなさそうだな。しかし万が一の事がある。今後も聖王と会う際は、必ず側に誰かを伴うように」
「はい……」
「聖王の死など、今はあってはならない。大陸全土が混乱に陥る。加えて新しい聖王の選出ともなると……あの方にも、せめてこの情勢が落ち着くまでは辛抱して頂きたいものだ」
「記録にある約百年前の選出も、形だけだったという事でしょうか」
「ああ、そういう事だろう」
エドワードの言葉に頷き、パーシヴァルは一度騎士たちがいる廊下の方に目をやると、更に声を落とした。
「聖王の死の予言は噂として既に広がりつつある。私が事態を把握したのが遅すぎた。お前たちも遠征中にこれを聞いたのだったな。恐らく自我を保っている司祭の口から漏れたのだろうが……これについては完全に私の失態だ」
「聖王が立ち位置を変えた事で、これまで保たれていた聖国の結束が崩れたのですね」
深刻な様子のエドワードに、パーシヴァルが頷く。
「ああ。これを契機に、今まで徹底して秘匿されていた事柄が次々と漏れ出るだろう。もう聖王が手を打つ気がない事が明示されてしまったから、それについても我々がやるしかないという訳だ」
亜里沙が見た中で初めて、パーシヴァルがため息を吐いた。
「あれは予想も出来なかった……聖王の死を来訪者が招くという噂の件は、陛下が手を打ってくださるだろうが。だがアリサ、きみは王都には帰らない方がいいだろうな」
「えっ」
エドワードが眉を顰める。
「……アリサをどうなさるのですか?」
パーシヴァルはエドワードを見下ろして、ほんの少し目を細めた。
「しばらくはロナンに預けるのが得策だろう。ここを出たらナイグラードに向かわせる」
エドワードは納得していない表情を浮かべた。
だがパーシヴァルはそこで話を終えてしまった。
亜里沙と翔はパーシヴァルとエドワードから部屋の前に送り届けられた。
そこには既に四人の騎士が待機していて、そのうちのひとりがビクトルだった。
「夕食は部屋に届けさせる。今日のところはゆっくり休みなさい」
そう言って微笑む。亜里沙と翔が頷くのを見ると、パーシヴァルは踵を返した。
何か言いたげにこちらを向いたエドワードだが、足を止めたパーシヴァルが口を挟んだ。
「エドワード、話がある」
エドワードの顔に一瞬緊張が走ったようだった。
「……はい」
答えたエドワードはもう一度亜里沙を見たが、すぐにパーシヴァルについて去ってしまった。
翔の部屋の隣から、ソフィーが顔を出す。
「アリサ様、カケル様」
ソフィーの弱々しい笑みを見た翔はひどく罪悪感を感じているような顔をした。
何も言わず部屋に向かう翔に、ソフィーが慌てて声をかける。
「あの、カケル様、一緒に」
「ごめん」
一言だけそう言って、翔は振り返らずに部屋に入った。
ソフィーが不安げに亜里沙を振り向く。
亜里沙は瞳を揺らすソフィーに「大丈夫だよ」と言ってあげる事しか出来なかった。
部屋に入る際にビクトルが小さく笑みを見せて亜里沙に会釈する。
亜里沙も頭を下げて、ぎこちない笑みを返した。
翔は部屋に引きこもったので、夕食はソフィーとふたりで食べる。
夕食が終わると、亜里沙はソフィーに頼んで、ひとりで翔の部屋の前に立った。
考えなければならない事も、心配な事も沢山ある。
だがやはり、今一番気にかけないといけないのは、翔だと亜里沙は思った。
ノックをして呼びかける。
少しして、ドアが小さく開くと、沈んだ面持ちの翔と目が合った。
「翔くん、お願い……話そう」
翔はしばらく亜里沙を見つめたが、無言で一歩下がるとドアをもう少し開いた。
「……入って」
「アリサ様」
振り向くとビクトルの心配そうな顔がある。
「話をするだけ。大丈夫です」
「しかし……」
「お兄様」
亜里沙の部屋から顔を覗かせたソフィーがビクトルに声をかける。
妹の顔を見て、再び亜里沙を見たビクトルは、「分かりました」と呟いた。他の三人の騎士も顔を見合わせていたが、それ以上口を出す者はいなかった。
亜里沙はソフィーに小さく礼を言うと、翔の部屋に入った。
