残響
部屋に逃げ帰ってもう一度髪を拭いた後、亜里沙はベッドに潜り込んだ。
とても眠いのにまだ心臓がうるさいせいで目は冴えている。
思い返すと、ロナンのあの行動はただの心配だったような気もする。
それなのに狼狽え過ぎたのではないか、焦って逃げたりして自意識過剰と思われたのではないかと、また別の羞恥心が出て来る。
恋のようなものは何度かしたと思うし、告白された事もあるが、あっという間に友達を作れる代わりにそういう方面では奥手な亜里沙は誰かと付き合ったなどという事はなく、経験の無さがこういう時に露呈してしまうのだ。
「絶対変だったよね、私……! っていうかどういう気持ちで髪に触るわけ? いや、友達が触る事はいくらでもあったけど……!」
呻くように呟いていたら、ふとニーズの気配がした。
『……何かあったのか』
とても小さな声で、亜里沙は一瞬で我に返った。
「ニーズ?」
『ああ……外が騒がしかったようだが、我が寝ている間に何があった?』
亜里沙は主に今日起こった事を簡潔に話した。
『そうか……もうそんなにも……』
「ねえ、私がニーズの力を使えるように訓練する方法だけど、どうしたらいいのかな?
ニーズが起きていないといけなかったりする?」
いつも眠そうな──というより、起きていられないほど消耗しているようなニーズだが、このまま亜里沙の中にいて本当に回復するのだろうか?
「……もしかしたら、私が茉利咲じゃないから、回復できないんじゃない……?」
『いや……そういう事ではない。そもそも人の中に入る事が我にとって大きな負荷がかかる事だったのだ。
回復が遅れているのは、我が長い間魂だけで存在したせいで脆くなっているからだろう。加えて、世界に穢れが広がり過ぎている』
亜里沙は何も言えなかったが、ニーズは気にしなかった。
『我の力を引き出す方法なら、基本的にはアストラムが己の力を使う術と同じだから、キーランに聞くといい。我の事を話してはいけないが、奴なら適当に誤魔化しておけばまず疑わないだろう』
その評価はキーランに失礼な気がする。
『我が眠っていても問題はないはずだ。起きていられる時はもちろん我も協力しよう』
「うん……私、がんばるよ」
一時の間があったが、ニーズがまだ起きている気配を感じた亜里沙はふと思い出した事を聞いてみた。
「……ねえ、キーランが、力を使った時に声がするって言って苦しんだんだけど、それってどういうことかな?」
『声……?』
「うん。そう言えば私も、女の子が襲われてた時に近くにいないのに声が聞こえたんだけど、あれってニーズの感覚なんだよね?
もしかしたらキーランもそういう声が聞こえているのかな?」
『どうだろうか……我は時々人間の声を拾うのだが、そもそも我に声を届けられる人間は珍しい。あの少女はあれ以来声を聞かないが、恐らく我の魂と波長が合うのだ。これまでも幾度かこういう事はあった』
全て断片的で、そのうち忘れてしまう、とニーズ。
『キーランの場合はあの力のせいで、もしかしたら穢れの……イドルの声が聞こえるのかも知れない』
「イドルの声?」
思い浮かぶのはあの恐ろしい唸り声や悲鳴だ。
『アリサには獣の咆哮のように聞こえているだろうが、あれも一応言葉を話しているのだ』
「……嘘でしょ?」
考えたらゾッとした。あの恐ろしいなりで? あの不快な音が、まさか言葉だなんて。
『嘘ではない』
無情にもそう言い切って、ニーズはどういう事なのか教えてくれる。
『あれは世界の穢れから生まれる。世界の穢れは、即ち創造主である母の……女神の穢れなのだ』
「女神様の……? それは、病気とか、そういう事?」
『ああ。ある意味では病なのだろう』
ニーズは肯定し、一時思案した。
『我が語れるのはある一面の事でしかないが、それで良ければ聞かせてやってもよい』
「それは……理に触れない範囲って事?」
『ああ』
亜里沙は、お願い、と呟いた。
『もともと、イドルのような穢れは遥か昔から少なからず存在した』
少し迷うような気配がして、ニーズはそれでも続けた。
『それは女神があらゆるものを創造した過程で生まれたものだった』
「創造したから……生まれる?」
『そうだ。光で照らすと影が出来るように、創造は少なからず穢れを伴うものだ』
穢れ、歪み、澱、とニーズは言葉を変えて亜里沙に伝える。
『この世界の全ては女神の力から生まれた。そして女神は自身が生んだ世界と数多の命を深く愛した。愛する世界を隅々まで見守り加護を与える為に、女神はいつしか大樹へと姿を変えた。だが……それが仇となったのだ』
ニーズの声が悲しみを帯びる。
『人間は過ちを繰り返す生き物だ。ある程度は女神への信仰で抑えられるが、同族同士で争い、傷つけ合う。大樹となって世界に根を張り巡らせたせいでその全てを感じ取れるようになってしまった女神は、何度も何度も、枯れる大地と流れる血により傷付いた』
そして、とニーズは重苦しく言った。
『もともと存在した穢れが女神が傷付く事で肥大し、そうして世界は今……だからある意味では、女神自身の歪みが穢れとなってイドルを生み出していると言える。つまりイドルの声は』
亜里沙の背中を悪寒が走る。
「え……女神の声って事? じゃあキーランは、女神の声を聞いてあんなに苦しんだの?」
『直接的に女神の声を聞いている訳ではない。今となっては女神の声を直接聞けるのは我しかいない。もちろんお前にも、我が中にいるからとて聞こえるものではない』
話し疲れたように小さく息を吐いて、ニーズは続けた。
『もし今の女神の声を直接聞ける者が居れば、その者はとっくに精神を破壊されて、狂って死ぬか廃人と化しているだろう。イドルの声は女神の声の残響のようなものだ。恐らくキーランは、それが聞こえるのだ』
「残響……」
あの時キーランは大きな巣を消した。
距離があったとは言え巨大なイドルもいて、その奥には巣と化した堀があった。
そういうものに近付くと声が聞こえるというのだろうか。
幸い、堀を浄化する時は聞こえないと言っていたので、いつもではないのだろうが──
『お前の悩みはもういいのか?』
一際ゆっくりとした口調でニーズが問いかける。
「悩み?」
『我が起きた時、何やら騒いでいたろう?』
亜里沙は考えて、すぐに思い出した。
「せっかく忘れてたのに……! あれは別にいいの!」
『そうか。お前にはせめて、出来る限り心安らかにいて欲しい。我が起きている時であれば何でも言うがよい』
答えられない事はあるが、と付け加えて、ニーズの気配は途切れた。
「……ありがとう、ニーズ」
どこか複雑な心境で、だが感謝を込めて亜里沙は呟いた。
ニーズの存在を感じ取れる人がいる事について聞きそびれてしまった。だが睡魔が訪れたので、亜里沙はすぐに身を委ねた。
いつの間にか寝てしまった亜里沙は、夢を見た。
自分の体は小さくなっていて、真っ暗闇の中必死でどこかへ走っている。
やがて、何故走っているのか、その理由が目の前に現れる。
闇の中で、小さな少女が溺れているのだ。
──おねえちゃん! おねえちゃん! 助けて!
妹の茉利咲が亜里沙に助けを求めている。
茉利咲と叫んで駆け寄ろうとするが、どんなに必死に走っても辿り着けない。
涙が出てきて、半狂乱のようになった頃、ようやく茉利咲に近付けた。
溺れている妹のその手を掴んだ時。
「……ひっ!」
茉利咲は、腐ったイドルと化して、沼の中から亜里沙を見つめていた。




