嵐の前
手記の最後をなぞる声が震えた。
絞り出すように言葉にしたが、隣にいた翔ならはっきり聞き取っただろう。
ニーズは今とても静かで、何も言ってくれない。
どんな気持ちで翔に接していたのか。
自分が連れてきたことも忘れてしまった翔と出会った時、名前を聞いた時、どんな気持ちでいたのだろう。
恐る恐る翔を見ると、表情のない横顔がそこにあった。
「俺とエドワード様が立てた仮説はだいたい合ってたよ。俺が疑問を抱いたきっかけは、“天体がある”ってことだけど」
「か、翔くん……」
「多分、人間たちが真実に辿り着くのがこの人の想定より早かったと思う。まさか大陸を出て海を渡ろうとしたらその外に続きがないなんて」
それは確かに衝撃的だった。
これを、まだ仮説とは言えエドワードも知ってしまったのだ。その心情が心配でならない。
だが亜里沙は今何よりも、目の前にいる翔の支えになりたかった。
「これを知ったところで、そのまま受け入れる人間は少なくないと思う。だけど生きるのに困難な場所だったら外に逃げたくなるし、未知への探究と開拓は人間の性だし。この人が言った通り、管理する必要はあるんだろうね」
「うん……」
「聖王もここの王太子も、秘密を守る側としてそれを知った時、その重責のせいで歪んだんだ。エドワード様の進言が却下され続けるのも邪魔され続けるのも、彼が秘密を知らないからだ」
「う、うん。ねえ」
「余計な混乱を防ぐためにも聖国と例の議会が必要で、国民にある意味完璧で豊かな生活を送らせているのも、軍事技術の発展を遅らせているのも、外に目を向ける必要性と余裕を、なくすためなんだよな」
翔は亜里沙に説明してくれるが、聞いていてもいなくても構わないといった物言いだ。
「でも明らかにバランスを間違えているよね。穢れが繰り返し世界を覆う速度についていけてない。あまりに恐怖を覚えると、人はそこから脱しようとして外に目を向けると思うんだけど」
「あの」
「宰相を置かない王がいなかったのはこのせいで、王族もこのために継承争いが固く禁じられて一定期間は継承権を破棄すらできない。議会のメンバーも、この秘密を抱えることに耐えられなくなった人は狂うか消される……シーラ砦で死んだ伯爵みたいに」
「かっ、翔くん!」
「何?」
翔が亜里沙に目をやって、亜里沙はその感情のない瞳につい身が竦んだ。
亜里沙の言葉を待っているようだった翔は、亜里沙が答えられないとみると立ち上がった。
「大丈夫、世界を救う方法は分かったから」
「え……」
翔はそれ以上何も言わずに亜里沙の部屋を出ようとしている。
咄嗟に立ち上がった亜里沙は転びかけながら後を追った。
「待って! 何を考えてるの!?」
翔の腕を後ろから両手で掴む。
立ち止まった翔は再び亜里沙を見やって、ほんの少し顔を歪めた。
「もう俺が呼ばれた理由が分かっただろ。女神が耐えられなくなって、必要としたからだ、俺を。“カケル”って名前の、黒目黒髪の来訪者を」
『カケル……それは、違う……』
静かだったニーズがそう呟いた。
その言葉に、翔がわずかに苛立ちを含んだため息を吐いた。
「お前さ……どういう気分でその名前を呼んでるの?」
『カケル、すまない……とにかく、母が呼んだならもっと早くに、我は他のカケルを連れてきたはずだ。母はいつでも父を呼んでいるのだから』
「でも祈りが届くのに時間がかかることもあるんだろ。アマリア様とキーランがそれを証明してくれてるじゃないか」
『だとしても我は必ずお前たちを連れて帰るし、もうこの世界には帰らない。だからお前がこの世界に呼ばれることはもう二度とない』
「だったら今度は女神が直接俺を連れてくるんじゃないの? 俺はもうこの世界に来てしまったんだから。一度死んだってのも冗談じゃないのに……一体俺はそのために、後何回死ねばいいんだよ」
『カケル……』
「そうか……でもそう考えると、女神はまだ俺に気づいてないんだよな、多分。俺はただここにいるだけで、何も起こっていないし」
「ねえ、名前が一緒だけど、きっとそれはただの偶然なんだよ。夫なんだから、別人って分かるはずでしょ」
「亜里沙ちゃん、もう忘れてるんだ。キーランがきみを茉利咲ちゃんと混同して見ていること。それってつまり、女神がそういう性質ってことじゃないの?」
「そ、それは……」
「ニーズが話しかけて俺の存在を女神に教えればいいよ」
「だめ!!」
亜里沙は声を張り上げた。一瞬目を丸くした翔は、すぐに表情を曇らせる。
