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そして私は、救済の聖女になった。  作者: 五乃ふゆ
第五章

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女神の一片

 ルチアは世界の成り立ちを教える、と言って語った。



 ──この世界はかつて、何もない、白い無の空間だった。


 女神イーリスが孤独を嘆き、天に祈ると、偉大な神が降り立った。


 女神イーリスは偉大な神と結ばれ、夫である神に導かれて天地と万物を創造した。そして女神はアストラムを産み、民を導く王とした。


 偉大な神は天へと帰り、女神イーリスは大樹となって世界を支えている──




「ねえ、不思議だと思わない? この世界が無の空間でしかなかった時、女神はどうやってお生まれになったの? ただ存在していらしたのかしら。そして偉大な神はどこからいらして、何故去ってしまわれたの?」


 白い空間と言われたら、亜里沙が思い浮かぶのはニーズの意識の中だ。あれが現実にあったというのだろうか。


「ああ、これは神話よ。実際のところはどうだったのかは分からないわ。わたくしはある程度真実だと思っているけれど」


 小さく息を吐いて、ルチアは続けた。


「わたくしが生まれた頃には、世界はもうイドルによって苦しんでいた。幼い頃から、アストラムの血を引いた事を誇りに思っていた。だからこの世界の人々を守りたいと考えていたの。成長したらこの世界の憂いを全て払う司祭になると、そんな使命感まで持っていたのよ」


 だけど、とルチアの声が低くなる。


「司祭にはなれても、時間が、足りなかった。わたくしの体は丈夫でもなかった。この世界の謎を、イドルの謎を解き明かす為に、猶予が欲しかった。ただ、それだけだったのよ。それだけだったのに……わたくしの願いは叶えられてしまった」


 食い入るように見つめる亜里沙に目をやって、ルチアはふふ、と笑った。


「笑えるでしょう? ちっぽけな正義と慈悲から生まれた安い使命感のせいで、ある日起きたら若返っていて、そして」


 ルチアはまるで当時を思い返すように、両手を胸の前に掲げてじっと見た。


 その手が震えたと思うと、口角を吊り上げてゾッとする笑みを見せる。


「それから七百年もの時を生き続ける事になるなんて、誰が想像出来るというの?」


 空気が凍り付いた。

 亜里沙はルチアから目を離せなかったが、エドワードも、流石にパーシヴァルも、驚愕したのが伝わってくる。


 翔が隣で「七百年……?」と呟いた。

 言葉の端々から、覚えた単語を拾って、何とか理解しようとしているようだ。


 ルチアは、長く細い息を静かに吐き切った。



「それでも……わたくしは、耐えた。気の遠くなる程の時間を費やして世界を助け、人々を導き、穢れを根源から取り除く為に、様々な事を試みた。けれど、どれも上手くいかなかったわ。次第にわたくしの心は疲弊していった。そんな時に……」


 消え入りそうな声で囁く。


「……今から二百年程前の事……ある男に出会った」


 薄い笑みが口の端に浮かび、ルチアの声が掠れる。


「……夫がいたの。対外的には独身で通したけれど……」


 そしてルチアは、亜里沙の側を一瞥する。


「まさか、お前みたいな者の前でこれを告白する事になるなんてね」


「……口外しないとお約束します」


 当たり前よ、とルチアが鼻で笑う。


「夫は、出会ってから二百年生きたわ。けれど、二百年で駄目になった。時々……突然、全てを忘れたように振る舞うの……わたくしの事さえもね」


 ルチアが吐き出した言葉が亜里沙の胸にも重たく沈み込む。


「晩年は、忘却と深い絶望、そして怯えの中で生きていた。それでも、死んでしまったのは寿命ではないのよ」


 殺されたの、と、ルチアの顔が憎悪に染まる。


「夫が死んでから……まだ、たったの五年しか経っていない。わたくしは、これからも生き続けるというのに、この果てしない苦しみが、まだ、たったの……」


 そう呟かれた声は、錯覚だろうか、とても年老いて聞こえた。



 静寂が訪れた。


 ルチアはどこかを見つめたまま疲れたような顔をしている。

 少しして、パーシヴァルが口を開いた。


「発言を許可していただけますか」


 ルチアはふと視線をこちらに戻し、ため息で答える。


「ええ、許してあげる」


 すると、パーシヴァルは少し身を屈めて、亜里沙に囁いた。


「私が質問してもいいかい?」


 亜里沙が頷くと、パーシヴァルは姿勢を戻す。


「まずは、ご夫君が長命となられた理由をお伺いしたい」


「水よ」


「……水?」


「見た事がないかしら? フロースの結晶が集まる場所には、水溜りが出来る事がある。その水には不思議な力があってね。それを飲ませたのよ」


「あれを摂取するのは危険なはず」


「ええ。その通り。あなたも飲ませた事があって?」


 答えないパーシヴァルに、あはは、とルチアは笑い声を上げた。


「だから、死ななかったのは奇跡ね」


 狂気じみた笑みを浮かべるルチアを哀れに思う反面、亜里沙は恐ろしかった。翔が控えめに亜里沙を気にかけているのを感じる。


 気のせいか、パーシヴァルの声が若干低くなった。


「……その者にだけ飲ませて奇跡的に無事だったのですか? まさか……聖国の司祭たちは」


「察しがいいわね。でも一つ間違えているわ。この奇跡は他の奇跡より頻繁に起こるのよ。だから、全てではないけれど、大体の聖国の司祭には飲ませてきたわ」


「何故そんな事を……」


 エドワードが思わずといったように口を出した。


「わたくしはこう見えても聖王なのよ。政治の事ばかりで教義を疎かにする者など必要ない。欲に目がくらんで司祭である事を忘れる者など必要ない。だからあの水を飲ませた。一口でも選別出来るからとても便利だったわ」


