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そして私は、救済の聖女になった。  作者: 五乃ふゆ
第五章

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決壊

 どのくらいの時間ホールで待たされたのか分からない。

 亜里沙はひたすら祈っていたが、一度だけニーズがそれを遮ってきた。


『気持ちは分かるが、どんな内容であろうとお前は祈ってはいけない。もし我に届いてしまえばお前の身に何が起こるか分からない』


 亜里沙は唇を引き結んだ。

 祈らずにいるという事は今はとても難しい事だった。だが、ここでまた倒れでもしたら更に事態は悪化する。

 亜里沙はなるべく空っぽになるように、頭を振って深呼吸を繰り返した。



 その時、ホールにとても会いたかった人物のひとりがふらっと現れた。


「ソフィー!」


 おぼつかない足取りのソフィーが、亜里沙を振り向く。

 エンリクが安堵して息を吐いたのが分かった。


「ソフィー! 良かった! ケガはない!?」


 亜里沙はソフィーに駆け寄って抱きしめる勢いで両肩に手を添えた。


「アリサ様……」


 ソフィーの様子がおかしい事に、亜里沙はやっと気付いた。

 亜里沙の胸が不安でざわめく。


「どうしたの……?」


 ソフィーは青ざめた顔で、小刻みに震えている。


「ア、アリサ様……わ、私の、兄……レオ、レオが……」


「え……どうしたの?」


「アリサ様っ……お助けください……レオが!」


「ソフィー、落ち着いて説明しなさい」


 ソフィーは震えながらエンリクを見上げ、うわ言のように言った。


「レオが……私を庇って……キーラン様が来てくださって……グラに……でも、私だけ……私だけ……!」


 キーランがソフィーだけを連れてその場を離れたのだと、亜里沙にも理解出来た。そしてソフィーの声色には、どこかキーランを責めるような棘を感じる。エンリクにも伝わったのか、口調が厳しくなった。


「落ち着け。キーラン様の判断は正しい。レオは騎士だ。お前を助けてくださったのだって、本来なら必要のない事だった」


 亜里沙は驚いてエンリクを見たが、その顔は苦しげに歪んでいる。


「それで、キーラン様は?」


 ソフィーは小さく首を横に振った。


「アリサ様、騎士の居館に重症者が運ばれる部屋があります。一緒に行っていただけますか」


 エンリクの表情に、その本心が滲み出ているようだった。

 断る理由などない。亜里沙は頷いて、エンリクについてソフィーを支えながら移動した。




 その広い部屋にはいくつもベッドがあって、中は人で溢れ返っていた。


 そこには亜里沙が何としても無事を確認したかった人たちがいた。


 真っ先に目に入ったイザベラは、侵食以外にも大怪我を負っており、意識なくベッドに横たわっている。司祭が聖水で治療しているのが見えた。

 その隣のベッドにキーランが今目覚めたように身を起こしていて、側に立つロナンが亜里沙に気付いた。

 翔は少し離れた位置で治療を手伝っている。


「アリサさん、無事で良かった」


 亜里沙の側に来たロナンは安堵した様子だ。

 そして、亜里沙の視線を追って、静かに言った。


「イザベラなら大丈夫ですよ。傷は深いですが、命は助かるはずです」


「レオ……」


 ソフィーが呟く。ロナンが気付いて、難しい表情でエンリクに近付いた。


「侵食が激しく、イドル化の危険が高い者は別に集められている」


 亜里沙は殴られたような衝撃を覚えた。今の言葉はソフィーには聞こえていないようだ。

 恐る恐るエンリクを見上げると、一見冷静に見えるが、堪えきれない絶望がその顔に浮かんでいる。


 亜里沙は無意識に口を開いていた。


「私をそこに連れて行って」


 ソフィーが振り向くのを感じる。エンリクは無言のまま立ち尽くしている。亜里沙に見つめられたロナンは、顔を曇らせた。


「無茶をしないと約束してくださるなら」


 亜里沙が頷くと、ロナンは亜里沙たちを促して部屋を出た。




 居館からも出た亜里沙たちは城塔と住居が一体になった建物の中に入った。中は更に質素だ。ロナンに案内されやって来た廊下に、並ぶドアの一つが開かれる。


 簡素なベッドの上に若い騎士が横たわり、暗い顔をした司祭と、他にふたりの騎士が側に立っていた。


 横たわる騎士の顔の半分以上が侵食で黒く変色している。


「レオ!」


 ソフィーが鋭く叫んで駆け寄った。そのソフィーの体を、騎士のひとりが捕まえる。

 よく見るとそれはソフィーの長兄のビクトルだ。

 横に無言のまま立つ年長の騎士は、エンリクくらいの年齢で、顔立ちもよく似ている。


「聖水の恵みにより、もうこの者が闇に堕ちる事はありません。女神に許され安寧を得て旅立つ時が来たようです」


 司祭の言う事は分からない。だが、ソフィーが取り乱し、ビクトルの横顔が目を伏せたので充分だった。

 亜里沙は体中が冷えていくような心地でソフィーに歩み寄った。

 ソフィーが振り返って亜里沙にしがみつく。


「助けてください! アリサ様、あ、兄を……!」


「ソフィー」


 年長の騎士が低く名を呼ぶ。亜里沙は安心させるようにソフィーの腕をそっと掴んで、ビクトルの向かいに、レオの側に立った。


「アリサさん」


「お願い、少しだけ」


 懇願するように呟き、両手をかざす。

 レオが荒い呼吸を繰り返しながら、うっすらと目を開ける。


『……分かっていると思うが、もう助からない』


(でも……でも、ソフィーの家族だよ……)


