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そして私は、救済の聖女になった。  作者: 五乃ふゆ
第五章

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ルチア

 亜里沙は気持ちの悪い浮遊感の中にいた。

 遠くからニーズに名前を呼ばれているような気がする。

 返事をしようと目を開けた時、心配そうにこちらを覗き込むエドワードの顔が見えた。


 何度か瞬いた後、体を起こそうとして、亜里沙はハッとした。その瞬間、息が止まる。対してエドワードは小さく息を吐いた。


 今亜里沙はソファに横たわっていて、エドワードは側に屈んで亜里沙を見ていた。


「気が付いて良かった……体の調子はどうだ?」


「私……!」


 勢いよく起き上がって視界が回る。強い目眩を感じたが、今はそれどころではない。


「どのくらい寝てた? 外のみんなは?」


 亜里沙は頭を押さえながら何とかソファに座り直した。

 エドワードに聞いたつもりだったのだが、予想外のところから答えが返ってくる。



「心配しなくても数分も経っていないわよ」


 聞き慣れない声がした。

 美しく、だが温かみのない声。


 エドワードが立ち上がって声の主を振り向く。

 そうして、亜里沙にもその人物がはっきりと見えた。向かい側のソファに浮世離れした雰囲気の美しい女性が座っている。


 プラチナブロンドの長髪に、夕焼けの太陽のような色の瞳。肌は病的に白くて、だが弧を描く唇は妙に艶やかだ。


 清楚な白と青を基調にした衣服に身を包んだ、以前テレビで見た事がある聖職者のような姿をした女性。


「初めまして、アリサ」


 女性は美しい笑みを浮かべると、目を細めて頭を傾げた。

 どこか恍惚とした表情で見つめられた亜里沙は、全てが美しいこの女性に、何故か寒気を覚える。


「どうぞ、王子様方もお座りくださいな」


 言われて気付いたが、パーシヴァルもこの場にいて、亜里沙の左隣に腰を下ろす。

 エドワードは右側に座った。


「ねえ、それで、この子はわたくしのもの、という事でいいのよね?」


「え……」


 何を言われたのか分からず、口が開く。


 パーシヴァルもエドワードも答えず、その女の三日月のように細められていた目が少し見開かれた。


「わたくしにくださるのよね?」


 その子、と、細い指が亜里沙に突き付けられる。

 亜里沙は妙にこの場が息苦しい事に今更気付いた。

 この、柔らかく、繊細な絵画に描かれたような人物から、恐ろしい程の威圧感が放たれている。


「猊下。彼女は我が国の来訪者です」


 亜里沙は誰も口がきけないと思ったが、パーシヴァルは平然とした声色で断った。

 猊下。ではこの人がやはり聖王なのか。

 この人が、永遠の若さと生を祈って、それを手に入れた人──


「あ、そうだわ」


 パーシヴァルの返答などなかったかのようだ。聖王はまるで乙女のように目を輝かせ、両手を可愛らしく合わせて亜里沙に見入った。


「まだ名乗っていなかったわよね。わたくしはルチアよ。もっと長い名前なんだけど、あまり好きじゃないから、ただルチアと呼んでちょうだい」


 聖王に謁見したら、来訪者──恐らく亜里沙のせいで、聖王が死ぬという予言の事や、ニーズの事など、聞いてみたい事があった。だが今はそんなもの、どこかへ吹き飛んでしまった。