「翔くんだめだよ、私と帰るんでしょ? ずっと一緒にいるって約束したじゃない。ひとりにしないって」
「亜里沙ちゃん……やっと俺を気にしてくれるようになった?」
亜里沙の言葉に眉を寄せた翔は、まるで泣いているように見えた。
「でもきみは、エドワード様やキーランやロナンさんのことで頭がいっぱいだっただろ。この世界の人たちが好きで、彼らのために世界を救いたいし、キーランを助けないと帰らないって言ってたよな」
ずっと掴んでいた手から力が抜けた。翔の腕が、支えを失って下ろされる。
亜里沙は口を開いたが言葉が見つからなかった。
翔はずっと亜里沙を最優先にしてくれていたというのに、亜里沙には覚悟が足りていなかったのだ。
「……帰ろう、今」
「えっ?」
亜里沙の口から漏れた呟きに、翔が驚いた声を上げる。
「帰ろう、今」
もう一度、強く繰り返した。
すると亜里沙の全身が意思に反して大きく震えだし、口を開けば歯と歯がぶつかって耳障りな音を立てた。
「に、ニーズ、入り口を開いて」
『アリサ……』
「ま、まだ、女神が気づいてない、今の、うちに……か、帰ろう、翔くん」
翔が目を見開いた。
「亜里沙ちゃん」
思わずといったように、翔が亜里沙を抱き寄せる。
翔に抱きしめられて、自分の震えがどれだけひどいのかはっきりと自覚した。
「ごめん亜里沙ちゃん、落ち着いて、大丈夫だから」
茉利咲との約束のせいか、女神の干渉のせいか。
エドワードへの気持ちが強すぎるせいなのか。
全て捨てて今この瞬間帰ると決めたはずなのに、亜里沙は指先から凍えていくのを感じた。
「早く、い、入り口を」
「やめろニーズ」
亜里沙の体がどんどん冷えているのを感じるのか、抱きしめる翔の腕に一層力がこもる。
「ず、ずっと一緒にいる。翔くんを、ひとりに、しない」
「うん……分かってるよ……」
弱々しい翔の声が、耳元で苦しげに答えた。
亜里沙の震えは止まらず、焦ったような翔の手が背中を何度も優しく撫でた。
「落ち着いて。エドワード様にキーランの捜索について聞いてみるから。この世界についても、もう一度ちゃんと考えてみよう」
「で、でもっ」
「帰るのはあと数日、待とう。それくらいならニーズの力も持つはずだ。だから大丈夫」
翔はしばらく、亜里沙を落ち着かせるために抱きしめていてくれた。
夜が訪れる。
この夜は雨だった。ざあざあと窓を打ち、周囲の音をかき消して、遠くでかすかに雷鳴が轟くのが聞こえた。
亜里沙は寝る準備を整えて、窓のへりに腰掛けてぼんやりと外を見た。
ソフィーが灯りを消したので、少しずつ目が慣れてくる。
外の景色はぼやけた闇だ。だが不思議と亜里沙の心を宥めてくれた。
ふと、翔も隣の部屋で、こうやって雨の音に耳を傾け窓の外を見ているような、何故かそんな気がした。
翌朝になると雨はすっかり上がっていた。
冷静さを取り戻した亜里沙は翔に会いに行こうとしたが、先に翔が訪ねてきた。
迎え入れると翔の後ろにヒューゴが見えた。
翔も亜里沙と同じく、ばつが悪い顔をしている。
「おはようございます」
亜里沙を見てヒューゴが口の端にうっすらと笑みを浮かべる。
開いた口が塞がらない。そっとイザベラを確認すると、眉を寄せてヒューゴを見ていた。
エドワードに忠誠を誓っている者同士とは言え、やはり快くは思っていないようだ。
イザベラの隣で、ギュッと唇を引き結んでヒューゴを見据えるソフィーが見えた。
「昨夜からカケルさんの護衛につくことになりました。どうぞよろしくお願いしますね」
護衛中だからか、ほんの少し気怠さを抑えているような口振りだ。
「……とにかく、入って」
硬い声でそう言って入室を促す。
ヒューゴはほんの少し躊躇したが、亜里沙が繰り返すと翔に続いて中に入った。
「これ、どういうこと?」
亜里沙が説明を求めて翔を見ると、翔は亜里沙からわずかに目線を外した。
「うん……自分から申し出たみたいで。エドワード様が俺の意思を確認しに来てくれたから、それでいいって答えたんだ」
「な、なんで!?」
思わず出た大声のせいか、ヒューゴが呆れたような笑みを浮かべる。
「この人には色々聞きたいことがあるし。それにイドルや人間相手でも腕は確からしいから。イザベラほどはなくても」
「というわけなので、そんなに邪険にしないでもらえると助かります」
ヒューゴの嫌味な言い方に、再び開いた口が塞がらなかった。
少しすると朝食が準備された。
翔が動かずヒューゴに声もかけないため、ヒューゴは仕方なくイザベラの隣に立ったままだった。
