神性か魔性か
「キーランは、もう大丈夫だよね?」
亜里沙は誰にともなく聞いた。自分の声がやけに遠く聞こえる。
「それは専門じゃないので何とも。ただ経験から言えば、今から死ぬ人間の顔じゃあ、なくなりましたかね」
亜里沙はヒューゴを見上げた。何故かヒューゴは亜里沙を見て、常に浮かんでいた笑みが失せた。
「あなたはキーラン様より、ご自身の心配をした方がいいのでは?」
その顔、とヒューゴの口が歪む。
「まるで化け物ではないですか」
「……え……?」
熱に浮かされたようにふわふわした意識で、翔を見る。
「私……何か変?」
亜里沙と目が合った翔は息を呑み、そして立ち上がった。
ヒューゴと亜里沙の間に立つ。亜里沙は翔の背中を見上げた。ヒューゴの訝しげな声が響く。
「……何してるんですか?」
「亜里沙ちゃん。こいつが何を言ったのか知らないけど、多分ろくな事じゃないよね? 俺……何も出来ないかも知れないけど……でも!」
「ああ……そうか、あなたは言葉が通じないんでしたねえ……」
面倒だなあ、とため息混じりの声が聞こえる。
「まあ、でも分かりますよ。貴婦人を守る騎士を気取っているんですね?」
ヒューゴは馬鹿にしたように鼻で笑う。
「アリサさん。今のあなたは、肉は腐ってこそいませんがまるでイドルのようですよ。その姿を見られたら大変な混乱を招く事になるでしょうね」
「イドル……? わ、私が……?」
「亜里沙ちゃん、何を話してるの? まともに聞いちゃ駄目だ! こいつに何か返事する前に俺に教えて!」
「あなただけに降りかかればいいでしょうが、その災いはあなたを守ろうとがんばっている連中も引き摺り込む事でしょうね。キーラン様、殿下に陛下、イザベラ、ロナン、それに」
ゆっくりと上げられる名前に、亜里沙の胸がひどく締め付けられる。
「今まさにあなたを必死で守っているこのカケルさんも、確実に滅ぼすでしょう」
「私……」
亜里沙はもう一度自分の手を見た。
この、鱗のようなものは何だ?
(ニーズ! ……ニーズ?)
ニーズの気配はない。寝てしまったのかとも思ったが、それにしては、まるで存在しないように感じられるのは何故だろう。
「何これ……も、元に戻って……!」
水を止めるイメージをしてみたが、何も変化がない。
そもそもあの音も聞こえないし、何をどうすればいいのかなんて、亜里沙には分からなかった。
その時、遠くから亜里沙と翔の名を呼ぶロナンとイザベラの声がした。他にも複数の声がする。イザベラとその他は外からだが、ロナンは貯水槽側から聞こえてくる。
そして全ての声が段々とこちらに近付いてくる。
「い、言わないで……! 誰にも言わないで!」
「さて……元に戻らなければ私に口止めする意味もないように思いますが?」
「戻るから! だから言わないで!」
亜里沙からは見えないのに、何故かヒューゴの口角がこれ以上ないくらい上がったように見えた。
「何でもするから!! 言わないで!!」
「……分かりました。今言った事を忘れないでくださいね」
ヒューゴは言いながら大股で近付いてきて、翔の肩を押し除ける。
「他言しないように。まあ忠告は不要でしょうがねえ」
失礼、と言って亜里沙のマントのフードを引っ張って目深に被せてくる。
「こちらも失礼しますよ」
そう言ってヒューゴは翔のマントを剥ぎ取ると、それも亜里沙の上から被せた。
亜里沙のものより大きいマントが降ってきて、いよいよ前が見えなくなる。
「しかし本当に戻るんでしょうね、それ」
せっかくの良い取引材料なのに、と呟かれた言葉が亜里沙の背筋を寒くする。
戻る確証なんかなかったが、いずれにしろ、どちらに転んでも地獄に思えた。
突然体が浮いて、何をしているのか見えにくいが、恐らくヒューゴが翔に亜里沙の体を押し付けた。一瞬ガクンと体が落ちて、止まる。
「軟弱だなあ」
若干呆れたようなヒューゴの声がして、亜里沙の体は翔から離れる。
「ほら、背負うなら出来るでしょう」
