異界からの来訪者
亜里沙は木製の水桶に入ったお湯に清潔な布を浸し、ベッドの脇で体を拭いていた。このお湯はロナンが亜里沙を気遣って用意してくれたものだ。
あの後ロナンが訪ねてきた。
キーランが去ってしまった後で何故このテントに入れられたのだろうと我に返ったが、出るに出られず困っていたところだった。
そしてロナンからここを使うよう言われた時、亜里沙はあまりに申し訳なくて断った。が、今では押し切られて良かったと安堵している。
テントの中にいても、めちゃくちゃ寒い。
亜里沙にテントを丸ごと一つ譲ったロナンはどうするのかというと、ルイとベンと同じテントに寝るらしい。
もう一つのテントは倉庫のような役割をしており、キーランはどこで寝るのか、外を覗いても再びどこにも姿がなかった。
年が近い親近感からか、会ったばかりの人だが余計に気になってしまう。
体を拭き終わって肌寒さに身震いした亜里沙は、ロナンの為にわざわざ用意されたであろうベッドに、多少の罪悪感を感じながら潜り込んだ。
このベッドもどうやら組み立て式のようで、ルイとベンにはベッドがなさそうだった事から高貴な人が用いるものなのだと分かる。
「……ドラゴンさん?」
相変わらずどこを見ていいのか分からず視線を泳がせた。そもそも近くにいるのか分からない。
ほとんど消えそうな小声で何度か呼びかける。
ややあって、少し気怠げなあの声が答えた。
『何だ』
寝起きのような声。もしかして起こしてしまったのか。
「色々、聞きたい事があって」
沈黙。
いくら待っても返答はない。
これはもう聞いていいのだろう。勝手に判断した亜里沙は、今日起きた事を思い返した。
話をするにしても不便だと感じた亜里沙はまずこれを尋ねることにした。
「今更だけど、ドラゴンさんの名前は?」
答えるまでに相当時間がかかった。
「えっ、寝た?」
『我に名前はない』
小さく答えるドラゴン。
「ええ? そんなはずないでしょ」
とは言えドラゴンの常識など分からないから、ないと言われればそうなのかもしれない。
『忘れてしまったとも言うかもしれない』
「何それ……」
『名を呼びたいのであればお前が付けてくれ』
そういう言葉がどこかワクワクしたような響きがあるのは気のせいだろうか。
「私にドラゴンの名前を付けろと?」
難しい要求に眉が寄るが、案外すぐに浮かぶものがある。
それはつい最近読んでいた本に登場する名だった。
神話好きの友だちからなかば強制的に読まされた、どこかの国の神話の本。その中に登場したドラゴンの名前が、確か。
「ニーズヘッグだ」
『ニーズヘッグ? いいな、気に入った』
「えっ? そんな簡単に?」
『ああ』
何だか嬉しそうなので、それ以上反対する勇気は出なかった。だが確かそのドラゴンは怖い奴ではなかったか。
それに自分で言い出しといて何だが、微妙に長くて言いにくい。もうニーズでいいや。
「それじゃ、改めて、ニーズ」
『何でも聞いてくれ』
返答があった。確認もせず途中で切ったのに、やっぱり嬉しいみたいだ。
「まず、あなたは声だけ聞こえるけどどこにいるの?」
『お前は今更なことが多いな……とっくに受け入れたと思ったが』
お前の中に居るんだ、と事もなげに言われる。
「うん……もしかして、とは思ってた……」
『お前に悪影響がないように気遣ってやるから感謝しろ』
感謝しろ?
