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そして私は、救済の聖女になった。  作者: 五乃ふゆ
第三章

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未成熟な恋心

 イザベラとヒューゴの決闘の後、夕食となった。

 その頃には亜里沙の体は見ただけで分かるほど震えており、グラに会いに行く事も皆と夕食を摂る事も断念せざるを得なかった。


 ロナンとイザベラが亜里沙が使っている部屋まで付き添ったが、亜里沙の様子を見て、部屋の中には入って来なかった。

 結局亜里沙はいつもの翔とソフィーの三人で夕食を食べた。

 どうしても食べ辛くて取った包帯を、また巻き直してもらう気力もない。だが食事のお陰か、亜里沙の体は落ち着いていた。


 夕食後、ソフィーが部屋を出た後、翔が亜里沙の隣に遠慮がちに座った。


「亜里沙ちゃん、俺に出来る事ある?」


「え……? ああ……」


 翔には先程の事を詳しく話せていなかった。

 亜里沙が話し始めると、翔は亜里沙の強く握りしめた拳におずおずと触れた。


「何となく、数を言っていたのは聞こえたから……あのヒューゴって人の性格なら、何を言われたのかは大体想像つくよ。だから話したくなければ無理しないで」


 亜里沙の目から涙が溢れた。


「……キーランに会いたい」


「え……」


「私のせいで、沢山兵士の人たちが死んで……私のせいで、キーランが無茶して死ぬ所だった」


 翔は何度か口を開きかけたが、結局何も言わなかった。

 キーランの回復を心配する亜里沙の為に、翔はソフィーを呼んで、キーランの名前を交えながら身振り手振りで伝える。

 ソフィーはすぐに理解し、ロナンを通してキーランの様子を見に行けるようにしてくれた。



「殿下には許可を頂いています。私は……外に出ていますね。イザベラが部屋のすぐ外にいますから、何かあれば呼んでください」


 そう言ってロナンは部屋を出た。

 部屋の中には今、亜里沙とキーランだけがいる。キーランはベッドに寝ていたが、どこか苦しげな表情をしていて、亜里沙は胸が締め付けられた。


「キーラン……!」


『微弱で、巣になる程ではないが、穢れの気配がずっとしている。もしかしたらそこから残響を感じるのかも知れないな』


「え!? 何でそれ早く言わなかったの!?」


『位置を特定出来ないし、お前が無茶をしそうだったからだ』


「でも言ってくれれば……!」


 ニーズは返事をしなかった。

 亜里沙はすぐにキーランの耳に手を当てる。


「キーラン……大丈夫だよ。私が助けるから」


 ニーズに効いたのだから、キーランにも効くだろうか。亜里沙は静かに子守唄を口ずさんだ。



 しばらくそうしていると、キーランは段々と和らいだ表情になり、そしてゆっくり目を開いた。


「アリサ……?」


「キーラン! 目が覚めた? 大丈夫?」


「ああ……アリサが歌ってくれてた?」


「う、うん、下手だけどね」


「下手なんかじゃない」


 まだぼんやりしていたキーランは何度かゆっくり瞬いて、ようやく覚醒したように目を開けた。


「アリサ……傷は痛くない?」


「え?」


 亜里沙はハッとした。そう言えば包帯は食事の為に取ってしまって、巻き直してもらっていなかった。


「ごめん……驚いたでしょ……」


 不意に染み出す暗い気持ちのままそう言うと、キーランは一番大きな傷に触れた。


「驚いたけど、悪い意味でじゃない。アリサが辛そうだから、早く治って欲しいと思うけど」


 目が合うと微笑むキーランを見て、亜里沙の目に涙が滲む。どんな時でも亜里沙を気遣うキーランがもどかしいし、気遣われる自分が歯痒い。

 亜里沙は力なくベッドに腰掛けた。


「アリサ?」


 目を丸くするキーランを、亜里沙は唐突に湧いて来た怒りを込めて精一杯睨んだ。


「何で、人間に攻撃出来ないって言ってくれなかったの?」


「……それは」


 困ったように言い淀む。亜里沙はハッとして首を横に振った。


「ううん、いい。考えたらそんな事言える訳ないよね。でも!」


 亜里沙の大声にキーランの肩がビクッと震える。


「何であんな事したの! 剣の前に体を持ってくるなんて! あんな……あんな」


 キーランの胸に深々と刺さった短剣を思い出してしまう。あの血の量、黒を更に黒くしたあの色。

 うっと唸って口に手を当てる亜里沙。

 キーランが身を起こし、亜里沙の肩にそっと触れた。


「ごめん……怖い思いさせて」


 しばらく言葉に迷うような雰囲気があった。

 亜里沙が何とか顔を上げると、キーランの顔には若干焦りが浮かんでいた。


「僕は半分アストラムだから、昔は弱かったけど、でも今はすごく体が強いんだ。力を使うと疲れやすいけど、武器の攻撃なら、少しくらい受けても問題なくて」


「だったら、あんな事していいと思ってるの!?