 このまま気圧され続けている訳にはいかない。

 亜里沙は拳を握りしめて、黙って従わなければならないかのような、この妙な空気を無視した。


「あの、聖王様、今外で戦っている人たちを助けたいんです。私が来ればイドルの問題を全て解決してくださるって聞きました」


 ゆっくりと、ルチアの口元から笑みが消える。

 笑みが消えると、彫刻のような整った顔立ちのせいか一気に周囲の温度が下がるのを感じた。

 だがここで引き下がれない。


「お願いします! 助けてください!」


「アリサ、きみは発言を控えるように。私が話をするから」


 パーシヴァルから嗜められるが、ルチアは再び口角を吊り上げた。


「あら、可愛らしくていいではないの。ではこうしましょう」


 ルチアはゆったりした衣服の袖の中から丸めた羊皮紙を取り出した。とても綺麗な色で、高級なものなのが一目で分かる。


「実は事前に用意していたのよ。ここにいる王太子や、他国の欲深くて頭の固い人たちに口出しされると面倒だから」


 話が早くて助かるわ、とルチアはそれを広げてテーブルの上にすっと差し出した。

 亜里沙は羊皮紙を見たが、ただその上を目が滑るだけでちっとも内容が入って来ない。

 亜里沙の混乱した様子に、ルチアはふふ、と優雅に笑った。


「理解出来なくてもいいのよ。これは要は、アリサ、あなたが全てわたくしの言う通りにすると誓う事を示した、誓約書なの」


「……え?」


「あら? あなたの世界にもあるんでしょう? これは誓約の儀式よ」


「猊下、それが目の前に差し出されているのに、私が黙って署名させるとお思いですか?」


 何も言えない亜里沙の代わりにパーシヴァルが言った。


「あら……」


 ルチアの機嫌が急降下した事が、その低い声で分かる。


「では代わりに何をくださるの? やはりキーランをわたくしにくださるのかしら」


「それは何度もお断り申し上げました」


「限界まで譲歩して、あなたとわたくしの婚姻でも構わないのよ」


「それでアリサやキーランを好きに扱えるとお考えですか? 婚姻の件も以前にお伝えした通り、猊下と私の立場では無理な話です。それに、我が国にとっても利するところがほぼありませんので」


「まあ……羽虫のようにうるさいだけでも不快なのに何て無礼な男なのかしら」


「対外的に申し上げた事であって、猊下を侮辱したのではありません」


 それに、とパーシヴァルは続ける。


「イドル発生時及び来訪者出現の際の四国間の取り決め、イドルの問題についての協定、こうした全ての条約については何度も協議が行われ締結された」


 ルチアの目が不快感を表すように細められる。

 しかし淡々としたパーシヴァルの言葉はなおも続いた。


「度重なる見直しを経て、最終的に改正が行われたのは約三十年前で、猊下ご自身の署名も確かにあったと記憶しています。そもそも猊下の発言によって採択された箇所が随分とあったはずですが、お忘れですか」


 はあ、と、ルチアから大きなため息が漏れた。

 ため息にさえ気品が感じられるが、同時に、全てに失望してしまったと代弁するかのようだった。


 ルチアは突然どこか遠くを見るような目付きで窓に目線をやった。

 こめかみに細い指を押し当てて退屈そうな顔をする。そのまま黙ってしまったので、亜里沙は焦りが膨らんで口を開いた。


「聖王様、お願いです! 力を貸してください!」


「どうして?」


 目線は窓の外のまま、ルチアが聞いた。


 その時不意に、ニーズが起きる気配がした。


「どうして、わたくしが? それこそ、わたくしに何の利点があるの?」


「え……」


 亜里沙には、ルチアが何を言っているのかまるで理解出来なかった。

 イドルがすぐ外にあんなに沢山いるのに、“利点”?


「猊下。我々の方こそ既に限界まで譲歩しています。そろそろ条約に従ってください」


「よく言うわ。この状況を利用して()()()()()()を排除したくせに」


「……何のお話でしょう」


「わたくしが何も知らないとでも? まあ、わたくしにとっても要らないものだから、知らないフリをして差し上げてもいいけれど」


 このふたりは一体何を話しているのだろう。

 そもそも、難しい話は抜きにしてもイドルがもしも石壁を登ってこの中に入って来たら?

