亡霊
亜里沙は迷った挙句夕食は皆と食べる事を選んだ。
ロナンは拍子抜けするくらいいつも通りで、身構えた事が恥ずかしくなるほどだ。
またエドワードの近くに集まって食べたが、他の騎士や兵士も近くにいて、その空気が悪くない事に気付いて亜里沙は肩の力が抜ける思いだった。
夜、ニーズに前もって注意されてしまい、亜里沙はこの日はニーズの意識に入る事なく眠りについた。
夜が深まった頃、亜里沙はふと冷ややかな空気を感じて目が覚めた。
「……寒……」
ぼんやりと呟いて、目を瞬く。
目の前にソフィーがぐっすりと寝ている。寝返りを打とうと体を傾けた時だった。
驚いて息を呑んだ亜里沙の喉が鳴る。
眼前にある真っ白い顔に戦慄が走る。
「アリサ様……! そのまま、動かないで……!」
イザベラの小声が耳に届いた。
「そいつは恐らく死体に群がる亡霊です。生者には興味がないはずなので刺激しないように、そのままで」
(亡霊……? いや、違う、これは)
『クルスだな。ここには結晶があった。クルスが好む場所なのだろう。それでも滅多に人の前に姿を見せないのだが』
真っ白い顔のクルスは、目があるはずの部分には闇があり、口角を上げるとその口の中にも闇が広がっている。
あの空間を出て初めて遭遇した。あの時より今の方がその容貌がしっかり目に入ってくる。
クルスは長髪で、そして裸体だった。ただその造形は不完全で、服を纏っていない事は分かるがおよそ人間の体のようには見えない。胴体と分かる部分に手足がある、という、それが辛うじて分かる程度だった。
「ん、なに……」
ソフィーがこの異様な空気の中目を覚ます。
そして亜里沙を覗き込むようににんまり笑う白い女を見て、ソフィーは悲鳴を上げた。
「駄目!!」
ソフィーが庇うように上から覆い被さって来る。
「ソフィーさん落ち着いて!」
イザベラの慌てた声がし、驚いた様子のクルスは不安げに闇で満ちた目を見開き、亜里沙から距離を取った。
キョロキョロと辺りを見回し、そしてやはり亜里沙に視線を戻す。その白い顔がソフィーの肩越しに見える。
「ソフィー、だ、大丈夫だよ」
ソフィーを宥めながら、亜里沙はゆっくり身を起こした。
『我が中にいる限り襲っては来ないはずだ。だが用心しろよ』
クルスは亜里沙を見てうっすら笑みを浮かべながら、何か囁いた。
【……それ……かわりに……】
「え……?」
あの空間の中ではまるで分からなかったのに、今はニーズのお陰か、途切れ途切れでも言葉だと分かる。
【それ、いらない……かわりに、はいる】
薄ら笑いを浮かべるクルス。言われた言葉を何とか理解しようとした亜里沙は、気付いた瞬間身震いした。
このクルスは今、恐らく、ニーズの代わりに自分が亜里沙の中に入る、とそう言ったのだ。
「な、何を言ってるの……!?」
『アリサ、大丈夫だ。何を言っても奴は入れない』
にわかに外が騒がしくなった。
ソフィーの悲鳴を聞き付けたのだろうか、エドワードの声が外から亜里沙に話しかけてくる。
「アリサ? 何かあったか?」
「殿下……! 亡霊がいます……!」
「……何?」
少しの間の後、エドワードは断りを入れてから入り口の幕を開いた。
クルスがビクッと肩を震わせて、開いた隙間から外に目をやる。亜里沙にも、そこにエドワードと、少し後ろに立つ翔が見えたのだから、クルスがいる位置からならはっきりとその姿が見えただろう。
クルスは悲鳴のような声を上げながら、一瞬で外へと飛び出した。
亜里沙の心臓が強く打つ。クルスは来訪者の体を狙っている。それが、“異世界から来た者の体”という事なら。
「翔くん!!」
亜里沙は止めようとするソフィーとイザベラを振り切って外に飛び出した。
そこには、騎士と兵士が緊張して見ている先に、押し倒され地にひっくり返って目を見開いている翔と、翔の腹に跨って覆い被さるクルスがいた。少し遠くから馬が怯えるようにいななく声が聞こえる。
「カケル、落ち着け。害はないはずだ」
エドワードが翔に声をかける。
『アリサ、あのクルスに近寄れ。我が何とか干渉してみる』
ニーズの声を聞き、亜里沙はクルスを刺激しないようそっと近付く。
【ああ……あなた……あなたに……】