朝食後ソフィーがアストリドからの置き手紙を持ってきてくれた。
亜里沙の顔色がわずかに明るくなると、ソフィーは少しだけ安堵したようだ。
「お読みになる時まで私がお持ちしますね」
「うん、ありがとうソフィー」
「それからアリサ様とカケル様の、お召し物とお持ち物を準備してまいります。この後、私のみ一度ナイグラードの屋敷へ行ってまいります」
「え」
亜里沙は目を見開いた。次の言葉が出てこない。
「大丈夫なの?」
翔が問いかけると、ソフィーは力強く頷いてみせた。
帰る時はロナンに声をかけることになっている。
だが万が一のことがある。
ソフィーはそれに備えてくれようとしているのだ。
「お任せください。おふたりがいつでも……帰れるように、しっかり準備いたします」
一瞬、かすかに声が揺らいだだけで、ソフィーの表情は落ち着いている。
ソフィーにも葛藤があったはずだ。
ひとりで覚悟を決めてしまうまで少しも寄り添ってあげられなかったことに亜里沙の胸が痛んだ。
自然とソフィーと手を取り合った。
ソフィーが微笑んでくれても、亜里沙は眉が下がるばかりで言葉を発することもできない。
「おやおや。何とも感動的ですねえ」
何も言えずソフィーと見つめ合っていると、馬鹿にしたような声が上がった。
「どうせあと十年か二十年もすれば別の来訪者がやって来ますから、お仕えする機会はまたあるでしょうに」
ソフィーが目を見開いてヒューゴを振り向く。
その顔から表情が消えるのを見て、亜里沙はヒューゴに強い怒りを感じた。
「ヒューゴ」
イザベラが強く制するように名を呼ぶ。
ヒューゴはイザベラを無視して続けた。
「できればソフィーさんに付き添って差し上げたいところですが、私には来訪者様の護衛というありがたい役目があるので」
怒りが大きくなる衝動のままに、亜里沙は立ち上がった。
「やめて、ヒューゴ」
ヒューゴは口を閉ざしたが、亜里沙を見る目に嘲笑が浮かんでいる。
「今度そういうふざけたことを言ったら、決闘してもらうから」
物騒な宣言に、ヒューゴの顔から嫌味な笑みが消えた。
その目がイザベラの方にちらと動く。
「イザベラとじゃなくて、私とだよ!」
「亜里沙ちゃん?」
翔の驚いた声が割って入る。
亜里沙も驚いた。怒った勢いで口から出てしまったのだ。随分と間抜けな言葉が。
だがもう引っ込みがつかない。いや、気持ちだけでも引き下がりたくなかった。
ただ、騎士を相手に何を言い出すんだと、冷静な自分が呆れているのも分かっている。
『アリサ、今の我の力は人間には通用しない』
心底から案じるニーズのその声が、羞恥心を煽る。
亜里沙は次に取るべき言動も分からず、ヒューゴを睨みつけた。
ヒューゴが拳を口に当て、軽く咳払いをするようにした。
亜里沙にはそれが笑いを堪えているように見えて、更に恥ずかしくなった。
いつも遠慮なく笑うくせに、笑ってはいけないと思ったのか気を遣われてしまったようだ。
「……冗談ですよ。少し思い出してしまったんです、父を」
父、と言うヒューゴの声がくぐもった。
「失礼いたしました。二度とあのようなことは申しません……アリサさんの身に何かあっては大変ですからね」
あまり嫌味でない物言いに、亜里沙は無言で引き下がるしかなかった。
ソフィーが温かい微笑みを見せてくれたことが唯一の救いだ。
ソフィーがナイグラードへと出かけた後、翔と話し合った。今すぐふたりが動けるようなことは何もなかった。
キーランについては手がかりが少ないし、世界についてはまだ考えが纏まらない。
ならばまだ少しでも余裕があると言える今のうちに、別れがたい人々への手紙を残そうということになった。
後悔しないために。
翔が手紙を残すのはふたり、と意外と少なく、誰に宛てるのかは「恥ずかしいから」と教えてくれなかった。
一方亜里沙は、手紙を残したい相手がとても多かったため、書き終わったら全てイザベラに預けることにした。
この日、殺害されたエストランの弟子であったアイスナーが捕縛された。
エストランが殺害されたのは大聖堂の近く。
捕まったアイスナーは殺したことは認めたものの、支離滅裂なことを話し続けている、とヒューゴが教えてくれた。
「確かに気が小さい男みたいですから人を殺して動転するのは分かりますが……まるで、飲んではいけない何かを飲まされたかのようですねえ」
間延びした物言いながら、ヒューゴの顔つきは険しかった。




