女神の一片
ルチアは世界の成り立ちを教える、と言って語った。
──この世界はかつて、何もない、白い無の空間だった。
女神イーリスが孤独を嘆き、天に祈ると、偉大な神が降り立った。
女神イーリスは偉大な神と結ばれ、夫である神に導かれて天地と万物を創造した。そして女神はアストラムを産み、民を導く王とした。
偉大な神は天へと帰り、女神イーリスは大樹となって世界を支えている──
「ねえ、不思議だと思わない? この世界が無の空間でしかなかった時、女神はどうやってお生まれになったの? ただ存在していらしたのかしら。そして偉大な神はどこからいらして、何故去ってしまわれたの?」
白い空間と言われたら、亜里沙が思い浮かぶのはニーズの意識の中だ。あれが現実にあったというのだろうか。
「ああ、これは神話よ。実際のところはどうだったのかは分からないわ。わたくしはある程度真実だと思っているけれど」
小さく息を吐いて、ルチアは続けた。
「わたくしが生まれた頃には、世界はもうイドルによって苦しんでいた。幼い頃から、アストラムの血を引いた事を誇りに思っていた。だからこの世界の人々を守りたいと考えていたの。成長したらこの世界の憂いを全て払う司祭になると、そんな使命感まで持っていたのよ」
だけど、とルチアの声が低くなる。
「司祭にはなれても、時間が、足りなかった。わたくしの体は丈夫でもなかった。この世界の謎を、イドルの謎を解き明かす為に、猶予が欲しかった。ただ、それだけだったのよ。それだけだったのに……わたくしの願いは叶えられてしまった」
食い入るように見つめる亜里沙に目をやって、ルチアはふふ、と笑った。
「笑えるでしょう? ちっぽけな正義と慈悲から生まれた安い使命感のせいで、ある日起きたら若返っていて、そして」
ルチアはまるで当時を思い返すように、両手を胸の前に掲げてじっと見た。
その手が震えたと思うと、口角を吊り上げてゾッとする笑みを見せる。
「それから七百年もの時を生き続ける事になるなんて、誰が想像出来るというの?」
空気が凍り付いた。
亜里沙はルチアから目を離せなかったが、エドワードも、流石にパーシヴァルも、驚愕したのが伝わってくる。
翔が隣で「七百年……?」と呟いた。
言葉の端々から、覚えた単語を拾って、何とか理解しようとしているようだ。
ルチアは、長く細い息を静かに吐き切った。
「それでも……わたくしは、耐えた。気の遠くなる程の時間を費やして世界を助け、人々を導き、穢れを根源から取り除く為に、様々な事を試みた。けれど、どれも上手くいかなかったわ。次第にわたくしの心は疲弊していった。そんな時に……」
消え入りそうな声で囁く。
「……今から二百年程前の事……ある男に出会った」
薄い笑みが口の端に浮かび、ルチアの声が掠れる。
「……夫がいたの。対外的には独身で通したけれど……」
そしてルチアは、亜里沙の側を一瞥する。
「まさか、お前みたいな者の前でこれを告白する事になるなんてね」
「……口外しないとお約束します」
当たり前よ、とルチアが鼻で笑う。
「夫は、出会ってから二百年生きたわ。けれど、二百年で駄目になった。時々……突然、全てを忘れたように振る舞うの……わたくしの事さえもね」
ルチアが吐き出した言葉が亜里沙の胸にも重たく沈み込む。
「晩年は、忘却と深い絶望、そして怯えの中で生きていた。それでも、死んでしまったのは寿命ではないのよ」
殺されたの、と、ルチアの顔が憎悪に染まる。
「夫が死んでから……まだ、たったの五年しか経っていない。わたくしは、これからも生き続けるというのに、この果てしない苦しみが、まだ、たったの……」
そう呟かれた声は、錯覚だろうか、とても年老いて聞こえた。
静寂が訪れた。
ルチアはどこかを見つめたまま疲れたような顔をしている。
少しして、パーシヴァルが口を開いた。
「発言を許可していただけますか」
ルチアはふと視線をこちらに戻し、ため息で答える。
「ええ、許してあげる」
すると、パーシヴァルは少し身を屈めて、亜里沙に囁いた。
「私が質問してもいいかい?」
亜里沙が頷くと、パーシヴァルは姿勢を戻す。
「まずは、ご夫君が長命となられた理由をお伺いしたい」
「水よ」
「……水?」
「見た事がないかしら? フロースの結晶が集まる場所には、水溜りが出来る事がある。その水には不思議な力があってね。それを飲ませたのよ」
「あれを摂取するのは危険なはず」
「ええ。その通り。あなたも飲ませた事があって?」
答えないパーシヴァルに、あはは、とルチアは笑い声を上げた。
「だから、死ななかったのは奇跡ね」
狂気じみた笑みを浮かべるルチアを哀れに思う反面、亜里沙は恐ろしかった。翔が控えめに亜里沙を気にかけているのを感じる。
気のせいか、パーシヴァルの声が若干低くなった。
「……その者にだけ飲ませて奇跡的に無事だったのですか? まさか……聖国の司祭たちは」
「察しがいいわね。でも一つ間違えているわ。この奇跡は他の奇跡より頻繁に起こるのよ。だから、全てではないけれど、大体の聖国の司祭には飲ませてきたわ」
