救済の聖女
「その根を切った者……五年前、か」
パーシヴァルは少し思案して、ルチアに問いかけた。
「では、あの時ですか? アドアストラの聖殿の扉が開かれる、十三年に一度の聖日」
「そうよ。聖日を迎えるにあたって、聖国には入りやすくなるし治安もどうしても悪くなる。あなたはそうなる前にわたくしを訪ねたのよね。覚えているわよ、王太子となったばかりのあなたの初々しい挨拶を」
光栄です、と答えてパーシヴァルは更に問いかける。
「その“根”はどちらにあったのですか?」
「もちろん、誰もが目に出来る、聖殿の礼拝の間よ。聖国の神木から自然に落ちたものとして、触れずに祈るように言ってあったわ」
ルチアは自嘲した。
「おかしいでしょう? あの頃のわたくしったら、まだ人間どもの敬虔さを心から信じていたのだから。……あら、それ、たったの五年前だわ……」
はあ、と大きく息を吐くルチア。
パーシヴァルは淡々と答える。
「その根は本来なら、普通の人間には持つ事さえままならないのでしょうね。ならばつい警戒が緩んだとしても理解は出来ます」
「あら、優しいのね」
ルチアは目を細めた。
「そう……わたくしだから、この根に触れられる。たとえ触れられたとしても、この根の力を扱おうとしたところで、生きていられるはずがない。イドルにかすり傷を与える事でさえ、下手したら命と引き換えよ。それなのに一体誰が、どうやってこの根に触れて、何の為にこの根を欲したというの」
そして、ルチアは、ふと目を見開いた。
「……いえ、可能性があったわ」
そうして向けられたルチアの視線は、亜里沙の不安を煽った。
「アストラムと、来訪者よ」
「……それはつまり」
パーシヴァルが言葉を引き継ぐ。
「キーランを疑っておいでですか」
「だってそれしか考えられないわ。その頃は来訪者もいなかったのだし」
亜里沙はずっと、この状況を理解する事だけに必死だった。だが、何故かキーランが疑われている。それは亜里沙にとって看過できない事だった。
「で、でも……キーランがそんな事をするなんて思えないし……五年前、だったら、キーランは11歳ですよね? まだ子供です」
「子供だとしても、大人の誰かに唆されたかも知れないわ。子供だったからこそ全部を持つには力が足りず、一部だけを持ち去ったとは考えられない?」
ぐっと唸り声が出た。
『キーランは女神の力と相性が良くないという話をしたのを覚えているか? 一部とはいえ母に触れるなど、可能だとは思えない。だからこそ耐えられるように切った、と言われればそれまでだが』
(それ、擁護してるように聞こえないけど……)
それでも、キーランが人を殺すはずがない。
「キーランはそんな事しないと思います……それに、そもそもキーランは……!」
人間を攻撃出来ない、と言いかけて、慌てて口を閉ざす。
パーシヴァルが硬直する亜里沙に小さく息を吐く。
「……構わないよ、アリサ。カケルも知っているのなら、この場にいる者は皆それを知っているから。だが、今後はそれを口にしないように」
「は、はい……」
そして亜里沙は咄嗟に部屋の扉を振り向く。
「聞こえていないわよ。安心してちょうだい」
ルチアが微笑んで亜里沙を見た。
「まあ、そうね。考えてみればキーランには出来ない事だわ……わたくしの夫を殺害するなんてこと。問題は、どういう経緯で持ち去られて、そして最終的に誰が持っていようと、あれを隠しておくのはとても難しいという事よ」
「持つだけなら耐えられる人間もいるかも知れないのですよね? 使えない事を前提に考えるなら、残る目的は、収集や鑑賞、もしくは好事家に売る以外にないように思いますが」
パーシヴァルが言った。
「単にそうした目的なら、持ち出しさえ出来ればそう難しい事ではないのでは?」
「そんなぼんやりしたものではなくて、そこには明確な意図があったように感じられたのだけれど」
くつくつとルチアが喉を鳴らして笑う。
「確かに使う度に死んでいたのでは、命がいくつあっても足りないわよね」
ひとしきり笑って、ルチアは綺麗な形の眉を吊り上げた。
