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そして私は、救済の聖女になった。  作者: 五乃ふゆ
第四章

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侵食

 夕食後、どうしてもエイルセンのその後の様子が気になった亜里沙は、イザベラに相談した。

 自分があれ以上何かを出来るとは思えなかったが、娘を頼むとまで言われてしまったのだ。


 イザベラは難しい顔をしていたが、亜里沙が食い下がると根負けしたようだった。


「ご息女の事は心配いりませんのでご安心ください。それと、エイルセン伯爵ですが……出来たとしても、恐らく部屋の外から尋ねる程度だと思います」


「うん、それでもいいよ」


 亜里沙はソフィーに行ってくると告げると、イザベラと共に先程の寝室の前に移動した。

 この部屋と隣の執務室の外には騎士と兵士がふたりずつ立っている。

 そして亜里沙がやって来た時、ロナンが寝室の前に立っていた。


「……アリサさん」


 こちらを振り向いたロナンはいつも通り──だが、この薄明かりのせいか、その顔は青白く見える。


「オリバーなら、どうやら今は落ち着いているようですよ」


「そうなんだ……良かった」


 騎士を見ると、ロナンの言葉を肯定するように頷いた。亜里沙はひとまず安心して、ロナンを見上げる。


「あの……大丈夫?」


「え?」


 目を丸くするロナン。亜里沙はほんの少し近付いて顔色を確認した。やはり、灯りのせいではなさそうだ。


「顔色が良くないように見えるけど……」


 ロナンは、ああ、と呟いて困ったように微笑んだ。


「大丈夫ですよ。少し疲れが出ただけです」


 少し程度だろうか? いつも通りかと思ったが、注意してみると声にも疲労が滲み出ているようだ。


「私はもう休みますので、心配しないでください」


 やんわりと拒絶するような言い方に、亜里沙はそれ以上踏み込む事が出来なかった。


 おやすみなさい、と言って去る後ろ姿を黙って見送る。

 だが、何故かこのまま放置してはいけない気がして胸がざわつく。


『あの男から穢れの気配がする』


 ニーズの小さな声がして、亜里沙は息を呑んだ。


(えっ? 穢れ?)


