雨の中で
沈黙を破ったのは亜里沙だった。
「……嘘ついてるよね?」
そんな冷たい表情で「惹かれている」なんて、その相手に告げる人がいるのだろうか。
ロナンは小さく息を吐いた。
「さあ、どうでしょうね」
「そんな冗談、やめてよ」
「冗談……ですか。少なくとも目をかけている相手が、私ではない者を頼っている状況が面白くないのは確かです」
亜里沙はロナンにじっと見られてたじろいだ。
「そんな事言ったって……今、そんな場合じゃないじゃん……ど、どうしろって言うの」
「そうです、アリサさん。“そんな場合”ではありません。ですから先程言ったように、キーランの気持ちに応えないでください」
「じゃあ……そんな事言うなら、ロナンの気持ちにだって応えられないよね」
亜里沙にしては精一杯の反撃のつもりだった。
しかしそれを聞いたロナンは「おや」と目を丸くした。
「応えてくれるつもりだったのですか?」
「え!? いや、その……」
亜里沙が慌てふためくと、ロナンは微笑んだ。
「分かってますよ。貴女は帰らないといけませんから、何も求めたりしません」
そう言ったロナンはもう、いつもの穏やかな表情だ。
「殿下が心配します。もう戻りましょうか」
手を差し出されて、亜里沙は自分の手を恐る恐る重ねる。
ぐっと握られて見上げると、ロナンはわずかに距離を詰めて来た。
「……私がここで言った事を、くれぐれも忘れないでくださいね」
囁かれた穏やかな声が亜里沙の不安を煽る。
そして、再びエスコートされて戻るとロナンを不審がるイザベラと目をキラキラさせるソフィーの対照的な顔に迎えられる。
幸いだったのは、ソフィーが何も聞いて来なかった事だった。
野営地に戻ってロナンと別れた亜里沙は翔に会いにエドワードのテントを訪れた。テントの中にキーランの姿はない。片手間に翔の言葉の勉強を見ていたようで、亜里沙が来るとエドワードは自分の書類に目を戻した。
「マクベルドは一緒じゃないのか?」
「そこで別れましたが、呼びましょうか?」
エドワードは「いや、いい」と、イザベラの申し出を断って、亜里沙を見やった。
「またここを使うなら騒がしくするなよ」
「は、はい……気を付けます」
亜里沙はエドワードに答えて、もじもじするソフィーを促して翔の隣に座らせた。
並んで羊皮紙に向かうふたりをしばらく眺めたが、キーランが心配になった亜里沙は翔に聞いてみた。
「翔くん、キーランはここに来なかった?」
「さっきまでいたんだけど、亜里沙ちゃんたちが来る少し前に出て行ったよ」
「そうなんだ……」
「あの……さっきはごめん」
翔に謝られた亜里沙は慌てて手を振った。
「ううん、翔くんの言う通りだもん……むしろ、私こそごめんね」
翔は首を横に振ると、亜里沙に微笑んだ。
「俺は平気だから、行っても大丈夫だよ」
「……うん、ありがとう」
亜里沙は洞窟の奥で見られたフロースについて少し翔と話して、ソフィーに声をかけてからイザベラとふたりでテントを出た。
「イザベラ、キーランを捜してみていい?」
「構いませんよ」
イザベラの手を借りて洞窟内を捜してみたが、キーランの姿はなかった。
(ニーズ、キーランの気配を感じたりとか、そういう事出来ない?)
『我は万能ではないのだぞ。だが……もしかしたら奴はフロースが合わないのかも知れない』
(えっ、どういう事?)