 今は、単にうるさいのが嫌いだから飲ませている、と付け加える。


「命を落とさなかったとしても、水を飲んだ後はどうなるのです」


 パーシヴァルの問いに、ルチアは綺麗に微笑んだ。


「……あら。その目で見たではないの」


 亜里沙はあの、まるで動く人形のような司祭たちを思い出した。急激に体温が冷えていくようで、身震いする。


「本当に分からなくて聞いているの? あなた」


 クスクスと笑うルチアの問いかけを無視して、パーシヴァルは話を戻した。


「では、ご夫君は?」


「稀に、あの水を飲んでも自我を失わない事がある。あの水を飲み続けると、耐えられる限りは寿命が延びるし、稀に力に目覚める事がある」


 ルチアは再び遠い目をした。


「そして、夫はその全てに当てはまる者だった。わたくしに愛を告白してきたのは、水を飲んだ後よ」


 パーシヴァルが少しの間考えるような気配がした。


「誰に殺されたのですか? どうやって?」


 ルチアの表情から色が消えた。

 袖の中から、あの真っ白な杖を取り出してみせる。


「よく見てちょうだい」


 言われるがまま、皆がその杖に目を向けた。


 近くで改めて見ると、それはとても不思議な杖だった。とても神々しく淡い光を放っているのに、見ているだけで肌が粟立つような、見る事にも罪悪感を覚えるような、そんな不吉さもある。


 杖、枝というよりは、根の一部のように感じる。太い芯に何本かの細い筋が絡まったような形だ。


 そして、その根には何か、途中で切られたかのような跡がある。


「神木、でしょうか?」


「いや、これはもっと……」


 エドワードとパーシヴァルがそう囁き合う。そして、パーシヴァルが再びルチアに問いかけた。


「それには異界への入り口を開く力もあるのですか?」


「いいえ? そんな事、出来るはずがないわ。わたくし自身が女神なら可能だろうけれど」


「では、あの時のあれは」


「異界ではなく、空間を渡ったのよ。ただあれで移動出来る距離なんてたかが知れているし、短い距離でもいちいち命懸けだけれど。わたくしは死なないから」


 最後の言葉を自嘲的に吐き捨てて、ルチアは亜里沙を見て優しい顔をした。


「アリサ、これが何かお分かりになって? 一体これの何が()()()()のか」


 亜里沙は事情がよく分からず、もっとよく見ようと身を乗り出した。

 ──その時。


 再び、あの身を焦がすような激しい怒りと、それと同じくらいの深い悲しみが亜里沙を襲った。


 あの時はルチアだけに異変が起こったが、今は亜里沙の身にもそれが起こる。


 強く締められるような圧迫感に、思わず喉を両手で覆って口を開いた。


「……っ、やはり、あの方は女神と深い関係にある方なのね……! 初代のアストラム? それとも、まさか、去ってしまった神の」


 絞り出すようなルチアの声は、そこで途切れた。

 ルチアが苦しむ目の前で、亜里沙も息が出来ずに上体を折る。


「うっ……、あ……!」


「アリサ?」


 パーシヴァルの怪訝な声と、エドワードの驚いたような声が上がる。


 ハッとした翔が咄嗟に叫んだ。


「ニーズ、やめろ!!」


 ふっと、亜里沙の喉が解放された。ルチア共々激しく咳き込む。


「ニー、ズ……? 今、カケルは、そう言った? それが、あの方のお名前?」


 恍惚とした表情を向けるルチアに、翔は警戒心を露わにした。


「違う……そう呼んでるだけ。名は、知らない」


 どこかぎこちない翔の言葉が、呼吸をするので精一杯な亜里沙の代わりに答える。


「あら……あなた、話せるの」


「……少し」


 そう、とルチアが呟く。


 心配そうに声をかけてくるエドワードに、亜里沙が何とか頷いた時、ニーズの小さな声がした。


『アリサ……すまなかった……お前を傷付けるつもりはなかった……この女が持っているものを、下げさせてくれ……』


 翔がちらと亜里沙を見て、ルチアにジェスチャーを交えて話す。


「あの方が見たくないと? やはり、そうなのね」


 嬉しそうに言って、ルチアは杖を袖の中にしまった。


「それは一体何なんです?」


 パーシヴァルの問いかけに、ルチアの笑みが深くなった。


「これは大樹。大樹の根の一部よ」


「大、樹……? まさか」


 亜里沙が息も絶え絶えに呟くと、ルチアがええ、と頷く。


「女神だったもの、の一部よ」


 再び、ルチア以外の全員が言葉を失った。


 ただルチアだけが、異様な笑みを浮かべたままだ。


「そして、気付いたかしら? この根、わたくしが引きちぎった箇所とは明らかに違う断面があるの」


「……“断面”」


 パーシヴァルの呟きに、ルチアが目を細める。


「そう。この根の一部を切ってわたくしの元から持ち去った者がいる。そしてその者こそ、わたくしの夫を殺した者よ」

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