 そして、気付いた時にはロナンを追って足が動いていた。


 イザベラの驚いた声に名を呼ばれるが、構わずロナンに駆け寄る。

 イザベラは亜里沙を止めないでいてくれたので、ロナンが部屋のドアの前で立ち止まった時に追い付く事が出来た。


「アリサさん?」


 こちらを振り向いたロナンの顔は、やはり青白い。


「大丈夫? もしかしてロナンも侵食を受けたりしてない?」


 ロナンは眉を顰めた。


「なぜそんな事を聞くんです?」


「えっ、それは、その」


「……理由は分かりませんが、心配してくれているようですね。私なら大丈」


 言葉の途中で、ロナンは手で口を覆った。

 すぐに部屋のドアを開けて中に入る。亜里沙は閉められないように多少強引にドアを掴んで、ロナンを追って部屋に踏み入れた。


 そして、ベッドの方へ向かっていたロナンは苦しげな唸り声を上げた。そして、亜里沙の目の前で激しく咳き込んだかと思うと、前のめりに倒れ込んだ。


「ロナン!」


 亜里沙は側に駆け寄って膝を付いた。

 ロナンは片手を床につき、もう片方の手で口を押さえていて、その指の隙間から黒々とした液体が流れている。


「えっ、これ……血が……!」


 亜里沙はあまりに驚いて頭が真っ白になった。


「……騒がないで」


 目の前の状態にまるでそぐわない、ロナンの落ち着いた低い声が、そう言った。


「誰か呼びましょうか」


 開いたドアの外からイザベラが声をかけてくる。


「いや。誰にも知られたくないからそこでドアを守っていてくれ」


 承知しました、と言ってイザベラは背中を向けた。


 イザベラといい、血を吐いた張本人であるロナンと言い、どうしてここまで冷静なのだろう。

 再びロナンが咳き込んで、亜里沙はますます混乱したが、「落ち着いて」と言われて硬直する。


「何か拭うものを取ってくれませんか。まだ立てそうにないので」


 亜里沙は大慌てで部屋を見回し、ベッド脇にある小さなテーブルに乗っていたリネンの布を手に取った。清潔かどうかを確認して、ロナンの側に戻る。

 亜里沙から布を受け取ったロナンは、礼を言ってそれで口を押さえた。


 ロナンを支えて、ベッドに寄りかからせる。


「……貴女にはこんな姿を見せたくなかったのですが……驚かせてすみません」


「誰かに診てもらった方がいいんじゃないの? この砦ってお医者さんはいないのかな」


「いいえ、すぐに治まるので必要ありません。アリサさんも、この事は誰にも言わないでください」


 亜里沙は信じられない気持ちで、どこまでも冷静なロナンを見つめる。


「どうして……まさか、初めてじゃないの?」


「ええ」


 ロナンはため息を吐いて、左腕の袖を捲ってみせた。


 驚いて吸い込んだ息で喉が鳴る。


 そこにあったのは、とても大きな侵食の跡だ。袖の中にまで続いているので、かなり大きい事が分かる。

 いや、跡というよりも、今現在その黒い痣は蠢いて、それ以上に広がろうとしているようにも見える。


『これは……ここまでの侵食で生きているとは…… 範囲はそれ以上広がっていないようだが。侵食が活動と休止の状態を繰り返している、のか?』


 ニーズが難しい声で呟く。


『浄化ではなく、来訪者が力で無理矢理抑えたようだな。辛うじて今の状態を保っているように見える』


「こ、これ、どうしたの……?」


「キョウコ……、キョウコさんの、護衛として旅の供をしていた際に負った侵食です。彼女の力のお陰で奇跡的にこの状態で止まってくれています」


 そして、と、ロナンの声が自嘲的になった。


「私が騎士を辞めた理由はこれです」


 亜里沙は何も言えずに侵食の跡を見つめた。ロナンはそれを遮るように、そっと袖を戻す。


「もう少しで心臓に達するところでした。私が今生きているのは、キョウコさんのお陰なんです。ここしばらくは落ち着いていたのですが……少し、疲れが響いてしまったようですね」


「あの……もし良かったら、私も力になれるかも……少しでも、良くなるかも知れない」


『アリサ』


「いいえ。必要ありません」


 ニーズの咎めるような声が上がるのとほぼ同時に、ロナンがアリサの提案を断った。


 亜里沙はロナンの顔を見た。ロナンのその目は、亜里沙を拒絶しているかのようだった。


「あ……ごめん……」


 亜里沙が小さく謝ると、ロナンは亜里沙から目を逸らした。


「心配をしてくれた事は嬉しいです。でも、この状態で十年無事でしたし、古傷のようなものです。こうなってもすぐに治まるので」


『アリサ、力を使う事を容易く考えるな。下手をすればお前の身が危ないのだぞ』


(分かってるけど……でも……放置していい状態には見えないよ……)


 どうしてキョウコはクルスの力をそんなに自在に操れたのだろうか。いや、キョウコだけではないだろう。

 ニーズの話の通りだとクルスよりもニーズの方が強いはずなのに、その力を引き出す事が出来ない自分が、亜里沙は情けなかった。


 亜里沙はまた、隠されてしまった侵食の跡を見つめるように、ロナンの左腕に目線を戻した。


 ロナンとの間には不穏な事もあるが、ここまで助けてくれた事実は変わらない。一緒に遠征にまで来てくれたのに、自分は肝心な時に何も出来ない。その悔しさで唇を噛み締める。


「アリサ」


 呼びかけられて顔を上げると、ロナンが亜里沙を見つめていた。

 それはとても真剣な目で、今まで見たどの表情とも違う。


「……そう思い詰めないでください。身を削るような力なら、使えない方がいい。貴女は無事生き延びて、そしているべき世界に帰る事だけを考えてください」


 亜里沙が目を瞬くと、ロナンはいつもの穏やかな笑みを浮かべた。


「私はずっと貴女の味方です。キーランやイザベラのようには出来ませんが、それでも、貴女を守ります」


 その優しい言葉に、亜里沙はどう返していいのか分からなかった。

 しばらく見つめ合った後ようやく頷いて、ぎこちなく「ありがとう」と口にする。

 ふっと笑うロナンの顔を見たら、わだかまっていたものが解れた気がした。



 亜里沙はまだ立てずにいるロナンの体調が心配だったが、「貴女の騎士が心配しますから」と断固として拒否されては立ち去るしかなく、渋々部屋を後にした。


「イザベラ……知ってた?」


 静かにドアを閉めて、イザベラを見上げる。

 イザベラは眉をハの字に下げた。


「ひどい侵食を受けて助かった事までは。ただ、あそこまでとは……」


 先程はとても冷静に見えたが、今のイザベラは騎士ではなく、幼馴染をただ心配する友の顔をしていた。




 その夜。

 亜里沙はニーズの意識に入る事なく眠りについた。


 しかし、夜明けの薄明が砦に差し込む頃、一つの轟音が亜里沙を覚醒させたのだった。

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