亜里沙はむっとした。そもそもニーズが勝手に連れて来たからこんなことになっているのだが。
あのおかしな息苦しい空間を、あんな怖い存在に追いかけられて。
膝も怪我したし寒いし火の玉だって見たのだ。
「そうだ、火の玉。あれは何?」
『何のことだ』
亜里沙は先ほど魔境、もとい森の川向こうで見た光景を説明した。
『ああ、それは……』
再び長い間があった。
「えっ、寝たの?」
『……寝ていない』
うそだ。今絶対一瞬寝ていた。
『疲れているのだ、世界を渡ったのだから。お前は元気そうだな』
「そうだ、あの空間だって、あれ何?」
眠そうなニーズに亜里沙は遠慮なく訪ねた。
「あそこを通れば帰れる? それからあの女の人みたいな怖いのは何?」
『ああ。あの空間で、この世界とお前の世界とが繋がっている』
ニーズは素直に認める。
『空間の入口を開けられるのは今では我と、創造主である女神イーリスだけだ。だがイーリスは今眠りについているも同然で、我は』
「何?」
『消耗していてすぐには開けられない。役目を果たして貰わなければ開ける気もないのだが』
亜里沙は再びむっとした。
こんな偉そうな奴が自分の体に居座っているなんて。
「何で私の中に入ったの?」
『そうしなければお前がクルスに食われていた』
「クルス?」
『あの空間でお前を追って来たものだ』
あの、人とも思えない真っ白い不気味な女性たちを思い返してゾッとする。
「それは、何なの?」
『あれは不完全な存在で、姿は見え、死ぬと死骸も残るが完全な体を持たない。例えるなら霧のような存在だ』
霧なら怖くなさそうだが。
『完全ではないから体を欲して群がるのだ。来訪者の体にしか興味を示さない』
「何で来訪者だけ?」
『さあな』
非常に面倒くさそうな声がそう答える。
「面倒くさがってない?」
『そんなことはない』
と言いつつ、やはり声が怠そうだ。
亜里沙は眉を顰めた。
「……じゃあ、あの空間にクルスがいるのは」
『あの場所から来訪者が来ることを知っているからな』
あの時通じない言葉で言われたのは「私のもの」だったのだろうか。亜里沙は寒気がして両腕を抱いた。
「そ、それが、この世界の脅威?」
『いいや……いや、ある意味ではそうか』
少し思案した様子の後、ニーズは答えた。
『この世界を脅かすものは、イドルという』
「イドル」
口の中で呟くと、ああ、と低い声がした。
『イドルは大抵は汚泥のような巣から生まれる。クルスの死骸から湧く事もある。世界が穢れるとその数が増える』
「そ、それは、どんなやつ?」
『見た目は多くはドラゴンだ。人の姿を取る事もある。腐肉に包まれ瘴気を放ち、土地を汚して人々の命を奪う』
再びの沈黙。
説明されてもどんなものかもまるで想像がつかないが、これが他人事でないと言うのだから厄介だ。
何より、ちゃんと無事でいられるのだろうか?
何も言えない亜里沙の気持ちを察したのか、ニーズの声が若干弱くなった。
『異界からの来訪者はそうした、この世界の穢れを取り除いてくれる存在だ』
喉が詰まって「でも」とは言葉にならなかった。
そんな事が自分に出来るとは思えない。
例えばこの世界に来て突然能力に目覚めるとか、そういう話なら分かるが、ちっともそんな感覚はない。
それとも、いつか目覚めるのだろうか?
具体的に何をすればいいのだろう?
王都へ行けば答えがあるのか?
これまでの来訪者はこんな意味不明な状況をどうやって乗り切ったのだろう?
「ニーズ……ニーズ?」
消耗している、と言っていた。
今度こそ眠ったのだろうか?
諦めのため息を吐いた時、密やかに声がした。
『時が来れば必ず帰してやる。そう心配するな』
「え……何それ?」
それは、もう亜里沙が完璧に役目を果たすことを前提として言っているのか?
もし失敗したらどうするつもりなのだろう。
「でも私、上手くできないかもしれない」
『……大丈夫だ。あまり気負うな』
怠そうでも偉そうでもない、気遣うような優しい声だ。
だがそんな風に気にかけてくれるなら、そもそも選ばないで欲しかった。
「じゃあ何で連れて来たのよ」
不満が口をついたが、もうニーズの返答はなかった。