「何故そんな事を……」
エドワードが思わずといったように口を出した。
「わたくしはこう見えても聖王なのよ。政治の事ばかりで教義を疎かにする者など必要ない。欲に目がくらんで司祭である事を忘れる者など必要ない。だからあの水を飲ませた。一口でも選別出来るからとても便利だったわ」
今は、単にうるさいのが嫌いだから飲ませている、と付け加える。
「命を落とさなかったとしても、水を飲んだ後はどうなるのです」
パーシヴァルの問いに、ルチアは綺麗に微笑んだ。
「……あら。その目で見たではないの」
亜里沙はあの、まるで動く人形のような司祭たちを思い出した。急激に体温が冷えていくようで、身震いする。
「本当に分からなくて聞いているの? あなた」
クスクスと笑うルチアの問いかけを無視して、パーシヴァルは話を戻した。
「では、ご夫君は?」
「稀に、あの水を飲んでも自我を失わない事がある。あの水を飲み続けると、耐えられる限りは寿命が延びるし、稀に力に目覚める事がある」
ルチアは再び遠い目をした。
「そして、夫はその全てに当てはまる者だった。わたくしに愛を告白してきたのは、水を飲んだ後よ」
パーシヴァルが少しの間考えるような気配がした。
「誰に殺されたのですか? どうやって?」
ルチアの表情から色が消えた。
袖の中から、あの真っ白な杖を取り出してみせる。
「よく見てちょうだい」
言われるがまま、皆がその杖に目を向けた。
近くで改めて見ると、それはとても不思議な杖だった。とても神々しく淡い光を放っているのに、見ているだけで肌が粟立つような、見る事にも罪悪感を覚えるような、そんな不吉さもある。
杖、枝というよりは、根の一部のように感じる。太い芯に何本かの細い筋が絡まったような形だ。
そして、その根には何か、途中で切られたかのような跡がある。
「神木、でしょうか?」
「いや、これはもっと……」
エドワードとパーシヴァルがそう囁き合う。そして、パーシヴァルが再びルチアに問いかけた。
「それには異界への入り口を開く力もあるのですか?」
「いいえ? そんな事、出来るはずがないわ。わたくし自身が女神なら可能だろうけれど」
「では、あの時のあれは」
「異界ではなく、空間を渡ったのよ。ただあれで移動出来る距離なんてたかが知れているし、短い距離でもいちいち命懸けだけれど。わたくしは死なないから」
最後の言葉を自嘲的に吐き捨てて、ルチアは亜里沙を見て優しい顔をした。
「アリサ、これが何かお分かりになって? 一体これの何がおかしいのか」
亜里沙は事情がよく分からず、もっとよく見ようと身を乗り出した。
──その時。
再び、あの身を焦がすような激しい怒りと、それと同じくらいの深い悲しみが亜里沙を襲った。
あの時はルチアだけに異変が起こったが、今は亜里沙の身にもそれが起こる。
強く締められるような圧迫感に、思わず喉を両手で覆って口を開いた。
「……っ、やはり、あの方は女神と深い関係にある方なのね……! 初代のアストラム? それとも、まさか、去ってしまった神の」
絞り出すようなルチアの声は、そこで途切れた。
ルチアが苦しむ目の前で、亜里沙も息が出来ずに上体を折る。
「うっ……、あ……!」
「アリサ?」
パーシヴァルの怪訝な声と、エドワードの驚いたような声が上がる。
ハッとした翔が咄嗟に叫んだ。
「ニーズ、やめろ!!」
ふっと、亜里沙の喉が解放された。ルチア共々激しく咳き込む。
「ニー、ズ……? 今、カケルは、そう言った? それが、あの方のお名前?」
恍惚とした表情を向けるルチアに、翔は警戒心を露わにした。
「違う……そう呼んでるだけ。名は、知らない」
どこかぎこちない翔の言葉が、呼吸をするので精一杯な亜里沙の代わりに答える。
「あら……あなた、話せるの」
「……少し」
そう、とルチアが呟く。
心配そうに声をかけてくるエドワードに、亜里沙が何とか頷いた時、ニーズの小さな声がした。
『アリサ……すまなかった……お前を傷付けるつもりはなかった……この女が持っているものを、下げさせてくれ……』
翔がちらと亜里沙を見て、ルチアにジェスチャーを交えて話す。
「あの方が見たくないと? やはり、そうなのね」
嬉しそうに言って、ルチアは杖を袖の中にしまった。
「それは一体何なんです?」
パーシヴァルの問いかけに、ルチアの笑みが深くなった。
「これは大樹。大樹の根の一部よ」
「大、樹……? まさか」
亜里沙が息も絶え絶えに呟くと、ルチアがええ、と頷く。
「女神だったもの、の一部よ」
再び、ルチア以外の全員が言葉を失った。
ただルチアだけが、異様な笑みを浮かべたままだ。
「そして、気付いたかしら? この根、わたくしが引きちぎった箇所とは明らかに違う断面があるの」
「……“断面”」
パーシヴァルの呟きに、ルチアが目を細める。
「そう。この根の一部を切ってわたくしの元から持ち去った者がいる。そしてその者こそ、わたくしの夫を殺した者よ」