『イドルや穢れから女神の残響を感じ取れるなら、女神の力が宿るものも受け付けないかも知れない、という事だ。幼い頃奴の体が脆かったのも、もしかしたらアストラムの血を引いたせいなのかも知れない』
確かに女神が直接生み出したアストラムの力なんて、女神の力と言えるのだろう。
自分の中に流れるものが自分を害するなんて、それはどんな地獄だろうか。
「どこに行かれたんでしょうね……」
周囲を見回した後、外を見たイザベラの表情が曇る。
亜里沙は背筋に冷たいものが流れるのを感じた。
「もしかしたら外へ行かれたかも知れません」
「イザベラ、外を捜してみたい」
亜里沙の声が震えていたからか、イザベラは一度空を確認すると頷いた。
「この程度の雨なら問題ないでしょう。ただし、私が戻ると判断したら従ってくださいね」
「……分かった」
亜里沙はイザベラに言われてマントの留め具を確認し、フードをしっかりかぶり直した。
イザベラは近くにいたエンリクに報告するとフードをかぶり、ふたりは外へ出る。
マントは防水の機能も備わっているのか、思ったより雨の冷気を感じない。
来る時に下った傾斜を足元に注意しながら登る。
道に出て、崖に遮られていない範囲を見渡すがそれらしい人影はおろか、崖と岩以外のものが見当たらない。
「キーラン……」
「アリサ様、もしかしたら」
イザベラに心当たりがあるようで、道を少し引き返すように、亜里沙はイザベラの後ろを歩いた。
地が乾いているからか、思った程ぬかるんでいない、と言うより、染み込みにくいのか道に薄ら水が膜を張ったかのようだ。
道の脇などあちこちに窪みがあって、そこには水溜りができている。
イザベラの案内で到着したそこは歩いて数分もしない場所で、小高い丘程の小さな崖の側面に空洞がある。
そしてその空洞の中に、岩壁にもたれて座るキーランの姿があった。
キーランは亜里沙が近付くと目を開けてこちらを見上げた。
「どうしたの?」
目を丸くするキーランにホッとしつつ、それはこちらの台詞だと亜里沙はため息を吐いた。
「……具合悪いの?」
キーランはバツが悪そうに亜里沙から目を逸らした。
「小さいフロースなら平気なんだけど大きいのは苦手なんだ。あの洞窟にいると気分が悪くて」
『やはり、残響を感じる時のように体に不具合が生じるのだろう』
亜里沙は後ろに立つイザベラを振り向いた。
「あの、少し待っててもらえる? 濡れない所で」
「ではあの崖の下におります」
イザベラはちゃんとこちらが見えるような位置にある小さな崖を指差した。上が突き出している形なので多少雨を凌げそうだ。
亜里沙は自分の背中でキーランが隠れるような位置にしゃがんで、キーランの顔を両手で挟んだ。
また何か声が聞こえているのだろうと思っての行動だが、キーランは特に何も言わないのでこれでいいはずだ。
「……ありがとう」
呟いたキーランはじっと亜里沙の目を覗いてくる。
「な、何……?」
「アリサはどうして、僕を助けてくれるの?」
「えっ?」
何だか立場が逆転したような質問だ。
亜里沙は少し考えて、自分の中の気持ちを素直に答えた。
「それは、キーランがいつも守ってくれるから、私に出来る事だったら何でもしてあげたいし、ただ助けたいって思うから、かな」
キーランはなお、じっと亜里沙を見つめる。
「アリサは、色んな事を忘れやすい?」
急にこの質問はどうした事だろう。
さり気なく馬鹿にされた気がして亜里沙が口を開いて固まると、キーランは微笑んだ。
「……アリサはそのままでいいよ。僕の側にいてくれれば」
亜里沙は咄嗟に声が出なかった。
帰るまでなら、と言おうと思っても、何故かその言葉が出て来ない。
亜里沙が何も言えないでいると、キーランが亜里沙の左手に手を重ねて包むように握った。
「もう、平気だ。戻ろう」
戻った亜里沙はキーランと共にエドワードからお叱りを受けた。ふたりしてエドワードに謝り、巻き込んだイザベラにも謝る。
だが、キーランの顔色は悪くないようで、亜里沙は安堵した。
ロナンに会うのが後ろめたくて、見つからないうちにと自分のテントに戻る。
勉強を切り上げて一緒に戻って来たソフィーが、あっという間に亜里沙とイザベラからマントを剥ぎ取った。
「おふたりともマントと足以外はご無事なようですね。アリサ様、ベッドにお掛けください」
ソフィーはあっという間に亜里沙の靴も靴下も剥いでしまった。
「私は自分で」
慌ててイザベラがソフィーを制止する。
ソフィーが濡れたものを持って出て行くと、イザベラが椅子に腰掛けて金属と皮で出来たブーツを脱ぐ。見た限り亜里沙の靴より耐水性が高そうだ。
亜里沙はベッドに突っ伏した。
「アリサ様、お疲れのようですね」
「うん……ちょっとだけ」
亜里沙は顔を上げた。
「……ねえ、イザベラ。ロナンってどんな人?」
何となく口をついて出た問いかけだった。
「伯爵ですか?」
イザベラを振り向くと、眉間に皺を寄せて考え込んでいる。軽口が返ってくるかも、と思ったがそんな事はなかった。
やがてイザベラは口を開いた。
「私がよく知っているのは、キョウコ様との旅に出る前の伯爵です。キョウコ様との旅を終えて帰ってきた伯爵は、よく分からないんです」
亜里沙が答えられないでいると、イザベラは苦笑した。
「私には聞く勇気はありませんでしたが、アリサ様にならあいつも話してくれるかも知れません。直接お尋ねになってください」
でも、と付け加える。
「基本的に警戒しないといけない相手なのは変わっていないようですよ。性分もあるでしょうが、何と言っても商人ですから」
やはり最後は軽口だったな、と亜里沙は思った。




