真実
「じゃあ、あまり時間的に余裕もないから、まず先にスケジュール帳の手記を読んでみる?」
翔がそう言うと、ソフィーが恐る恐る声をかけてきた。
「夕食はどうされますか?」
「軽食がいいな」
本当は食欲がなかったが、ソフィーが心配そうなのでそう答える。翔もそれに賛成し、書物を読むなら、とソフィーに促されてふたりは席を立った。
ソファに移動して並んで座る。
翔には読めない文字だが、それでも中身を共有したかった。
スケジュール帳を開く。かすかにニーズが緊張したのが分かった。
「翔くん、日本語で話しかけて」
「今日本語で話してるよ。あ、そうだニーズ」
『何だ』
「ニーズは冗談で言ったんだろうけど、この手記が創世の頃の記録なら、隠したいことが亜里沙ちゃんに知られる可能性が高いよ」
ニーズは答えなかった。亜里沙が譲らないことが分かってしまったのだろう。
「……いいみたいだね」
「うん……じゃあ、読むよ」
亜里沙は一つ息を吐いて、女神の夫の手記を声に出して読み始めた。
私が私を忘れないように書き記すことにした。
もう、母国語の書き方が思い出せない。
家族の名前が思い出せない。
父と母がいたのは覚えている。犬を飼っていたか?
あの子は死んだんだ。そうだったか?
思い出せないものは仕方ない。ただもう忘れないために。彼女との日々で忘れたくないことが沢山あるから。
彼女の名はイーリスだ。私がそう名付けた。瞳の色が虹色に光って美しいから。
彼女は自分の名を言わないし、いつまでもあの、とか、ねえではおかしいだろう。かと言って女神様とは呼びたくない。彼女との間に壁を作りたくなかった。
これを書き始めた今は、イーリスと何種類かの言葉と文字を作っているところだ。
イーリスはもともと自分が話していた言葉を好まず、また私の母国語もうまく発音ができなかった。だから作る必要があった。
そして今ようやく、ひとまず使えるものとして一つが形になった。ここに書いている、これだ。
私が知っている文字の形と、渋々教えてくれたイーリスが知っている文字のいくつかを元に、新しい形の文字にした。
そしてルールや使い方は母国語のものを用いた。
ここに世界を作るならもっとちゃんとした言葉が必要だが、彼女がどの程度の世界を想像しているのかは分からない。
今世界には大地があって空があって海と川と緑がある。
人間はおらず生物もまだあまりいないが太陽と月はある。
希望に満ちて楽しげな顔を見ると、付き合ってあげたいと思った。だから私も、好きな星や星座を浮かべて欲しいと彼女に頼んでみよう。
イーリスとの出会いを書こう。
思い出せるのは、その日寝坊して、朝食も取れずに家を出た後から記憶が途切れていることだ。
気がついたら真っ白い空間にいて彼女が私を覗き込んでいた。
あの瞬間、心を奪われるという感覚が初めて理解できた。女神だとすぐに理解した。そんなものは見たこともないし信じてもいなかったのに。
あちらの世界に恋人がいたし、愛していた記憶もまだあるが、私は愛も恋も知らなかったのだと思った。
それくらいイーリスとの出会いは私にとって衝撃だった。
彼女は私をどう思っているだろう。好いてくれているのは確かだが。
イーリスに起こされて周りを見ると白以外には何もなく気を失いそうになった。
イーリスは手に水のようなものを作り出して私に飲ませた。
あれは霊薬か何かだろうか? 飲んだ瞬間気分が良くなって、空腹も癒えた。
彼女のそばには人間になり損ねたような白い何かがいて、気づくと勝手に増えていた。
最初は彼女が寂しくて作っていたらしいがうまくできず、やめても勝手に生まれるようになったそうだ。
私が何気なく口にした「ホムンクルスみたいだ」と言う言葉をうまく発音できず、彼女が首を傾げて「クルス?」と言った姿がとても可愛かった。
そうだ、イーリスの声も言葉も特別なんだ。初めて彼女が私に話しかけた時、頭が割れるかと思った。耳から血が出て、一瞬意識を失っていたらしい。
彼女が私の耳を塞ぐようにして、痛みと血は止まった。
それからは耳鳴りで済むようになり、そのうち私はイーリスの声に慣れた。あの白い空間で一年は過ごしたんじゃないか。半年か、数ヶ月だったかも。
彼女が何度も耳に手を添えてくれ、あの霊薬を飲み続けたから平気になった? それでも、イーリスと普通に話せるほど身近になった気がして嬉しかった。