 亜里沙の額に大粒の汗が浮かび、両手がガクガクと震え出す。

 エドワードを治療した時からまだ回復しきれていないのだ。

 亜里沙は歯を食いしばった。


 ソフィーが小さく息を呑む音が聞こえる。


 そして、亜里沙の中にとても簡単に、身勝手で都合の良い考えが浮かんだ。


(もし……もしも、今度もまた角で済むなら……)


『馬鹿を言うな!』


 亜里沙がニーズの怒声に肩を揺らした時、側にやって来たソフィーが亜里沙の手を握った。


 亜里沙は驚いて振り返り、そしてニーズがやったのか、力の流れがふつと途絶える。


 ソフィーは目を潤ませながら、だが先程とは全く違う顔付きで亜里沙を見つめた。


「私が……間違いを申しました。もう、おやめください。アリサ様を危険に晒す事など出来ません」


「……でも!」


 亜里沙の表情が崩れるのを見て、ソフィーの目から大粒の涙がこぼれた。


「たとえ、アリサ様が、あの時の……」


 口に出来ない事だからか、一度言葉を切ってソフィーは続けた。


「アリサ様のお力を使うような事があったとしても……その相手が、私の兄であってはいけません……!」


 亜里沙は目を見開いた。唇を噛み締めて顔を歪ませるソフィーの肩を、恐らく父親なのだろう、年長の騎士が抱き寄せる。その時。


「ソフィー……泣くな……」


 弱々しいながら、まるで優しく笑いかけるかのような声がした。

 亜里沙はレオの顔を振り向く。


 レオは視線だけ動かして亜里沙を見た。


「来訪……者様……アリサ、様……お陰で、もう痛くありません……感謝、します……」


 ビクトルがレオの手を握りしめ、亜里沙の隣に立ったソフィーもレオの手に縋り付く。


 レオの荒かった呼吸が落ち着き、ゆっくりと目を閉じる。少しして、その呼吸音も静かに途絶えた。


 離れた位置から見ていた司祭が祈りの言葉を捧げて、礼をすると退室する。


 ソフィーが声もなく崩れ落ちる。

 呆然と立ち尽くす亜里沙にそっと近付いたロナンが無言で亜里沙を促した。


 ロナンに付き添われて退室する時、目が合ったエンリクは亜里沙に向かって深く礼をした。



 部屋から出た亜里沙は、足の力が抜けて廊下の隅に座り込んだ。


「亜里沙ちゃん!」


 翔が息を切らせながらやって来る。


「翔くん……私……」


 亜里沙を心配する翔の顔を見たら、堪えていたものが一気に噴き出すように、亜里沙の目から次々と涙が溢れ出た。


「何で、上手く出来ないのかな……何でっ……私は、他の来訪者と、変わらないのに……!」


「え……、どうしたの……」


 翔が戸惑う。亜里沙はただ苦しい気持ちを吐露した。


「私……、全然ちゃんと出来ない……! 助けたいのに、ちゃんと、役に立ちたいのに……! ま、茉利咲じゃなくても、ちゃんと……!」


「……亜里沙ちゃん」


「助けられなかった……! ごめん……ごめんなさい……!」


 止まらない涙を何度も腕や手で拭う。罪悪感に苛まれて、ごめんなさい、と繰り返し呟く。



 そうしていると、やがて、翔の小さな声が降って来た。


「……何で謝るの?」


 亜里沙は顔を上げて、翔を見る。

 翔の暗い目には、はっきりとした怒りがあった。


「何で謝るんだよ……望んでないのに、何もしてないのに、勝手に連れて来られた世界で何も出来なかったからって、何で謝らないといけないんだよ!」


 翔の怒鳴り声に、亜里沙は目を見開いた。


「俺たちは被害者だろ! なのに何で、この世界の人間でもないのに、この世界の為に命を賭けたり、命を背負ったりしないといけないんだよ! 助けられなかったら何だって言うんだよ……仕方ないだろ……そもそも俺たちに、亜里沙ちゃんに、責任なんかないだろ!」


 亜里沙が見つめると翔は泣きそうな表情を浮かべる。


「もうやめてくれよ……正直、亜里沙ちゃんのそういうところ、きついんだ……」


 その時、ドアが開いた。

 まだ涙を拭い切れていないソフィーが、翔を見て眉尻を下げる。


「……カケル様? どうかなさったのですか?」


 翔はソフィーを見て、ソフィーの向こうに広がる光景に視線を移して、目を見開いた。

 さっと青ざめて、後ろによろめく。


「あ……俺……」


「カケル様?」


 ソフィーの心配そうな声を聞いて、翔はくしゃっと顔を歪ませると、踵を返して走り去ってしまった。


「あ……!」


「私が追うから、アリサさんを頼むよ」


 ロナンがそう言って、足早に翔を追いかけた。


 亜里沙は翔が去った方から、しばらく目を逸らせずにいた。

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