「収集と鑑賞? そんな変態の物好きがやった事なら、犯人の特定は困難を極めるでしょう」
「ご夫君がどのように殺害されたのか伺っても?」
「……わたくしがそこに倒れている彼を見つけたのは、夕刻の、誰もいなくなった頃だった。止めようとしたのでしょうね。本当に、嫌になるほど簡単に殺されてしまったの。どこにでもあるような安価なナイフで、胸を突かれて」
急に嫌な記憶が蘇って、亜里沙は思わず自分の胸部の服を掴んだ。
「けれどね……」
ルチアは遠い目をした。
「死ぬ間際、わたくしの腕の中で、夫があの水で得た能力を見せてくれた。その生涯でたった一度の予言を残したのよ」
「予言……」
亜里沙は呟いた。ルチアは亜里沙を見て微笑を浮かべる。
「それが、わたくしの見たものとも関係がある内容だったの」
そう言うと、ルチアは静かに呼吸を整えた。
「“この先、遠くない未来に、救済の聖女が現れる。その者は救世の英雄を助け、世界は穢れから解放される”」
そして、と言って、ルチアは目を見開いた亜里沙を見つめる。
「“かの聖女は我が最愛の者の苦悩をも終わらせるだろう”」
ルチアの優しい表情にそぐわない鋭い視線を受けた亜里沙は、それが自分だと言われている事に気が付いた。
「それがいつの事なのか、英雄が、聖女が誰なのかは分からなかった。けれど、あの方がアリサを連れてくる未来を見た時、わたくしにも本物の予言が降りて来たのよ。わたくしと夫の間に深い繋がりがあったからこそ、起こった奇跡だと思っているわ」
そして、ルチアは再び繰り返す。
「わたくしは、わたくしの死の間際、あなたの顔を見ている。他の誰でもない、あなたのその顔よ」
華奢な指を突き付けられた亜里沙は何も言えなかった。
「猊下。それが原因で条約もお立場も、お捨てになったという事ですか?」
「だって! もうどうでもいいのだもの、こんな世界も、お前たち虫ケラも!」
ルチアは頰を上気させて笑った。
「やっと! やっとよ! このわたくしが虫ケラ共と仲良く共生する為に、やらざるを得なかった全ての退屈で面倒な事を、もうやらなくても良いのだから!」
肩を弾ませながら、ルチアはなおも笑った。
「もう耐えなくていいのよ……! この反吐が出るような苦痛から……この、孤独から! 解放して貰えるのだから……!」
笑っているのに、亜里沙にはルチアが泣いているように見えた。
この場の誰も、パーシヴァルでさえ言葉がないようだった。
誰かを手にかけるなど、絶対にそんな事はしない。もしかしたらルチアが解放される道は他にもあるかも知れない。可能ならそれを考えてあげたい、と亜里沙は思ってしまった。
「さあ、アリサ。心を決めてちょうだい」
ルチアに同情心を抱いていた亜里沙は、唐突に現実に引き戻された。
「これからずっとわたくしの側にいて。わたくしの安らぎの為に、あなたに与えられた役目を全うしてちょうだい」
輝いた瞳と紅潮した頬が美しいルチアの顔を、しばし見つめる。
「え……? あの……?」
すると、ずっと動かなかったパーシヴァルがルチアの方に進み出た。
ルチアの顔がはっきりと歪む。
「……何をしているの?」
パーシヴァルはその言葉には答えず、ルチアを見下ろす。
「ゼフィル・プレスト、ではありませんか」
ルチアの目が見開かれ、強張った顔でパーシヴァルを見上げる。
「猊下のご夫君の名です」
「……どこでそれを」
「プレスト家の系譜を辿り、子孫に当たるご婦人を捜し出して保護しております。その知らせが入ったのは、つい先刻の事ですが」
ルチアは思わずといった様子で立ち上がった。
「そんな事、あり得ないわ」
「何故です?」
「あなたがどうやって、それを辿るというの」
「……五年前の訪問の際、猊下の側に控えていたひとりの司祭が気になりました」
「何が気になったというの?」
「猊下は他の司祭が何をしようと関与せず、一切姿勢を崩されませんでした。ただ、他の者と同列に扱われていたはずのその司祭の為には、膝を折られた」
ルチアの眉間が寄って、険しい顔になる。