以前とは逆に、少し距離を空けて亜里沙が椅子に、翔がベッドに腰掛ける。
沈黙は長かった。亜里沙もだったが、翔も言葉に迷う様子が見られる。
やがて、先に口を開いたのは翔だった。
「話さないといけないっていうのは、分かってるんだ」
とても静かで、どこか諦めてしまったような声だった。亜里沙は不安に駆られて翔を見つめる。
「俺だけ……いや、違うか……正確に言うなら」
そして翔は亜里沙を見て、ほんの少し視線を外した。
「多分、亜里沙ちゃんだけなんだろ? ニーズ」
「……え?」
『アリサ……』
「今までの来訪者……俺たちを含めて、あの世界からここに来た人たちの中で、亜里沙ちゃんだけ、なんだろ」
『……すまない、アリサ……すまない……』
「何……? どういうこと? ニーズは何で謝ってるの?」
どこまでも静かな翔の声と、微かに震えるニーズの声が、怖かった。
翔は口をつぐんだ。ニーズの気配はとても弱々しい。
少し待ってみても、どちらも何も言わなかった。
「ねえ、怖いよ……どうしたの? 私だけって何?」
翔が重苦しいため息を吐き出した。
「やっぱり、自分からは話さないんだな。俺自身に言わせるのか……どこまでも卑怯なやつ」
翔が吐いたとは思えない冷たい言葉だった。
この胸の鋭い痛みは、ニーズの感覚だろうか。
亜里沙が目を見開いて翔を見ると、亜里沙を見た翔の瞳が悲しげな色をたたえる。
「……思い出したんだ」
「何を……?」
「この世界に来る前の……あの空間でのこと」
何故か、とても嫌な予感がした。背筋が冷える。
「俺は多分、もう帰れない」
ひとりでいた時も、翔はそれを言っていた。
亜里沙は焦燥感で胸が締め付ける。
「帰れるよ……わたし、頑張るから、一緒に帰ろうよ!」
「……そういう問題じゃない」
「じゃあ、何が問題なの……?」
「俺はもう……」
翔の顔が歪んだ。その目が潤むのが見える。
「俺だけじゃない。来訪者はみんな」
そして、絶望の眼差しが亜里沙に突き刺さる。
「……きみだけが、生きてるんだ」
亜里沙は目を瞬いた。何を言われているのか分からない。
「……それ……どう言う意味?」
『アリサ、すまない……どうしても……どうしても、言えなかった……』
翔はただ、亜里沙の目を見つめ返した。
少しずつ、翔の言葉が染み込んでくる。
理解したくないのに、それを許さないかのように、ニーズの痛みがそれを伝えてくる。
「待ってよ……何なの……ニーズは何でさっきから私に謝ってるの……! 何なの!?」
取り乱す亜里沙に対して、翔は信じられない程冷静だった。ただ、亜里沙を見ると、悲しみに満ちた顔をする。
「いや、ニーズは間違ってないよ。ニーズは……ニーズには、謝る権利なんかない。俺に対しても、これまでの来訪者に対しても」
「翔くん……やだよ、ねえ、やめて……違うよね……? ねえ、ニーズ?」
亜里沙はほとんど懇願するように叫んだ。
「翔くんの勘違いなんでしょ!? そうでしょ!?」
「言えよ、ニーズ。お前には説明する義務があるだろ」
翔の静かで温度のない声が、亜里沙をも苦しくさせる。
しばらくニーズは、話し方を忘れたかのようだった。
何度も言葉を紡ごうとして、出来ずに終わるという事を繰り返した。
亜里沙がもう一度ニーズの名を呼ぶと、やっと。
ニーズはやっと、真実を告白した。
『……あの空間は、我でさえ肉体も魂も削られる空間だ……違う世界を繋げる空間など……そしてそこを通るなど、普通の人間に耐えられるはずがない……』
そして、亜里沙の願いは無情にも打ち砕かれる。
『……カケルの言った事は、間違っていない……』
「クルスが死体に群がる亡霊っていうの、何もおかしくない話だったんだ。だって、入る体はもう死んでるんだから」
「やめて!!」
鋭く叫んだ亜里沙を見て、翔はやはり悲しい顔をした。
「……亜里沙ちゃん……俺は思い出したんだよ」
亜里沙は耳を塞ぎたかったが、翔の目を見ると、出来なかった。
「あの空間に入った時……自分が死んだことを」
翔の言葉が終わった後、いやに不快な自分の鼓動だけが耳の奥で鳴り響いていた。