翔は目に見えて震えているが、声を上げないように歯を食いしばっているのが分かる。
「アリサ待て、近付くな」
亜里沙がエドワードに止められた時だった。
音もなく素早く駆け寄ったキーランがクルスの背を掠めるように左腕を振った。と、同時に裂くような悲鳴が上がり青白い光が舞う。
まるで煙を払うように、クルスはかき消えた。
一瞬の出来事で皆が硬直する中キーランが翔に手を伸ばす。
「立てる?」
「あ……ありがとう」
翔が呟くと、キーランは少し目を見開いて、そして黙って頷く。
翔が立ち上がる姿を確認したエドワードが安堵のため息を吐いた。
「……皆、無事なようだな」
周りの騎士と兵士もそれぞれ安堵したように動き出す。
テントからソフィーが駆け付けて来た。
亜里沙は翔とキーランに近付こうとしたが、キーランは亜里沙の側をすり抜けるようにテントに戻って行く。
「キーラン?」
エドワードがキーランのその様子を見て、亜里沙を振り向いた。
「すまない、アリサ。一緒に来てくれ」
「あ、はい……!」
亜里沙が翔を見ると、翔は頷いてみせた。
「ソフィー、翔くんをお願いね」
「はい、アリサ様」
そしてエドワードについてテントに向かう途中、こちらを見るロナンと目が合う。亜里沙は気まずい思いから視線を下げてそのまま通り過ぎた。
エドワードのテントに入ると、キーランはベッドに腰掛けて左手を広げて見ていた。
その手にパチパチと小さな青白い光が纏わり付いている。
「キーラン、大丈夫?」
「うるさい……」
目の前で足を止める亜里沙をハッと見上げて、キーランは焦った。キーランの顔色は悪く、息が荒い。
「ごめん、アリサじゃない。声が、うるさくて……」
『やはり、か。クルスを殺すのではなく消滅させたから、行き場を失った女神の力がキーランに取り込まれようとしているのかも知れない』
(私はどうすればいい?)
『……分からない……だが、あのクルスの力は微量だ。キーランがそれを取り込んでも恐らく問題はない。だから苦痛を和らげる為にいつものようにしてやるといい』
亜里沙はキーランに声をかけて、正面に立つとキーランの両耳に手を当てた。
しばらくそうしていると、キーランの呼吸が落ち着いてきて、左手の光も静かに消える。
すると様子を見守っていたエドワードが口を開いた。
「念の為に聞くが、それは何か力を使っている訳ではないんだよな?」
亜里沙はキーランの顔色を見ながら答えた。
「はい、これは特に何もしてないと言うか……でもキーランには効くみたいで」
そうか、と言ってエドワードは少しの間沈黙した。
「先程のあれだが」
亜里沙がエドワードを見ると、エドワードは続けた。
「滅多に現れないものだから、あれについての記録はほとんどなく、伝承で少し触れられている程度だ。僕も初めて見た。だがアリサは何か知っているようだな」
「え?」
さっきのエドワードの発言もそうだし、確かイザベラも的外れな事を言っていた。
「来訪者から、何か聞いてないんですか?」
「いいや、そんな記録は残っていないが……では、それは来訪者なら知り得る知識なのか?」
「え……?」
確か、来訪者はあの空間を通って来るのだ。クルスはそこに沢山いて、来訪者の体──というより、恐らく異世界の人間の体を求めて襲いかかって来る。そのはずだ。
(ニーズ、来訪者は何でクルスの事話してないのかな?)
この世界に出れば滅多に現れない存在だから気にかけなくなるのだろうか。実際亜里沙もクルスの事をこの世界の人々には話していない。
ニーズの返答はない。
亜里沙は唐突に違和感に襲われた。
(そう言えばこれまでの来訪者って、あんな風に襲われて無事でいたのは何で? それに何で……翔くんは無事だったのかな?)
ニーズに問いかけるも、起きている気配はするのにやはり返答がなかった。
亜里沙は仕方なく、エドワードを見た。
「あれは……クルス、という名前です。それ以外は、私にもよく分からなくて」
ニーズが突然黙ったので、理に触れるのかも知れないと思った亜里沙は誤魔化した。
「名前はどうやって知ったんだ?」
「あ……それは……頭に自然に浮かんで来て……」
ある意味では嘘ではないのだが、苦しい言い訳だ。
だがエドワードはそれ以上は聞いてこなかった。




