旅の始まり
カンドルヴィア王国。
この国は大陸の東に位置し、この大陸にはこの国を含めて四つの国が存在する。
亜里沙が一行と目指すのはカンドルヴィア王国の王都。
その名もマグヌフィリア、噛みそうだ。
2月9日。
朝、亜里沙は日の出と共に目が覚めた。
起きると共に忘れたので思い出せないが、悪夢を見ていたようだ。
状況が飲み込めないまま体を起こす。
「……あ、そうだった……」
朝の冷たく澄んだ空気と対照的に、思い出すと暗く澱んだ声が出た。
自分の部屋のベッドに寝慣れていた亜里沙の体はガチガチに固まっているし。
良い物だと分かる毛布も、暖かい環境で寝ることに慣れた亜里沙には肌寒さを感じさせるものだった。
その上で自分が置かれた状況を思い出して最悪の気分だが、深呼吸をすると冷えた空気が肺を満たして幾分かすっきりした。
ニーズに小さく呼びかけてみるが、反応はない。
いつまでも落ち込んでいられない。
何としても家に帰りたい。そのためにできることは何でもやらねば。
「……よしっ、やるか!」
あのお馴染みの体操をして気合いを入れる。
この体操に本気を出したのは小学生の夏休み以来、久々だ。
テントを出ると、皆すでに起きて片付けをしていた。
残していくものもあるようだが、あっという間に小さく折りたたまれては荷車に積み込まれていく品々。手際が良すぎて手伝うと申し出ることもできない。
テントの出入口に立ち尽くす亜里沙に気付いたロナンが作業の手を止めてこちらに来た。
「アリサさん、おはようございます」
「あ、おはようございます!」
「昨夜はよく眠れましたか?」
「はい、お陰様で」
正直ベッドは硬かったが、それでもこの環境下ではありがたい以外の言葉はない。
改めてお礼を言うと、ロナンは微笑んで頷いた。
「申し訳ないが馬の様子を見て来てくれませんか? 餌は足りていると思うのですが、これから重い荷を引かせないといけませんからね」
「馬?」
目を見開いて聞き返す。
本物を直に見たことがない亜里沙はつい気持ちが高揚した。
「ええ。あなたも初めて見るようですね」
ロナンが懐かしそうに目を細める。
十年前の来訪者のことを思い出したのだろうか。
聞いてみたいが、それを尋ねてもいいものか分からない。
「えっと、任せてください」
キーランとふたりの商人にも挨拶をし、亜里沙は言われた場所へと走った。
「ええ……! 可愛い……!」
野営地より少し奥の方、草が生い茂った地の川沿いに、四頭の馬が繋がれていた。
馬たちは懸命に草を食んでいる。流れの穏やかな川に顔を寄せて水を飲む子もいる。
素人目だが、とても元気そうに見えた。
もう少し近づいてみたいが怒らせるかもしれない。
報告に戻る前に撫でてみたくもあって、何となく離れがたかった。
「よく飼い慣らされているから近づいても大丈夫だ。触ってみる?」
振り向くとキーランがこちらへ歩いてくるところだった。相変わらず気配も物音もしない。
近くに立つとやはり見つめてくるキーランに、途端にそわそわしてしまう。
「あ、えと、おはよう」
先ほど言ったばかりの言葉を繰り返す。
だがキーランは気にした風もなく、微笑んだ。
「うん、おはよう」
浮世離れした造形の顔をこんなに間近で見るのも慣れないのに、微笑まれると目に突き刺さるような刺激がある。
(慣れないな……やっぱり王子様みたい)
おとぎ話に出てくるような、そんな王子様。
キーランはそれ以上何も言わず、亜里沙の様子を探るように見てくる。
もしかしたら質問に答えるのを待っているのだろうか。
「えっと、馬、ちょっと撫でてみたいかも」
やり方を教えてくれると思ったが、キーランは頷くと馬に歩み寄った。
草地から頭を上げた馬にそっと寄り添い、宥めるように首筋を撫でると手綱を引いて戻ってくる。
「ほら、撫でていいよ」
近づいてきた馬は大きくて圧倒されたが、優しげな顔を見ていると胸が温かくなった。
亜里沙は恐る恐る、キーランの真似をして側面に移動し、首筋を撫でてみた。
「……わっ」
毛は少し硬いが、滑らかさが手のひら全体に広がって、体温が心地良い。
ふ、と笑われて隣を振り向くと、微笑んで亜里沙を見つめるキーランと目が合う。
確かにキーランがいる側に立ったがこんなに至近距離だっただろうか。眩しくて目が潰れそうだ。
「今度背中に乗ってみる?」
「え、いいの? 乗ってみたい!」
「時間があれば乗馬を教えてもいいな」
「そっか、キーランは馬にも乗れるんだね」
頷くキーランを見て、亜里沙はほんの少し情けない気分になった。
亜里沙は来訪者として何ができるのかすら分かっていないのに、キーランは戦える。
それだけでも凄いのに、昨夜の手際を見ていても生活力だけで亜里沙を軽く凌いでいる。
「すごいね、キーラン。私より年下なのに何でも出来るんだ」
キーランは不思議そうに亜里沙を見る。
「アリサは僕と同じ年齢だろ?」
「え、キーランって何歳?」
「16」
どこか幼い顔立ちだけ見て、勝手に14歳くらいだと思っていた。
「私、18歳だよ」
「え?」
キーランは目を丸くした。何故そんなに驚くのか。