わっ、という翔の小さい声がして、軽い衝撃が来た。どうやらヒューゴは亜里沙を無理矢理、翔に背負わせたらしい。反射的に翔の背中の服を両手で掴む。
続けてよいしょ、とのんびりした掛け声がする。
「こっちは見た目の割に重いんだよ……」
思わず出たといった風の愚痴が聞こえた。
「アリサさん! カケルくん!」
先に来たのはロナンだった。
「これは……。アリサさん?」
ロナンが焦ったように近付いて来るが、ヒューゴが制止する。
「来訪者様は大変な目に遭ってすっかり怯えておいでだ。しばらくおふたりに構わない方がいいでしょう。そっとしておいてあげてください、伯爵」
「……お前が何かしたのか?」
「ちょっと……この状況を見て何でそんな思考に至るんです? まったく、イザベラと言いあなたと言い、私への偏見が過ぎるんじゃありませんかねえ」
「キーランはどうしたんだ」
「ああ、眠っているだけですよ。力を使い過ぎていましたからね」
バサッと布を広げた音がする。
「……この傷の事は先に殿下に知らせる。お前は他言するな」
「あれっ、もう分かっちゃったんですか? そうですよ、この心臓への刺突は、アリサさんの奇跡の力で」
「それ以上言うな!」
ヒューゴが黙るとすぐに、イザベラと兵士たちの声が洞窟に響いた。
亜里沙はずっと、背負われている感覚とも違う、ふわふわとした気持ちの悪い浮遊感の中にいた。
段々と耳は正常に戻ったが、視界と、先程は気付かなかった額の違和感が亜里沙を苦しめる。
翔は代わろうとするイザベラを頑なに拒否し、他の誰に声を掛けられても絶対に亜里沙に触れさせようとはしなかった。ヒューゴの口添えもあったが、翔なりにこの状況を理解しているようだった。
背負われているので外を歩いて砦に向かう。
砦に着くと、あの異様な匂いはだいぶ薄らいで、直接は見えないが空気が変わったようなので瘴気も消えたのだろう事が分かる。
一度エドワードに声を掛けられたが、ろくに返事が出来ないでいると、そのまま行ってしまったようだった。
亜里沙は木造の建物の二階の部屋に連れて行かれた。
翔が亜里沙をベッドに降ろすとドアを閉める。
「亜里沙ちゃん、いい?」
遠慮がちに尋ねて、そっと亜里沙のフードを取る。翔の気遣わしげな顔が覗き込んできた。
亜里沙は違和感がひどい額に触れた。何故か右側に、突起のようなものがある。
手の鱗も消えていないし、視界もおかしいままだ。
「何これ……私、どうなっちゃったの……」
翔は周囲を見回した。
「この部屋に鏡はないみたい。でも、俺で良ければ教えられるよ」
「うん……でも、何となく、分かってるの。だから、自分で見たいの」
翔が部屋の中をもう一度探してみようとした時、ドアの外からロナンが声を掛けてきた。
「アリサさん、大丈夫ですか?」
「あ……、は、入って来ないで、大丈夫だから……」
「何があったのか、私には話せないんですか?」
「……ごめん……」
「私の言う事を聞いてくださると言ったのに……」
亜里沙を責めるような響きだが、それ以上に不安が混ざったような声だった。
「……アリサさん、貴女の顔が見たいです。心配なんですよ」
「旦那様、強引になさらないで」
ソフィーの声が、息切れしながら強めの口調で割って入った。
「……ソフィー」
「アリサ様、お加減はいかがですか? 何か必要な物はございますか? お部屋には入りません。アリサ様が落ち着かれるまでこのままでも構いません。でも、いつでも私を呼んでくださいね、お側におりますから」
思いがけず涙が溢れた。
亜里沙は震える声に力を入れて、明るい口調を装った。
「えっと、今は、鏡と……櫛が欲しいな」
不自然にならないようにそう言うと、ソフィーは優しく応じてくれた。
そして、翔を通じて渡された手鏡を見た亜里沙は、言葉を失う。
想像していたとは言え、実際に見た衝撃は強烈なものだった。
瞳は金色で爬虫類のような瞳孔、血の跡が散る顔には手にも浮き出ていた白い鱗がまばらに生え、額の右側には黒い、角になりかけているような突起がある。
髪は黒いままだが、それはまるで、先程見たニーズのような姿だった。