死ぬところだったんだよ!?」


「けど……ああしないとアリサが……!」


「私……っ、そう、だ……私のせいで……!」


 キーランの焦りが更に酷くなった。


「違うんだ、きみを責めてる訳じゃない」


「分かってるよ……キーランは全然私を責めないよね……それどころかいっつも私の為にって、無茶ばかりするもん」


 とうとう、亜里沙の目からボロボロと大粒の涙が溢れ出した。

 色んな事が降り積もって、窒息しそうだ。


「もうやめてよ……あんな事やめて……! もうあんなの嫌だよ……!」


 自分のせいだから、言える事が「嫌だ」と子供のような言葉くらいしかなかった。

 しゃくり上げるくらい溢れてくる涙は一向に止まらず、今、黙って亜里沙を見ているキーランがどんな顔をしているのか分からない。



 しばらく勝手に溢れてくる涙を止めようと葛藤していると、不意にキーランの手が亜里沙の頬に触れた。

 顔を上げ、ぼやける視界でキーランを見る。

 キーランの親指が優しく目の縁をなぞり、亜里沙が目を丸くするともう片方の頬にも触れられる。

 キーランの両手に包まれた頬がじわりと熱を帯びた。


 亜里沙が一度目を閉じて開けると、溜まった涙がこぼれ落ちて鮮明になった視界に、キーランの綺麗な瞳が見えた。


 いつもとは違う眼差しで見つめられて、亜里沙の心臓はひっくり返るような音を立て、ぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われる。


「アリサ……」


 亜里沙の名を囁く声が切ない。

 キーランの顔が迫って来て亜里沙が反射的に体を引こうとした時、唇に柔らかい感触が押し当てられた。


 見開いた目を瞬く。目の前にキーランの繊細な睫毛があって、何をしているのか理解した亜里沙の顔がカッと熱くなった。


「アリサ……泣かないで」


 ほんの少し離れたキーランの唇が、互いの吐息が混ざるような距離でそう囁いた。

 もう涙なんか引っ込んでいる。


 亜里沙が声を上げるより早く、再びキーランの唇が亜里沙の唇を塞ぐ。さっきよりも深く触れている気がして、全身が心臓になったように鼓動が激しくなる。

 逃げようとする亜里沙の体をキーランの両腕が捕まえる。次第に、耳元でガンガン鳴り始める心臓の音に、壊れるんじゃないかと亜里沙は思った。

 抱き竦められた腕の中で亜里沙が両手で精一杯キーランの胸を押すと、キーランの唇は離れた。


「……痛いよ、アリサ」


 悲しそうに言うキーランの顔を見てハッとした亜里沙は、胸の傷があった辺りを見る。亜里沙の両手はそれより少し上で、直接当たってはいない。

 どんな具合か確認しようと顔を上げると、笑みを浮かべるキーランと目が合う。


「アリサに押されたくらいじゃ痛くない」


亜里沙は愕然とした。


「こ、こんな時にそんな冗談……!」


 ごめん、と呟いたキーランの顔が再び近付いて、咄嗟にギュッと目を瞑った亜里沙の左の目蓋に柔らかい何かが触れた。


「もう、泣かないで」


 そっと離れる気配がして、亜里沙は目を開けた。


「まさか……私が泣いてたから、泣き止ませる為に……キ……し、したの?」


 どうしても何を、と言えない。

 キーランは目を丸くした。


「違う。泣き止んでは欲しかったけど」


「じゃ、じゃあ、なんっ、何で」


 自分はとても混乱しているのに、キーランは何でこんなに冷静なんだろうと、亜里沙は恨めしく思ってキーランを睨んだ。

 だがよく見ると、薄明かりの中で分かりにくいが、キーランの頬が紅潮している。

 キーランは亜里沙を真剣に見つめて、言った。


「きみが好きだから。可愛くて……したい、と思った」


 キーランの、熱を宿した瞳が美しくて、頭が真っ白になった亜里沙は何も言えないままキーランを見つめる。するとキーランの表情が切ないものになって、再び顔を寄せられる。


 ハッとした亜里沙は間一髪、両手を滑り込ませてキーランの口元に当てた。閉じ込められた中でそれが一番確実だったのだが、自分の口を覆えば良かったと後悔する。

 指先に口付けされている形になって別の羞恥が亜里沙を襲った。

 キーランは目を丸くして亜里沙を見ている。


「……嫌だった?」


 キーランが喋ると指先がくすぐったい。そのまま喋らないで欲しい。


『我は違うがアストラムはこういう性質があるから次からは気を付けろ』


 デリカシーの欠片も無いドラゴンのせいで亜里沙はカッとなった。


「……喋らないで!!」


 キーランが更に目を丸くして口を閉じる。


 大体、アストラムの性質とはどういう事だろうか。それでは、キーランは自分の意思ではなくアストラムの性質を持っているから亜里沙にこんな事をして、そして告白したというのか?


 ただでさえ亜里沙の心はこの状況に、それどころかこの世界の全てに追い付いて来ていない。それを今はっきりと自覚した亜里沙の顔が歪む。

 キーランは亜里沙の顔を見て息を呑んだ。

 そうして、キーランの腕から解放される。


「ごめん、アリサ、きみの気持ちも考えずに」


 亜里沙の心臓はまだうるさくて、少し痛みを感じる程だった。


「……私、まだ……そんな余裕なくて……!」


 うん、とキーランが優しく言った。


「待つよ。アリサが僕と同じ気持ちになるまで」


 亜里沙はもう、何と言っていいのか分からなかった。


 ただ真っ先に浮かんだのは、自分がいつか元の世界に帰るという事だった。

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