そしてキーランはほんの少し眉を顰めた。
「あの……なんか、ごめん」
年上として頼りない姿を見せたことに謝罪した。
「どうして謝るの?」
見るとキーランは再び目を丸くしていた。
首を横に振ると、キーランは微笑んだ。
「アリサ。18歳。覚えた」
そんなに無邪気な笑顔で言われると言葉もない。
彼の人の覚え方は少し変わっているようだ。
二台の荷馬車が森の中を走る道を出発した。
足下はすぐに土の中に砂利が埋まった道へと変化する。
馬は二頭ずつで荷車を引き、ルイとベンがそれぞれ御者台に乗った。
亜里沙はルイの方の荷台の部分にスペースを作ってもらい、そこに納まる。
クッションやら膝掛けに包まれて、可能な限り座り心地が良いようにして貰えたのが分かる。そして亜里沙に付き合う形でロナンが同じ荷台の端に座った。
身長が高いし足が長いので窮屈そうに見えるが、その表情は亜里沙より余裕がありそうだった。
キーランは馬車の側を歩いている。
「マスター、このペースですと早くて五日かかりますね」
亜里沙を心配してのルイの問いに、ロナンは首を横に振った。
「いや、帰りは迂回しない。アウルマルクを通ってくれ。三日もかからず王都に着くだろう」
「ああ……大丈夫ですかね?」
「私がいるじゃないか」
何やら不安げなルイに、事もなげに言うロナン。
あなたがいるからこそ、とか、行きは迂回なさったのに、とかルイはぼやいた。
「それに昨日は雲行きが怪しかったでしょう。ここらでは降りませんでしたけど。そっちの道だと荷車が危険では?」
「それは、キーランがどうにかしてくれるよ」
「マスターはたまに雑ですよね。何よりアウルマルクの件が心配ですよ」
困ったもんです、と再びぼやくルイ。
「あの、何かあるの? その、アウル……」
「アウルマルク、小さな都市です」
また新しい都市の名前か。覚えられるだろうか。
「あそこは職人組合が支配しているんですよ。我々商人ギルドとは折り合いが悪くて」
その組合や関係性はいまいち見えてこないが、ロナンの様子を見る限り大したことはないようだ。
「それにしても、アリサさんは幸運でしたね。マスターは普段こんな風に出歩かないんですよ」
笑みを浮かべたルイがわずかにこちらに顔を向けた。後ろからベンが相槌を打つ。
「ましてや荷車を使うような用向きですからね。出歩くなら台帳を見ている方がいいと言うような方が」
「台帳だって面倒くさいと放り投げるのに」
そうそう、とベンが笑って、ロナンはほんの少しばつが悪そうだ。
「それを言うなら幸運だったのは私の方だ」
ロナンは亜里沙に顔を向けた。
「前の来訪者様のこともありますし、私には幸運を引き寄せる女神の加護があるのかもしれません」
金持ちそうな商人が幸運とか言うと何となく胡散臭く感じるのは亜里沙だけだろうか。
ちょうど話題に出た、十年前の来訪者。
亜里沙はその人物のことを尋ねることにした。
「あの、その人のことを教えてください」
ロナンはわずかに間を置いて、頷いた。
「どういったことをお話しましょうか?」
色々と聞きたいことはあるが、何より不安なことがある。
「その人の、役目は何だったんですか?」
「彼女の役目ですか?」
おうむ返しに聞くロナンに首を横に振る。
「ええと、何ができた人なんですか?」
その来訪者も亜里沙と同じで、この世界を救うために来たのだろう。
ただ漠然と世界を救えと言われても困る。
その来訪者がどうやってそれをしたのか知りたかった。
亜里沙ができることはまだ不明瞭で、以前の来訪者から少しでもヒントを得たかったのだ。
亜里沙がそれを聞いてきた真意に気づいた様子のロナンは、言葉を選ぶように言った。
「……十年前にいらっしゃった来訪者様は、名をキョウコと言います」
(日本人!)
亜里沙が目を丸くすると、ロナンは頷いた。
「やはり同郷の方なんですね。黒髪に黒い瞳でしたし、アリサさんと容姿の特徴も似ています。確か、ニホン、でしたか」
「うん、そう。え、来訪者ってみんな日本人だったりするの?」
「私がお会いしたことがあるのはキョウコさんとアリサさんだけですが、我々に容姿が似た来訪者様もいたそうですよ」
「国、関係ないんだ。それで、そのキョウコさんはどうなったの……あ、どうなったんですか?」
「彼女は一年間の救世の旅の後、そちらの世界に帰還しました。そういった話を耳にしたことは?」
ロナンの質問に、亜里沙はハッとした。
(そうだ……時間はどうなるの? 一年間いなかったら、元の世界でも同じくらいの時間が経つのかな? 季節は同じじゃないみたいだけど……)
亜里沙は考え込んで、首を横に振った。
「ごめんなさい、もし一年もいなかったら向こうでは事件になって、ニュースになることもあると思うけど、私はその頃子供だったし、心当たりがないです」
なるほど、とロナンは頷いて、話を変えた。
「すみません、キョウコさんが具体的に何をしていたか、という話でしたよね」
亜里沙を見て少し躊躇したあと、ロナンは言った。
「彼女はイドルを浄化することができ、聖女と呼ばれていました」
聞かされたその言葉に、亜里沙の全身から力が抜けた。