イーリスとは最初満足に会話ができなかった。
彼女は私が何を言っているのかを聞き取っていたが、私が彼女の言葉を聞き取れなかった。
だがまずは住む家が欲しかった。いつまでも白い空間にいるのは怖い。だが何故か帰りたいとは思わなかった。
多分私は、目覚めてからイーリスに心を奪われた瞬間、もう帰れないと理解していたのだ。
彼女に家が欲しいと言うと、不思議な空間を生み出した。
洞窟のような割れ目から中に入ると洞窟ではなかった。暗そうだったのに光に溢れていた。
あれをなんと例えたらいい? あの風景は抽象画のようだ。空間は上に続いていて、高いところに丸く寝床があった。羽毛のような柔らかい何かが敷き詰められてまるで鳥の巣だ。
イーリスにはまず地という概念から教えないといけなかった。空があって海があって川があって緑がある。
何度となく説明したが、彼女は理解せず、ただ首を傾げる。その仕草は好きだが、それでも私は世界が欲しかった。
いや欲しかったというか、住む場所だ。ちゃんと地面に立った家が欲しかった。廃屋でもいいから。
説明を続けると、イーリスは分かってくれたようだった。そう思ったら突然手で空間を撫でた。
次の瞬間、部分的に白が消えて目の前に大地が広がった。白の隙間から空が見えた。あの感動は忘れられない。
緑が少なく荒れて痩せた寂しい地だったが、十分だった。
もっと見渡す限りに世界が欲しかった。そう頼むと彼女はまた空間を撫でた。あの白を払うように。
そして、ここにはもともと世界があったのだと気がついた。イーリスは圧倒的な力で世界を白く覆い隠していたのだ。
最近になって理由を教えてくれた。暗くて寂しいのが嫌だったそうだ。
イーリスは暗い場所を極端に嫌った。
世界が開けてすぐ、洞穴を見つけた。だが彼女はひどく嫌がって近寄らなかった。
だが私はそこに寝泊まりすることにして、彼女に手伝ってもらいながら火を起こした。そう言えばこの頃には私は、寝れはするが睡眠を必要としない体になっていたようだ。あの霊薬のせいだろうか。
私が枯れ枝を拾い集めるとそれを見ていた彼女が木を観察して、豊かな森を作った。あれには驚いた。
ほとんど水がない川を指すと、途端に水が流れた。
地面に枝で魚の絵を描くと、彼女はそれはすぐに理解して川に魚があふれた。だが私は知らない種類のものだった。地面には草と花が芽吹いた。
私たちは広がった世界を少しずつ豊かにした。
イーリスが次に嫌ったのは寂しさだ。だがそれは私にも言えるだろう。
洞穴で一週間も寝泊まりすると、嫌がって来なかったイーリスが私の横に丸くなって眠るようになった。
彼女には睡眠が必要なのだろうか? これは今でも分からない。
この頃から言葉を作り始めて、かなりの時間が経ったと思う。
そしてようやく、今、これは書けるほどのものになった。
お陰で彼女との意思疎通がスムーズになった。
だが彼女がこれを好きではないし、もっときちんと作るべきだ。私はこれが好きだが彼女の気持ちが大事だ。
今日イーリスと関係を持った。私も彼女に愛されていたようだ。この気持ちを言葉にできない。
だが正直、女神だからそういうことはできないと思っていた。いや、正確には人間相手では駄目だと。
イーリスが泣いた。初めて涙を見た。
彼女が初めて、身の上を話してくれた。
彼女はもともと別の世界に住んでいた神だったようだ。
だからだったのか。世界を作る時、私の足りない説明でも時々妙に出来が良いものを作ると思った。
真の姿を見せてくれたが、架空の生物でしかなかったドラゴンだった。全身が白く、つのと瞳が七色に光って美しい。翼は蝙蝠のようだが羽毛のような体毛があった。
彼女はその世界ではこの姿で、暗い洞窟に追いやられて暮らしていたらしい。
人間を助けていたが、ある時、兄である神から追い出されたのだそうだ。
理由を聞くと、彼女は邪神、と言って泣いた。何度も邪神と泣き叫んだ。
兄は力が強く、イーリスは人間を守りたかったが負けてしまった。
そして暗く大きな裂け目に投げ込まれ、気がついたらここにいたのだと。
可哀想なイーリス。邪神とは言え実の兄に暗い洞窟に追いやられて、ただでさえ悲しかっただろうに。しまいにはこんな暗くて寂しい世界に追放されるとは。
イーリスが妊娠した。腹が膨らんでいた。
まさか生殖機能があると思わなかったし、関係を持って少ししか経っていない。神の、いやドラゴンの子か?
