綻び
騎士を通して呼ばれた亜里沙は、イザベラと共に二階にある部屋に移動した。
そこは執務室のように整えられた部屋だった。
亜里沙が部屋に通された時、エドワードは腕を組んで難しい顔で考え込んでいた。
キーランとロナンもいて、こちらを振り向いたロナンと、亜里沙はようやく目が合った。
「……すまないな」
亜里沙を見て開口一番謝罪を口にしたエドワードの表情は険しいままだ。
「エイルセンがキーランを怖がって治療が出来ない。聖水で治療しようにも残りの量が少なく、騎士や兵が近付くと、暴れて手が付けられない状態だ。僕やマクベルドでも駄目だった」
「軽傷であれば放っておいても自然に侵食が止まる事があります」
「だがその事例は多くない。何よりエイルセンの侵食は今も広がっているし、放置すれば命に関わる」
エドワードは小さく息を吐いて、呟く。
「まだエイルセンを死なせる訳にはいかない」
「ですが殿下、王太子殿下は」
「その話は後だ、マクベルド。それに、あと何度同じ事を言われようと僕は納得など出来ない」
ロナンはまだ何か言いかけた。だがエドワードは強引に話を切って、亜里沙を見た。
「エイルセンは来訪者となら話すと言っている。治療は……出来る限りやってみてくれないか」
エドワードの表情を見ると、それを亜里沙に頼むのがどれだけ不本意な事なのかが分かるようだった。
「……実に都合が良い話ですね」
ロナンの冷たい声が、静かにそう言った。
エドワードは僅かに眉間を寄せたが、反論するでもなく、ただ亜里沙を見ている。
亜里沙の返事を待つエドワードの代わりに、ロナンが側に来て声を落とした。
「アリサさん、貴女が決めてください。ただ、私と約束した事を忘れないで。くれぐれも無理はしないでくださいね」
「う、うん……あの、やってみます」
「アリサ」
キーランに呼ばれて振り向く。
「侵食の治療は難しいから、焦ったら駄目だ。少しでも体に異変を感じたらすぐに止めるんだよ」
亜里沙が真剣な顔で頷くと、キーランは元気付けようとしてくれたのか、微笑を浮かべた。
「……では、ついて来てくれ」
どこか浮かない表情のエドワードは亜里沙を見やって部屋の外に出た。
エドワードについて隣の部屋に入る。
執務室からこの部屋の前の通路にはイザベラ以外にも何人か騎士が立っている。
しかし中に入ると、そこには一人の貴族しかいなかった。
そこは砦の中にあるにしては豪華な寝室だった。
石の壁に囲まれていて、肌寒いし、薄暗くはあるが、居心地は悪くなさそうだ。
その中に、ベッドの側を落ち着きなくウロウロしていたのは、年齢はロナンとそう変わらなく見える男だ。着ている服は質素だが、やはり貴族だと分かる格好だった。
エイルセンがこちらを見て、足を止める。
亜里沙を確認すると、強張った顔で目を見開いた。
「……そ、それが、来訪者か。アリサ、確かそうだな?」
小さく呟かれた声は微かに震えている。
平常であれば人の良さそうなその顔に、恐怖の色が浮かんでいる。
「誰に名前を聞いた?」
エドワードが鋭く聞くが、エイルセンは何かを考え込むように目線を泳がせていて、答えない。
エドワードは小さくため息を吐いた。
「エイルセン。話しても構わないが僕が同席する事が条件だ。いいな?」
「あ、ああ……いや! 駄目だ!」
突然の叫ぶような声に驚いて肩が揺れる。
エドワードは亜里沙の前に一歩進み出た。
「ならば話は終わりだ。押さえ付けてでもキーランの治療を受けさせるが、いいか」
「だ、駄目だ! あの方は駄目だ!」
短い唸り声を何度か発して、エイルセンは震える拳を口元に持っていく。
その姿勢のまま、しきりに何かを呟きながら、再びその場をウロウロした。
「分かった……分かった、それで、構わない」
そう言うが早いか、エイルセンは突然亜里沙に向かって大股で踏み出した。
エドワードがすかさず割り込んで右手で胸倉を押さえて制止する。
「止まれ!」
エイルセンはエドワードに押さえられたまま、肩越しに食い入るように亜里沙を見つめた。
亜里沙はこんな目付きの人間を今まで見た事がなかった。辛うじて分かる事は、エイルセンがこれ以上ないくらいに恐怖し、追い詰められているという事だ。それはどこか、ティラにいたあの傭兵の表情を思い出させる。
「来訪者……来訪者様! これまでの来訪者と違ってあなたは話が通じると聞いた。頼む……私の頼みを聞いてくれ」