「先程のお話から、この時既にご夫君は晩年に発症したという症状を抱えておられたはずです。その症状は外から見ただけでは分かりにくいものだったのでしょう。しかし猊下はご存知だ。だからご夫君が落とされた神書を、猊下自ら拾われたのでは?」
「そんな……覚えていない。わたくしが書を拾った? たったそんな事で、あなた、あのひとを調べたとでも言うつもり?」
「猊下と同じくご長命であられるのは、すぐに疑いようがないと思い至りました。ですがまさか婚姻関係であられたとは。予想もしておりませんでした」
「……子孫は……この五年間ずっと捜していたというの?」
「いいえ。調べてはおりましたが、捜したのは猊下が沈黙なさってからです」
ルチアは顔を歪めて口角を吊り上げた。
「お前……くびり殺してやりたいわね」
ルチアはふらふらとパーシヴァルに歩み寄る。
エドワードが反応するが、パーシヴァルはルチアに目を向けたまま、軽く手を上げてエドワードを制した。
「わたくしがその子孫とやらを気にするとでも思っているのかしら?」
「それは、どちらに転ぶか私にも分かりませんでした。先程までは」
固唾を飲んで見守る亜里沙の目の前で、ルチアは今にもパーシヴァルに手を出してしまいそうだ。
だがパーシヴァルの表情は変わらない。
「今は、確信しております。何せご夫君が大事にしておられた妹君が遺した、血筋の方です」
しばらく睨み合いが続いた。燃えるような怒りを瞳に宿したルチアと、あくまで冷静なパーシヴァル。
根比べはルチアの負けだった。
「……要求は、わたくしがアリサを諦める事、かしら?」
「はい」
「それ以上要求したら本気で首を絞めてやるところだったわ」
ルチアは目を細めた。
「いいでしょう。どうせ予言は実現するのだから。ただし、トランティアでの滞在中、そしてアリサが王都へ帰った後も、わたくしがアリサを訪問する事まで制限はさせないわよ」
「そのような無礼は致しません。何より聖王猊下の正式な訪問を制限出来る者などおりません」
「お前は既に充分無礼よ。むしろ感心する程だわ」
パーシヴァルは答えなかった。ルチアは不快を露わにし、ベッドに足を向けるとそこへ腰掛けた。
「残念だわ、アリサ。話は終わりね」
早く下がれと言わんばかりにそっぽを向くルチア。パーシヴァルに言われて焦って立ち上がった時、ニーズの声がした。
『アリサ……どうやって大樹の聖域に入ったのか、いつどうやって母の一部を持ち去ったのか、この女に尋ねてくれ』
立ち止まる亜里沙に注目が集まる。翔が心配そうに見つめてくる中、亜里沙は怖々ルチアを振り向いた。
「あの、聖王様」
ルチアはこちらに目を向けたが答えない。
「さっきの根は……多分、特別な場所にあると思うんですけど、どうやって入られたんですか? そして、どうやって根を、いつ、持ち出されたんですか?」
ルチアが目を見開いて、パッと笑みを浮かべた。
「あのお方がお聞きになっているのね?」
亜里沙が返事をする前にルチアはきちんと向き直った。
「長く生きたわたくしはずっと穢れと戦いながら人間共を導き、女神にひれ伏し祈りを捧げ続けた」
ルチアは目を閉じて右手をそっと胸に置く。
「ある時いつものように祈りを捧げていたら、いつの間にかわたくしは大樹となった女神の御前に招かれていたわ。わたくしは畏怖し、同時に悟ったの。イドルの脅威をもっと確実に退ける為に、女神はきっとこれをお望みなのだと」
ルチアは再び根を取り出して、うっとりと見つめた。
「思った通り、素手で掴み取ってもわたくしには造作もない事だった」
『馬鹿な……! 母がそんな事を赦す訳がない……それをさも母が望んだ事のように……! 招き入れた者に裏切られてさぞ苦しんだだろうに!』
ルチアは顔を上げて亜里沙に綺麗に微笑んだ。
「この聖杖を賜ったのは、九年前のことよ」
亜里沙の心臓が強く打ちつけた。
『九年前……そうだったのか……この女のせいで』
気付かなかった自分を責めるニーズの声は、亜里沙の耳を掠めただけだった。