ドラゴンだから子孫を残せるのだろうか。
腹が膨らんで一週間、息子が生まれた。イーリスの本体は大きいから、もっと長く妊娠しているものだと思ったが、やはり神だから特別なのだろうか。
愛せるか心配だったが杞憂だった。なんと可愛い、愛おしい存在なのだろう。
将来家庭を持ったら、生まれた子が男ならスバルと名付けようと思っていた。星が好きだから。
母国語で特別な字も考えていたのに、それはもう記憶にないから書けない。音を覚えていて良かった。
だがイーリスはこの名前をうまく発音できない。
だからシリウスという星を教えると、それを気に入ってくれたようだ。
シリウスは空に浮かべてもらったあの星だと教えると、この名前は特別だから、星には別の名前をつける、と彼女が言った。
スバルの成長はとても早い。あれから一ヶ月、やっとこれを書く余裕が出てきた。スバルはドラゴンになって崖の上や森の中で眠るのが好きな子だ。
生まれてからすぐに言葉を解したため、沢山のことを教えた。
イーリスは何故かスバルを遠ざける。よく遠目に見ているから、愛してはいるようだ。だがどう接していいのか分からないらしい。兄の姿を思い出すからだろうか。
イーリスがスバルを真似て子供を作った。十三人も。
私と交わって妊娠した子ではない。ある日目が覚めると十二人の幼い子供たちが私を取り囲んで笑っていた。
一ヶ月経って、やっとこれを書こうと思えた。
正直に言うと、恐ろしかった。我が子だとは思えない。
皆私を父と呼んでとても慕ってくれるのに。
最後の一人は何故か赤ん坊の姿だった。イーリスが抱っこをして、とても可愛がっていた。
小さくて光り輝いていて、しかしその子もあっという間に成長した。
その姿を見ていると、ふと浮かんだ言葉があった。カグヤ姫のようだ。あれは何というお話だったか。確か月から来た子の話だ。
だがやはりイーリスは発音できなかった。月の女神の名前が確かセレネだ。教えるとイーリスは喜んだ。末娘の名前はセレネだ。イーリスが特別に愛する娘だ。
十三人の子はドラゴンにはなれないようだ。イーリスに聞くと、ドラゴンが欲しいのか尋ねられた。まるでペットのように言うからおかしくて、欲しいと言った。
セレネは駄目だが十二人は作り直すと彼女が言ったので止めた。笑っていたから、冗談で言ったんだよな?
イーリスの様子がおかしい。時々クルスが私に群がると、激しく嫉妬する。最初は嬉しかったが、あの様子はどうもおかしい。
私の物忘れの正体が分かった。恐らくもう、私とあの世界の繋がりは切れている。
今日クルスがイーリスの逆鱗に触れて真っ黒な汚泥のようになった。イーリスはそれを指差してしきりにある言葉を叫んでいた。
自分がいた世界の言葉だろうか、アイドルと言う言葉に似ていた。私の世界の言葉では偶像という意味だ。
聞き返すと、イーリスがイドルと言い直した。
今日十二人の子たちが四方に国を作ると言って旅立った。
数日前に、子供たちが私のこの手記を持ち出そうとするから、イーリスに頼んでイタズラできないようにしてもらったばかりだったのに。
今日、南に出かけた子たちがある物を持ってきた。そばには幼い子供を数人従えていた。孫だと言われたが理解が追いつかない。
そして見せてくれたあれはどう見ても黒色火薬だ。私の記憶がまだ確かなら。
何故だ? イーリスもそれを知らない。私も教えていない。
ほんの数年前に、初めての集落を作ったと聞いたばかりなのに。怖い。
あの子たちは好奇心も強ければ、進歩と進化への欲が強すぎる。
色々なものを作り、掛け合わせていると言っていた。駄目だ、そんなに早くては。もっとゆっくり、自然に寄り添うように教えた。
素直な子たちで良かった。あの子たちは愚鈍であるくらいがちょうどいい。
その教えを広めるための組織を作ると言っていた。恐らく近いうちに宗教を興すだろう。
スバルとセレネだけが私を慰めてくれる。あの子たちは私の理解を超えない。
南は砂が多く子孫たちが病むと言っていた。イーリスと共に見に行った。
