イドル急襲
亜里沙たちの荷馬車の後方、馬車が通って来た街道から大きく逸れた先の平原にまばらに木が生えた森が見える。
その手前に、街道に向かって逃げて来る数人の人の姿が見え、その奥に──
「……な、に……あれ……」
真っ先に目がいったのはその巨大さだ。
周りのものとの比較から、体高は二階建ての家に届かないくらいだろうか、咄嗟に思い浮かんだのは恐竜だ。
だが、あの見た目は。
全体的に黒っぽいというか、汚く濁った沼のような、まだらな色合いで、その表皮はここから見ただけでも絶対に触れてはいけなさそうな強烈な毒々しさを放っている。
その皮膚と、所々肉が剥がれているように見える事と骨格だけになった翼以外は、ファンタジーものの作品で見たドラゴンとも言える姿がそこにあった。
腹の底に響く唸り声を上げながら、目の前を逃げる人々を追うように四足歩行でのしのしと動いている。不快感を伴う地響きが、荷台に寄りかかって立つ亜里沙の足の力を奪っていく。
「人々を先導してくれ」
「承知しました」
キーランに答えて、荷台から布に包まれた棒状のものを取り出すロナン。杖よりは短く、太い。
ベンが後ろの荷車から外した馬の手綱をロナンに渡す。
「アリサさんはルイドヴィックと居てください」
彼女を頼んだ、とルイに声をかけるとロナンは馬を走らせた。
亜里沙は必死に逃げ惑う人々を固唾を飲んで見守る。
こちらへ、と、馬で駆け付けたロナンの声が響く。
逃げていた人々がロナンが指示した方向へ走り出すと、キーランが動いた。
イドルの方へ向かうキーランの背に、咄嗟に叫ぶ。
「キーラン!」
振り向いたキーランは、この状況に全くそぐわない、綺麗な笑みを浮かべた。
「大丈夫。僕がアリサを守るよ」
再びイドルに向かって歩を進めるキーランに、亜里沙はもう何も言えなかった。
人々を追って進路を変えるイドル。
人々と反対方向へ馬を走らせたロナンがその馬を止め、あの杖のような何かを構える。
直後、ドンッとすごい音がして、亜里沙の肩が震えると同時にイドルの鋭い咆哮が轟いた。
よろめくイドルがロナンの方を向き、そこでまた一発。今度の咆哮は先ほどのものより低く、亜里沙の全身が震え出す。ロナンが再び馬を操り、キーランの方へ向かう。
イドルがロナンを追い始めた時には、キーランが駆け出していた。
人々を追っていた時とは比べ物にならない速度で迫るイドル。対してロナンは急いで逃げているように見えない。馬はもう少し速く走れないのだろうか?
ロナンが追いつかれる、と亜里沙が息を止めた時、尋常ではない速さで駆け付けたキーランが、ロナンが差し出した手を掴み跳躍した。
馬の背を蹴って飛び上がり、ロナンに迫っていたイドルの頭に飛び乗る。
頭に着地して身を半回転させながら素早く剣を抜き放ったのを亜里沙が目にした直後、イドルの眉間に深々とキーランの剣が突き刺さっていた。
これまでとは違う唸り声を上げ頭を振るイドル。どうやって耐えているのか剣の柄を両手で握ったまま姿勢を低く保つキーランが振り落とされる事はない。眉間を貫いたまま、キーランが大きく剣を捻った。
今度の咆哮は悲鳴に似た響きだ。
なお動こうとするイドルは、次の瞬間、はっきりとした悲鳴を上げた。
キーランの剣から青白い、稲光のような線が無数にイドルの表面を走り抜け、直後、その線をなぞるように表皮が割れたのだ。
割れ目から漏れた青白い光は鮮烈で、だが数秒後には消えた。
そして、その光が消えた時にはイドルは完全に動かなくなっていた。
支える力を失って落ちていくイドルの頭を蹴り軽やかに着地したキーランの背後で、イドルは最後に地を揺らしながら倒れ伏した。
「アリサさん、息をして!」
ルイに声をかけられ、ハッとする。
心臓が激しく鼓動して、体が大きく震えた。
キーランがこちらに歩いて来る。その背後で、イドルの体はボロボロと崩れ始めた。ほんの何度かの瞬きの間に跡形もなくなってしまう。
それを見届けたロナンも、乗っている馬の首を撫でるとこちらにやって来た。
「アリサ、イドルの巣を片付けて来るから先にロナンたちと宿に向かってくれ」
「……え……? あ……」
うまく返事が出来ない亜里沙の右肩を撫でるように触れると、キーランは安心させるように微笑んだ。
「あの一匹しか出て来ていないし、多分小さい巣だからすぐに片付く」
「歩いて行くんですか?」
呆れたようなロナンに「すぐ戻る」と答えて、キーランは行ってしまった。
「アリサさん、もう大丈夫ですからね」
馬から降りたロナンが亜里沙に声をかける。
「でもキーランが……」
「ご覧になったでしょう? 彼なら心配いりません」
ロナンを見上げる亜里沙。
亜里沙と目が合うと、ロナンも亜里沙を安心させるように微笑んでくれる。
「あの……力は、なに……?」
キーランを心配しなくてもいい理由が、常人を超えた身体能力というよりも、多分最後に見たあれにあるのだろう。
だが亜里沙には、あれが良いものには見えなかった。
イドルも、あんなものも、見た事が無かったのだから当たり前かも知れないが、亜里沙は今、怖くてたまらなかった。とても心配しなくていいなんて思えない。
「貴女の疑問には何でもお答えしましょう。ですが、まず体を休めて、落ち着かないといけませんね」
さあ、と促され、準備を整えた二台の荷馬車は再び街道を走り始めた。
それから一時間半ほどで、街道沿いに何軒かの建物が建つ小さな集落に辿り着く。
この先にアウルマルク、そして王都マグヌフィリアがある。
この集落にも砦があり、到着したロナンは砦に常駐していた兵士に事情を話していた。
「第二王子殿下のお陰で駐屯する兵士が増えていて助かりました。森を含む地域の巡回を強化してくれるそうです」
「キーラン様はどうなさいますか?」
「自力で戻って来るだろうから、私たちは宿で待っていよう」
ここに建ち並ぶ建物の何軒かは宿だという。馬を預かってくれる大きめの宿に入り、宿泊の手続きを済ませる。
入り口の正面に受付があり、その奥、左右に階段。一階の左右にはテーブルと椅子が並んでいて、チラホラと食事をする人々がいる。その半分は同じ格好をしていて、軍人だろうか、部分的に金属の鎧が見えた。
木造の建物で、少し薄暗いが温かみのある灯りにあふれた宿は亜里沙の緊張を少しずつほぐしていった。
亜里沙はひとりで一部屋を与えられた。
ベンが「この時期に客足が遠のくとは……」と呟いていたのを聞いてしまった。その原因は先ほど見たから亜里沙にでも分かる。
イドルが増えているのだ。
食事より先に上がった室内は素朴で、ロナンのテントの中と大差ないように思える。さすがにベッドはこちらの方がしっかりして見えるが。
ただ、今の亜里沙にはとても安心出来る空間だった。
下に降りた亜里沙は食堂内の人たちに何となく見られている気がして、厩舎に逃げた。
厩舎には他にも馬がいて、宿の人が飼料を与える作業を手伝わせてもらう。
亜里沙は、来訪者様では、と喜ぶ宿の人に、うまく笑顔を返せたか自信が無かった。