 ルチア自身だって危ないはずだ。



『……この女がイドルの侵食で死ぬことはない。アストラムの血が他の人間より濃いという事もあるが、そもそも不死なのだから』


 亜里沙が心の中でニーズに答えようとした時、ルチアの目が見開かれた。

 ゆっくりとその視線が亜里沙に移る。

 その美しいのに恐ろしい形相に、亜里沙も目を見開いてルチアを見た。


 ルチアは歪んだ、狂気的な笑みを浮かべた。


「ああ……今あの方がそこにいらっしゃるの?」


 誰と言わずとも、それがニーズの事を指しているのだと亜里沙はすぐに分かった。


「今何かお話しになったのではなくて? ああ! ずっと、ずうっと、お会いしたかったのよ! 名前はなんておっしゃるの? どんなお姿なの?」


 勢いよく立ち上がったルチアに驚いた瞬間、エドワードに両肩を掴まれて、亜里沙はソファから立たされた。

 気付いた時にはエドワードの背に庇われ、目の前ではパーシヴァルが立ち上がってルチアの進路を妨害している。


「邪魔なんだけれど」


 苛立ちを隠さない声でルチアが言った。

 しかしパーシヴァルの調子はずっと変わらない。


「やはりお忘れのようですね。猊下ご自身でお決めになったも同然の条約の内容に則るなら、今私にはこの場で猊下を裁く権利があるのですが」


 ルチアは再び大きなため息を吐いた。


「三十年前のわたくしはそんなに、この世界にも来訪者にも寛容的だったの? ほとんど狂ってるじゃない」


 覚えていないわ、とルチアは嘆くような素振りを見せる。


「最近物事をよく忘れるの。長い……とても長い間この世界に尽くしすぎた代償かも知れないわ」


 そして、その視線は再び亜里沙に注がれる。

 そこには憎悪のような、愛情のような、表現しがたい激しい感情が込められているようだった。


「アリサ、あなたがわたくしに何でもすると誓えるなら外の虫ケラどもを助けて差し上げる。その代わり全てを捧げると誓いなさい」


「返事をするな、アリサ」


 エドワードが小声で言うが、亜里沙はルチアの視線に絡め取られたような錯覚から、目を逸らす事が出来ない。


 亜里沙がその迫力に恐怖した時、どこからか鮮烈な怒りが湧き上がった。


 その苛烈さで体の中から燃えるような熱を感じる。

 亜里沙は驚いたが、対してルチアはビクッと体を震わせ、目を見開いた。


「あ……ああ……」


 ルチアは美しい指先をそっと自分の喉に当て、小さく呻くような音を何度か発した。ルチアの顔が歪む。


「お怒りに……ならない、で……」


 一体どうしたと言うのか、ルチアの声はまるで喉がきつく締められたかのようだ。

 亜里沙は訳が分からずエドワードとパーシヴァルを見た。だが亜里沙の視線を受けてこちらに目をやったふたりも、表情を見る限り何が起こっているのか分からないようだ。


「分かった……分かったわ!」


 ルチアはそう叫んだ後、まるで今まで息が吸えなかったかのように大きく呼吸した。


「本当に……恐ろしい方ね……」


 忌々しいと言いたげに呟いた後、「でもそこがたまらないのよ」と、ぞっとするような恍惚とした顔になる。

 歪んだ笑みを浮かべたまま、ルチアはパーシヴァルの前を通り過ぎると、ドアに向かった。


 そして、ああ、と声を上げて足を止める。


「わたくし、アリサに嫌われたくないの。だから手を貸してあげるのよ。でもその代わり、これが終わったらわたくしの話をちゃんと聞いてちょうだいね」


 ルチアが退室して、その姿を目で追ったパーシヴァルは、亜里沙を振り向いた。


「我々も行こうか」


 そして先に出たパーシヴァルを追って部屋を出ようとした時、エドワードが亜里沙の手を引いて止めた。


「待て、アリサ」


 振り返るとエドワードとの距離が近く、深刻な顔で見つめられる。


「体は大丈夫なのか? 治療をした時も無理をしていたし、先程のあれは……お前の中にいる存在の仕業だろう?」


 言われて初めて、あの怒りがニーズのものだったのだと気が付いた。


『……我はあの女に特に何かした訳ではない。治療以上の負担はなかったはずだ』


 亜里沙は首を横に振った。


「大丈夫。それより今はみんなを助けないと」


 エドワードは亜里沙の手を離し、分かったと小さく頷いた。



 そして亜里沙は、エドワードと共に再び城の外へと向かった。

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