彼女は無尽蔵の泉を作って力の片鱗である鉱石で周りを覆っていた。清らかな水を与え、砂の地でも実る果実を沢山作った。
私が喜んだからか、彼女は他にも恵みを与えていた。これからこの国は資源豊かな国になるだろう。
東に行った子たちの子孫が喧嘩をしたとイーリスが言うので、共に見に行った。それは地面に血を流して倒れていた。
ああ、何ということだ。あれは生物だ。やはり人間だった。人間が生まれてしまったんだ。今まではどこかで、人間じゃないから大丈夫だと思っていた。何が大丈夫なんだ? こんな中途半端な世界でも、命は根付いてしまうというのに。
もう人間がかなりの数生まれている。イーリスは覆い隠していた世界を広げようとしているが、駄目だ。
イーリスは私の顔をよく見ていて、少しでも気に入らないとすぐに気づいて、その部分をぐちゃぐちゃにして作り変える。そこに人間がいても構わずに潰す。元に戻してもらうのに何度も説得しなければならない。
子供たちが四方に国を作っているここは一つの大陸だ。
イーリスにはこの大陸を囲う海を含めて、ある程度の範囲の外は白く覆い隠して、その外側へは行けないようにしてもらった。私の目の届く範囲でないと、彼女が何をしでかすか分からない。
既に海に出ようとしていた子供たちにも、遠洋航海の技術については封印するよう頼んだ。
漁も運搬も危険だが、それについては仕方ないだろう。慎重に導くよう言い含めてある。
だがいずれ、人間たちは自力でその術を獲得してしまう。宗教がそれをなるべく長く抑えてくれることを祈るしかない。
この世界の姿を秘密にしておくように言った。
隠さないと、あの子たちの子孫はあまりに平凡で、あまりに人間だったから。
だがそれも、いずれ人間たちは真実に辿り着く。
私がしたことは、ただの延命だ。いずれ何もかもが壊れてしまう、はりぼての世界の。
それでも人間は私が学んだ“人間”の姿らしく進歩しようとしているのだから。私が見守っていないと、管理しないと、イーリスがまためちゃくちゃにしてしまう。
クルスが私に愛情を示している。イーリスと同じ声で私の名を呼んで、愛を乞う。イーリスが激怒しクルスを殺してしまう。
イーリスの怒りで地が穢れ、イドルが次々と生まれてしまう。子供たちがいて良かった。イドルを浄化してくれる。
私は間違いを犯した。あれは封印されていたのだ。
イーリスは、イーリスこそが邪神だったのだ。
彼女に兄のことを問いただした。邪神と言ってまた泣いた。
兄が邪神なのか聞いた。するとイーリスは、教えてくれた。
拙い言葉で理解できたのは、兄は善神と呼ばれ、その兄が彼女を邪神と断じて裁いたということだ。
あれは、イーリスは封印された邪神だったのだ。
およそ神として必要な知性を備えておらず、人間たちに望まれるままに、元いた世界に混沌をもたらした邪神。
私が、それを呼び覚ましてしまったのだ。
帰ろうと思う。これが最後になるだろう。
恐らく私は帰れば死ぬし、この体がどこに行くかも分からない。だが、もうこれ以上この世界を壊させるわけにはいかない。
私がいるとイーリスは狂っていく。イーリスを愛している。スバルを愛している。この世界を愛している。
スバルに後を託そう。少し嘘をつくことになるが、優しいあの子ならこの世界を守ってくれる。
いつか化けの皮が剥がれて幼く醜い真実が露呈したとしても。
イーリスは幼いから、私が言葉巧みに言えば飲み込んでくれるだろう。幼いからすぐに忘れてしまい、同じことを繰り返してきた彼女だが、それでも、言い付けを破ったら二度と帰ってこないし会えないと言って去れば、恐らく長く耐えるはずだ。
イーリスに話をした。思った通り、頷いてくれた。また私と再会するために。
何度も私の名を呼ぶイーリスが愛おしい。
最後に私の名を記しておこう。イーリスが何度も愛おしげに呼んでくれた私の名。
私は、カケルだ。姓は忘れたし文字も覚えていないが。
私の名は、カケルだ。