「えっ……」
「アリサ、迂闊な事を言うな」
エドワードが小声で伝えてくる。
エイルセンには聞こえていないようで、頼む、と何度も繰り返す。
軽いパニックに陥った亜里沙は、何とか平常心を保とうと、口を開けた。
「あ、あの、とりあえず、侵食の治療をさせてください」
まだ落ち着きなく体を小刻みに震わせているが、エイルセンはエドワードの指示に従って椅子に腰掛けた。
小さなテーブルに、右腕の袖を捲って乗せる。
確かにそこには小さな黒い痣があって、じわじわと広がっているように見えた。
(ニーズ、起きてるよね? 力を貸してね)
『……分かった。だが無茶をするなよ』
亜里沙は向かいに座ると、一度深呼吸して、両手をかざした。
少しずつ、力のコントロールが出来るようになって来ている。
──だが、やはりキーランには遠く及ばない。
亜里沙は自分の未熟さに苛立ったが、そうした所で現状は変わらなかった。
次第にエイルセンの震えが大きくなり、その顔に浮かぶ恐怖が大きくなっている事に亜里沙は気付いた。ほとんど勢いで、首にかけたチェーンを引き抜く。
一瞬躊躇ったものの、小瓶の中の聖水を侵食にかける。
エイルセンがうっと唸って、引っ込みそうになった腕を亜里沙は両手で捕まえた。
「大丈夫です。もう少し、我慢してください」
大丈夫かどうかなんて、分からなかった。それでも再び両手をかざす。体温も息もどんどん上がっていくのを感じる。
そして、効果はすぐに現れた。
侵食の色がほんの少し薄くなり、じわじわと動いていたものが完全に止まったのだ。
『終わったぞ。もうこの侵食は大丈夫だ。そのうち跡も消えるだろう』
亜里沙は思わず大きく息を吐き出した。
肩が激しく上下する。鼓動が激しくなって、強い目眩を感じた亜里沙は咄嗟にテーブルに両手を付いた。何とか体を支える亜里沙の側にエドワードが立った。
「大丈夫か?」
「大丈夫……ちょっと目眩がしただけ……」
亜里沙はぼんやりと、後で聖水の事を咎められるだろうかと心配した。
向かいに座ったエイルセンの視線を感じて目を上げる。
エイルセンは、それが怯えなのか心配なのかも分からない表情で、食い入るように亜里沙を見ていた。
「来訪者……様。どうかお願いだ……私の娘はまだ幼く、体が丈夫ではない……こんな世界には置いておけない」
エイルセンの震える声が縋るように言う。
「お願いだ、あなたの世界に娘を逃がしてくれ……もう、我が領地も領民も、守り切れない……娘だけでも、連れて行ってくれ……!」
「何を……」
呟かれたエドワードの声に困惑が含まれている。
『……この世界からあちらの世界に渡れた者などいない。そもそも入り口に入る事が出来ないのだ』
(それは……どうして?)
『恐らく、女神の加護が働いている影響だろう』
亜里沙は唇を引き結んだ。
エイルセンは何も知らず、嗚咽を漏らす。
「私には……私には、無理だった……父上、何故私にこんな……!」
エイルセンは、私には無理だった、と何度も繰り返した。
亜里沙はエドワードを見上げた。だが表情を見る限り、エドワードにもそれが何の事なのか分からない様子だ。
とうとう崩れるようにテーブルに伏して泣き出したエイルセン。
「……確かに、巣の出現が増えてサンフェルにまで被害が及んでいると報告は受けたが……」
エドワードはエイルセンに理由を尋ねてみたが、返事はなかった。
「これ以上は話が出来ないな……だが、この様子なら時間が経てば話を聞けるかも知れない」
そう言ったエドワードについて、亜里沙は部屋を出た。
部屋の外にいた騎士たちに絶対に目を離さないよう言い付けて、エドワードは執務室に戻った。執務室のドアの前で、エドワードは亜里沙を振り返る。そして亜里沙の顔に見入って、口を開くまでにほんの少し間があった。
「無理をさせてすまない……だが、助かった。ありがとう、アリサ」
亜里沙は自分の顔色が悪く見えている事に気付いたが、うまく取り繕う事も出来なかった。せめて首を横に振って、笑みを浮かべてみせる。
「いえ、お役に立てたなら良かったです……」
エドワードの顔には再び、亜里沙に治療を頼んだ時と同じ表情が浮かんでいた。
亜里沙はエドワードに言われて、先程の部屋に戻る事になった。執務室にいたキーランは亜里沙と一緒に戻ったが、ロナンは残るようだ。
結局亜里沙に分かった事はほとんどなく、翔に話してみても答えは出なかった。




